大患難前の携挙 ― 全3回の第2回
/ 2026年7月5日
さて、本日は「大患難前の携挙」を支持する12の理由について見ていきたいと思います。
ただし、取り上げる内容が非常に多いため、かなりテンポよく進めていきます。実際、この12の論点を2つのパートに分け、2回にわたるメッセージとしてお話しすることになるでしょう。検討すべき聖書の箇所があまりにも多すぎるからです。
それでは、始めましょう。
では、大患難前の携挙を支持する第一の理由です。最初の学びをお聞きになった方はお気づきかと思いますが、この「大患難」と呼ばれる事柄は、聖書の中では実際には「大患難」とは呼ばれていません。これから訪れる7年間の期間を表す正しい用語は、「ヤコブの苦難の時代」です。さて、ヤコブとはイスラエル、すなわちユダヤ人のことです。
私が言っているのは、セムの子孫の直系のことですね、よろしいでしょうか?
しかし、これから訪れるこの期間は「ヤコブの苦難の時代」と呼ばれています。なぜなら、それは特に神がイスラエルという国に対処される時期だからです。さて、聖書はユダヤ人について何と言っているでしょうか?
そうですね、最初から、ユダヤ人たちは「しるし」を求めていました。そこで、この「しるし」という言葉が聖書に初めて登場する箇所を、ここで読み上げたいと思います。
主はさらに彼に言われました。「さあ、あなたの手を胸の中に入れてみなさい。」彼は手を胸の中に入れました。そして、それを引き出したとき、見よ、その手は雪のように白癬に冒されていました。主は言われました。「もう一度、あなたの手を胸の中に入れてみなさい。」彼は再び手を胸の中に入れ、そこから引き出したところ、見よ、その手は元の肉と同じ状態に戻っていました。 もし彼らがあなたを信じず、最初のしるしの声にも耳を傾けないならば、後のしるしの声には信じるようになるでしょう。 また、もし彼らがこの二つのしるしも信じず、あなたの声に耳を傾けないならば、あなたは川の水を汲み取り、それを乾いた地に注ぎなさい。そうすれば、あなたが川から汲み取った水は、乾いた地の上で血となるでしょう。(出エジプト記 4:6-9)
さて、この言葉が聖書に初めて登場する箇所がここです。出エジプト記4章8節です。
そしてここには、彼らが後者のしるしの声を信じるだろうと書かれています。つまり、最初に手を川の中に入れ、胸の中に入れてから取り出し、それがらい病に冒されているのを見ても彼らが信じないなら、二度目に手を川に戻し、取り出した時にそれが清くなっているのを見て、彼らは信じるようになるということです。
これはなかなか興味深いことだと思います。もちろん、そこにはモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出す様子が描かれており、だからこそ『出エジプト記』と呼ばれるのです。それが『出エジプト記』という書物です。
しかし、与えられたしるしの一つに、水を血に変えるという出来事がありました。そして、大患難、すなわち「ヤコブの苦難」の時代に、まさに同じことが再び起こるというのは興味深いことではありませんか。最初の学びでも申し上げましたが、私はこれを「大患難」と呼ぶことにします。なぜなら、それが一般的に受け入れられている用語だからです。「大患難」という用語自体は、聖書には記載されていません。最初の学びをぜひお聞きください。
しかし、これは一般的に受け入れられている表現です。
「携挙」や「三位一体」といった言葉と同じようなものです。私はこの言葉を使います。皆さんが何を指しているのかお分かりでしょう。7年間にわたる「ヤコブの苦難」、ダニエル書の「70週」のことです。しかし、これらのしるしが再び現れているのがお分かりいただけるでしょう。
なぜでしょうか。それは、ユダヤ人がしるしを求めているからです。次に、出エジプト記31章12節をご覧ください。
主はモーセに語りかけて、こう言われました。「あなたもイスラエルの子らに告げなさい。『あなたがたは、わたしの安息日を確かに守らなければならない。それは、あなたがたの代々を通じて、わたしとあなたがたとの間のしるしとなる。あなたがたが、わたしがあなたがたを聖別する主であることを知るためである。』」(出エジプト記31章12~13節)
ですから、繰り返しになりますが、今日、多くの異邦人や、キリスト教徒を名乗る人々が、安息日を守らなければならないと主張し、日曜日に礼拝することは異教的な習慣であると言おうとしています。
もちろん、彼らは聖書についてかなり無知です。しかし、事実として、十字架の死の後、イエス・キリストは週の初日に弟子たちと会われました。それが日曜日です。
パウロも週の初日に説教を行い、献金も週の初日に行われました。ですから、日曜日に集まることは全く問題がなく、受け入れられることです。異教的でも、反キリスト的でも、そのような馬鹿げたことでもありません。
クリスチャンに安息日を守るよう命じられている箇所はどこにもありません。なぜでしょうか? それは、安息日がユダヤ人へのしるしとして与えられているからです。安息日とはそういうものです。それでは、マルコによる福音書16章17節を見てみましょう。
ここでもまた、イエス・キリストの復活後の出来事が記されており、イエスは弟子たちに、外に出て宣教するための指示を与えています。ちなみに、弟子たちはまずユダヤ人たちのところへ向かいます。
「信じる者たちには、次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい舌で語り、蛇を手に取り、たとえ毒のあるものを飲んでも害を受けず、病人に手を置けば、その人は癒やされる。」(マルコによる福音書 16章17-18節)
ここで少し立ち止まってみましょう。
現代の信仰治療者たちは、誰かを癒す力など持ち合わせていません。そして彼らはこう言います。「まあ、ご存知の通り、誰かに手を置いても、その人は癒されないことがありますよね。それは、あなたの信仰が足りなかったからです。あなたの問題でした。癒されなかったのはあなたのせいですよ。」いいえ、聖書が言っているのはそういうことではありません。聖書には、彼らが病人に手を置くと、その病人は癒されたと書かれています。 信仰など関係ありません。「さあ、癒やされなさい」と。パッと、その人は癒やされるのです。
ですから、こうした現代の信仰治療者たちには、惑わされないでください。
マルコによる福音書16章19節。
こうして、主が彼らに語られた後、天に上げられ、神の右の座に着かれました。そして、弟子たちは出て行き、至る所で福音を宣べ伝えました。主が彼らと共に働いて、しるしを伴わせて御言葉を確かなものにしてくださったのです。アーメン。(マルコによる福音書16章19-20節)
さて、「ヤコブの苦難の時代」の目的は何でしょうか。
それは、しるしを伴って御言葉を確証するためです。 現在、新約聖書を拒絶しているこれらのユダヤ人に対して、新約聖書を裏付けるしるしが7年間にわたって現れることになるのです。正統派のユダヤ人は、新約聖書を神からのものとして受け入れていません。彼らはそれを異端だと言っています。新約聖書は、救われていない人々によって書かれたものだ、といった具合です。彼らは新約聖書に同意していませんが、「ヤコブの苦難の時代」には同意することになるでしょう。
コリントの信徒への手紙一 1章22節
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を追い求めるからです。
これこそが、私がこれまで言及してきた聖句です。
コリントの信徒への手紙一 14章22節、「それゆえ、異言はしるしとしてあるのです。それは、信じる者たちのためではなく、信じない者たちのためなのです。」
彼らはこう言います。「聖霊のバプテスマの最初のしるしを受けましたか?」ええ、もちろんです。私は救われました。イエス・キリストを私の主であり救い主として受け入れました。私は血によって清められているので、聖霊も受けました。ご覧の通り、カリスマ派の教会では、聖霊は主とは別の時期に臨むと教えています。 つまり、イエス・キリストを受け入れた後、後で聖霊を受けなければならず、そうすることで聖霊の異なるレベルを持つことになるというのです。以前、戸別訪問をしていた時にある男性と話したことがありますが、彼は「いつも自分が望むほど聖霊に満たされているわけではない」と言っていました。
しかし、しるしを求めたのはユダヤ人たちでした。そして、使徒たちに与えられた真のしるしの賜物は、ユダヤ人のためのものでした。ユダヤ人が民族としてイエス・キリストを完全に拒絶したとき――もちろん、個々のユダヤ人で救われる人はまだいましたが――民族として、使徒たちが彼らに説教に出向いているにもかかわらずイエス・キリストを拒絶し、使徒たちを迫害し始めたとき、しるしの賜物は消え去りました。
分かりましたか? しるしは使徒たちに与えられたものです。
よろしいでしょうか? この点を理解しておくことは重要です。今日、しるしの賜物は存在しません。
よろしいでしょうか? とはいえ、それはまた別の研究テーマとなります。さて、ヤコブの苦難のこの時代に、他にしるしをもたらす者はいるでしょうか? はい。テサロニケの信徒への手紙第二2章8節です。
そのとき、あの不義の者が現れます。主は、御口の息によってその者を滅ぼし、御来臨の輝きによってその者を打ち倒されます。その者の来臨は、サタンの働きによるものであり、あらゆる力と、しるしと、偽りの不思議を伴っています。
反キリストが現れたとき、彼は偉大で驚くべきしるしや不思議を行って人々を惑わすことになるでしょう。 10節。
そして、滅びゆく者たちには、不義のあらゆる欺きが働きます。それは、彼らが救われるために真理を愛することを受け入れなかったからです。
さて、話を続ける前に、ここには「救われるべきであるにもかかわらず、真理の愛を受け入れなかった」と書かれています。
これはクリスチャンのことでしょうか? いいえ。
続きをお話ししましょう。11節です。
さて、これらの聖句は、現在の教会時代におけるクリスチャンとは全く関係がありません。わかりましたか。エペソ人への手紙4章30節には、あなたがたは約束の聖霊によって封印されているとあります。今日のクリスチャンは、今この瞬間、封印されています。あなたは血によって清められています。救いが失われることを心配する必要はありません。なぜなら、それはあなた自身の救いではないからです。
分かりましたか? 神様があなたを救われたのです。神様はご自身の血によってあなたを贖われたのです。
そして、ある人がこう言おうとしているのを耳にしました。「これは、大患難を乗り越えられないクリスチャンについて言及している。彼らは反キリストを受け入れ、その結果、救いを失うからだ。彼らは滅びるのです。そして、神は彼らに強力な惑わしを送られるのです。」
いいえ、神は、一度も救われておらず、真理の愛を受け入れない人々に、強い惑わしをお送りになるのです。つまり、これは救われた人々が救いを失うという話ではありません。
さて、ユダヤ人たちは新約聖書を裏付けるしるしを与えられるのでしょうか? ええ、すでに申し上げた通りです。そして、彼らに与えられる最も偉大な二つのしるしは、『ヨハネの黙示録』第11章に記されています。
黙示録11章3節にはこうあります。
「わたしは、わたしの二人の証人に権威を与える。彼らは、荒布を身にまとい、千二百六十日間、預言するであろう。彼らは、地の神の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。 もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くします。また、もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、その者はこのようにして殺されなければなりません。彼らには、預言している間、天を閉じて雨が降らないようにする力があり、また、水を血に変え、望むたびにあらゆる災いで地を打つ力があります。(黙示録11:3-6)
ところで、このことをよく調べてみると、この二人の証人は、イエス・キリストと共に変容の山に現れた二人の人物であると、私は信じています。 では、彼らは誰だったのでしょうか。モーセとエリヤです。新約聖書では「エリアス」と記されていますが、これはギリシャ語からの翻訳によるものです。しかし重要なのは、彼らがモーセとエリヤであるということです。つまり、ここにはもともとイスラエルの民をエジプトの地から導き出したモーセが登場しています。
そして今、ヤコブの苦難の時代に、モーセが再び現れ、彼らをソドムとエジプトから導き出し、反キリストから遠ざけるのです。
それでは、ここから読み進めていきましょう。
黙示録11章7節です。
そして、彼らが証しを終えたとき、底知れぬ穴から上って来る獣が彼らと戦いを繰り広げ、彼らに打ち勝ち、彼らを殺すでしょう。そして、彼らの死体は、霊的にソドムとエジプトと呼ばれる大いなる都の通りの上に横たわることになります。そこは、私たちの主が十字架につけられた場所でもあります。
つまり、ヤコブの苦難の時代におけるエルサレムは、良い場所ではないのです。
そこはソドムとエジプトと呼ばれています。
ヨハネの黙示録 11:9。
そして、諸国民、諸部族、諸言語、諸民族の人々は、三日半の間、彼らの死体を見ることになり、その死体を墓に葬ることを許さないでしょう。
さて、これもまた成就した預言の一つです。テレビやスマートフォンのライブ配信がなければ、世界中のあらゆる人々――あらゆる国、言語、民族、部族――が、3日半もの間、路上に横たわる死体を目にすることは不可能だったでしょう。
つまり、また一つ、驚くべき預言が成就したのです。今や私たちにはその技術があります。そしてもちろん、それは反キリストがそれを利用することになることも示しています。
しかし、10節をご覧ください。
地に住む者たちは、この二人の預言者たちを喜び、祝宴を催し、互いに贈り物を送り合うでしょう。なぜなら、この二人の預言者は、地に住む者たちを苦しめたからです。そして、三日半の後、神からのいのちの霊が彼らに入り、彼らは立ち上がりました。それを見た者たちには、大きな恐れが襲いかかりました。そして、彼らは天から大きな声が、「ここへ上って来なさい」と言うのを聞きました。 そして、彼らは雲に乗って天に昇り、敵たちはそれを見届けました。その瞬間、大地震が起こり、都の十分の一が崩れ落ち、その地震によって七千人が死にました。残された人々は恐怖に襲われ、天の神を賛美しました。(ヨハネの黙示録 11:7-13)
これが、ヤコブの苦難の時代に起こるであろうこれらすべての恐ろしい出来事の理由の一つです。というのも、現在、人々は、神を嘲笑したり、神をからかったり、聖書をあざ笑ったり、好きなだけ神を冒涜したりすることを、まったく恐れていないからです。
しかし、神がこの地球に七年間、御怒りを注ぎ始めると、人々は神に栄光を帰し始めるでしょう。それは、彼らが救われて天国に行くという意味ではありません。ただ、彼らが「ああ、神は実在するのだ」と認識し、神に対する恐れを抱くようになるということです。そして、聖書は「主を畏れることは知恵の初めである」と教えています。つまり、そういうことなのです。
マタイによる福音書24章29節。
「その日の苦難の直後に、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の力は揺さぶられるでしょう。」
さて、これは再臨について述べているものであり、初臨ではなく、再臨のことです。
そして、天に人の子のしるしが現れます。その時、地上のすべての部族は嘆き悲しみ、人々が、力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来る人の子を見るのです。
「部族」とは誰のことでしょうか?
そうですね、12の部族がいますよね?『ヨハネの黙示録』第7章に登場する12のユダヤ人の部族です。
ですから、彼らは天に現れる人の子のしるしを目にすることになるのです。私が「大患難前の携挙」を信じる第一の理由は、大患難がクリスチャンのためのものではないからです。それはユダヤ人のためのものです。そして、ユダヤ人はしるしを求めています。だからこそ、それは「教会の患難の時代」ではなく、「ヤコブの患難の時代」と呼ばれるのです。
二つ目の理由は、反キリストが再建された神殿に立つということです。
さて、マタイによる福音書24章15節にはこう記されています。
「それゆえ、預言者ダニエルが語った『荒廃の憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たら、読む者は、それを悟りなさい。」
さて、これを読む人々のほとんどは理解していません。なぜなら、彼らはディスペンセーション主義者ではないからです。 コリントの信徒への手紙第一 6章19節にはこうあります。
「何ですって? あなたがたの体は、あなたがたのうちにおられる聖霊の神殿であり、それは神から受けたものであり、あなたがたは自分自身のものではないことを、知らないのですか?」(コリントの信徒への手紙第一 6章19節)
お分かりのように、現時点において、クリスチャンには、人の手によって建てられた物理的な建物としての「聖所」はありません。そのようなものは存在しないのです。
しかし、「ヤコブの苦難の時代」には、そうなるでしょう。正確には、ユダヤ人たちがそうなるのです。
さて、クリスチャンの皆さん、あなたの体は聖霊の宮なのです。
さて、コリントの信徒への手紙第二6章16節は、さらに踏み込んでこう述べています。
「神の神殿と偶像とが、どうして一致し得ましょうか。あなたがたは、生ける神の神殿なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの中に住み、彼らの中を歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」 それゆえ、『主は言われる。「あなたがたは、彼らの間から出て、彼らとは区別されなさい。汚れたものには触れてはならない。」そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、あなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となるであろう』と、全能の主は言われる。(コリントの信徒への手紙第二 6章16~18節)
さて、もし反キリストが聖なる場所に立つとするなら、それは彼がクリスチャンの体の中に立つことを意味するのでしょうか。もちろん、そうではありません。
反キリストは、エルサレムに再建される神殿に立つことになるのです。
そのことについては、聖書の他の箇所でも読むことができます。ダニエル書にも、そのことが書かれています。
それでは、話を続けましょう。三つ目の理由として、大患難の福音は私たちの福音とは異なります。今、必要なのは「信仰」だけであり、それ以外に何も必要ありません。よろしいでしょうか?
十字架上で流された主イエス・キリストの血に対する信仰こそが、今この瞬間にあなたが救われる道なのです。善行は、キリストの裁きの座での報いを受けるためだけに存在するものです。よろしいでしょうか? 救われるために、いかなる行いをする必要もありません。あなたがすべきことは、ただ主イエス・キリストを信じるだけであり、そうすれば救われるのです。
よろしいでしょうか? しかし、マタイによる福音書24章13節にはこう書かれています。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、救われる。」
さて、真理の御言葉を正しく解釈せずに、教義的には旧約聖書に属するマタイによる福音書24章に戻ると――これについては後で詳しく見ていきますが――その聖句を取り上げて、「ほら、最後まで耐え忍ばなければならない」と言うのです。そして、もし最後まで耐え忍ばなければ、救いを失うことになる、と。 ほら、人々はこう言います。「まあ、私はこの『大患難前の携挙』という件について、それほど大げさに考えるつもりはありません。」 しかし、私はそれに同意できません。というのも、人々が「大患難期を経なければならない」と信じ始めると、教理的に混乱してしまうからです。そして、彼らが最初に道を外れてしまう教理の一つが、「永遠の保証」を信じなくなることです。なぜなら、大患難期にいる人にとって、14万4千人の一人でない限り、永遠の保証は適用されないからです。それは、彼らが「封印」されているからです。分かりましたか? 現在、すべてのクリスチャンは封印されています。大患難の時期には、14万4千人のユダヤ人だけが封印されることになります。それ以外のすべての人は、イエス・キリストへの信仰を持たなければなりません。また、行いも求められます。その「行い」とはどのようなものか、これからお示しします。
ヨハネの黙示録14章9節です。
三番目の天使が彼らに続いて現れ、大声でこう言いました。「もし、だれでも、獣とその像を礼拝し、額や手にその印を受けるなら、その人は、神の怒りの杯に、混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲むことになります。そして、聖なる御使いたちと子羊の御前で、火と硫黄によって苦しめられることになります。 彼らの苦しみの煙は、永遠に上り続けます。また、獣とその像を礼拝する者、およびその名の印を受ける者は、昼も夜も休むことがありません。ここに聖徒たちの忍耐があります。ここに、神の戒めを守り、イエスの信仰を保つ者たちがいます。(黙示録 14:9-12)
つまり、行いもあれば、信仰もあるのです。
今のところ、獣の印を受けることについて心配する必要はありません。なぜでしょうか?
それは、獣がまだ現れていないからです。
現在、埋め込み型マイクロチップなどの技術は存在し、彼らは確かにそれを人々に埋め込みたいと考えていますが、獣が現れるまでは、そのことについて心配する必要はありません。後で説明しますが、獣はクリスチャンが天国に行くまでは現れないのです。しかし、ここでは先走って話したくありません。
さて、ヤコブの手紙1章1節です。ヤコブの手紙第2章は、多くの説教者が誤解しがちな箇所の一つです。そこで、それらの節をいくつか見ていきますが、ヤコブの手紙1章1節にはこう書かれています。
「神と主イエス・キリストのしもべであるヤコブから、各地に散らされている十二部族の皆さんへ、ご挨拶を申し上げます。」
ヤコブの手紙は、誰に向けて書かれたのでしょうか?
12部族です。12部族はいつ現れるのでしょうか?
今、存在しているのでしょうか?いいえ。エルサレムに行って、「12部族はどこにいるのですか?」と尋ねるようなことはしないでしょう。今、そこにはいないのです。 さて、中には「私の家系はベニヤミンや他の部族に遡ることができる」と言う人もいるかもしれません。しかし、12部族は現在、公式には認められていません。それらは「ヤコブの苦難の時代」に現れることになります。黙示録第7章を読んでみてください。そこでも再び彼らが現れることが記されています。
現在、聖書は「ユダヤ人もギリシャ人もありません。男も女もありません。奴隷も自由人もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つです」と教えています。もしあなたが今日救われているなら、あなたはクリスチャンです。よろしいでしょうか? 弟子たちが初めて「クリスチャン」と呼ばれたのはアンティオキアでした。弟子たちは誰だったのでしょうか? 彼らはユダヤ人でした。
アンティオキアで、12人の弟子が「12部族」と呼ばれたとは書かれていません。
いいえ、彼らは「クリスチャン」と呼ばれたのです。
しかし、大患難の時期になると、そこには違いが生じます。神は再びイスラエルの国民と向き合い始めているのです。
現時点では、彼らはいわば後回しにされており、ヤコブの苦難の時代に導かれ、懲らしめを受け、王国が与えられる前に新約聖書を裏付けるしるしを与えられるのを待っているのです。
ですから、ヤコブの手紙からは、教えや義を得ることができますが、その内容は主に「12部族」に向けて書かれたものです。さて、これを今日のクリスチャンに適用しようとすると、どのような問題が生じるか、いくつかご説明しましょう。
ヤコブの手紙2章14節。
「兄弟たちよ、人が『信仰がある』と言っても、行いがなければ、何の益があるでしょうか。その信仰が、その人を救うことができるでしょうか。」
さて、この質問にお答えください。今日、信仰によって救われることはできるでしょうか? もちろんです。
さて、もし聖書全体がクリスチャンに当てはまるとおっしゃるなら、この二つの箇所をどのように調和させるおつもりでしょうか?
だからこそ、マルティン・ルターは「ヤコブの手紙から火をつけたい」と述べたのです。ご覧の通り、マルティン・ルターは聖書を「時代区分論」の観点から見ていなかったため、そこに明らかな矛盾があることに気づくことができませんでした。聖書自体が矛盾しているのではなく、その解釈に矛盾があったのです。
さて、彼の解釈については、時代区分論的に見なければなりません。「ヤコブは12部族に向けて書いている」と理解する必要があるのです。12部族はいつ現れたのでしょうか?
それらは「ヤコブの苦難の時代」に現れます。そして、その時代においては、福音は私たちの時代とは異なっています。 救いには「行い」の要素が含まれています。イエス・キリストを信じていても、もし「獣の印」を受ければ、救いを失うことになります。「もし誰かが、その像や獣を礼拝するなら」と書かれています。「誰かが」とあり、イエス・キリストを信じているかどうかは関係ありません。ですから、大患難時代のユダヤ人であろうと異邦人であろうと、救いには「行い」の要素が含まれているのです。
ヤコブの手紙2章17節。
それと同様に、行いの伴わない信仰は、それだけでは死んだものです。
これは患難期の聖徒には当てはまりますが、クリスチャンには当てはまりません。
ヤコブの手紙 2章24節。
ですから、人は行いによって義と認められるのであり、信仰だけによるのではないことがお分かりでしょう。同様に、娼婦ラハブも、使者たちを迎え入れ、別の道へ送り出したとき、行いによって義と認められたのではありませんか。霊のない体は死んでいるのと同じように、行いのない信仰もまた死んでいるのです。
繰り返しになりますが、これは「大患難の聖徒」には当てはまりますが、私たちが現在置かれている「教会時代」のクリスチャンには当てはまりません。さて、私が「大患難前の携挙」を信じる四つ目の理由は、コリントの信徒への手紙第一15章で、パウロが携挙を「奥義」であると述べているからです。
それでは、ヨハネによる福音書第10章を見てみましょう。なぜそれが「奥義」と呼ばれたのか、お見せします。ヨハネによる福音書10章1節です。
ここでは、イエスがユダヤ人たちに語っておられます。
よろしいでしょうか? イエスはこう言われます。
まことに、まことに、あなたがたに言います。戸から入らずに、他の道から羊小屋に登ってくる者は、盗人であり、強盗です。しかし、戸から入る者は、羊の牧者です。門番は彼のために門を開きます。羊は彼の声を聞き分けます。彼は自分の羊を名指しで呼び、外へ導き出します。 そして、自分の羊を連れ出すとき、彼はその先頭に立ち、羊たちは彼に従います。彼らは彼の声を知っているからです。見知らぬ者には従わず、むしろその者から逃げ去ります。彼らは見知らぬ者の声を知らないからです。イエスはこのたとえ話を彼らに語られましたが、彼らはイエスが何を語っておられるのか理解できませんでした。(ヨハネによる福音書 10:1-6)
さて、ここではイエス・キリストが彼らにこのたとえ話を語っておられます。そして、これは携挙についてのたとえ話です。
はい、非常に、非常に明確です。イエスはご自身の羊を名指しで呼び、彼らを導き出されます。
そして、イエスは「わたしこそが門である」とおっしゃいました。さて、これから数分後に、これが間違いなく「携挙」であることをお示しいたします。しかし、「再臨」については、よく知られた事実でしたよね? ヨエル書には、そのことについて何度も記されています。太陽が暗くなり、月が暗くなり、月が血のようになること、そして星が天から落ち、その後、人の子が戻って来ることなどが語られています。これらのことはすべて、ヨエル書に記されています。ですから、これらのユダヤ人たちは再臨について知っていました。
しかし、彼らは「携挙」については知りませんでした。
ですから、彼らは皆、集まってこう言っていたのです。「彼は一体何のことを言っているのか? イエス・キリストが再臨される時、どこで羊たちを呼び集めるのか? どこで『扉』として現れるのか? そして、どこへ彼らを導き出すのか?」
イエス様は再臨の際に降りてこられます。
イエス様は、誰一人として連れ出したりはしません。分かりましたか?そして、彼らは混乱しています。「一体、何を言っているんだ?」と。それでは、ここから続けましょう。7節、ヨハネによる福音書10章7節です。
そこで、イエスは再び彼らにこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊の門です。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗です。しかし、羊たちは彼らの言うことを聞き入れませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われ、出入りし、牧草地を見つけることができます。」(ヨハネによる福音書 10:7-9)
さて、このことを「携挙」の教えと照らし合わせて考えてみましょう。
大患難前の携挙において、イエス・キリストは雲に乗って来られ、私たちを呼び出されます。
よろしいでしょうか。私たちはイエス・キリストと共に天に入ります。雲の中で主と出会うために上り、それから主と共に天へと戻ります。私たちは天に入るのです。黙示録第19章に書かれています。そして、イエス・キリストと共に地上へと戻ってきます。よろしいでしょうか。
つまり、私たちは天から出てきます。そして、ここ地上に降りてきたら、何をするのでしょうか?牧場を見つけるのです。私たちは、エルサレムから統治し、支配される「王の王、主の主」であるイエス・キリストと共に、千年王国に入ります。
それが、彼が語っていることなのです。
よろしいでしょうか?これは再臨とは何の関係もありません。だからこそ、ユダヤ人たちはこれを理解できなかったのです。
それでは、ここで別の聖句を読み上げましょう。
『ヨハネの黙示録』4章1節です。
その後、私が見ていると、見よ、天に門が開かれていました。
イエスは何とおっしゃいましたか? 「わたしは羊の門である」とおっしゃいました。
そして、私が最初に聞いた声は、まるでラッパのような声で、私に語りかけていました。「ここへ上ってきなさい。これから起こるべきことを、あなたに示しましょう。」すると、たちまち私は御霊に満たされ、見よ、天には御座が設けられ、その御座にはお方がお座りになっておられました。(黙示録4章1~2節)
ヨハネは、キリストの体の携挙を体験したのです。よろしいでしょうか?
彼は時間を飛び越えて未来へと運ばれたのです。だからこそ、彼は大患難を目撃したのです。大患難はまだ起きていません。ですから、ヨハネが見て書き記したのは、過去のことではありませんでした。いいえ、主は彼を時間を飛び越えて、私たちの未来へと実際に連れて行かれたのです。
わかりました。それでは、ヨハネの福音書第10章に戻りましょう。これから10節を見ていきます。
「盗人は、盗み、殺し、滅ぼすために来るのです。しかし、わたしは、羊たちがいのちを得、しかも豊かに持つために来たのです。わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは、羊のために自分のいのちを捧げます。」(ヨハネ10:10-11)
イエス様は、羊たちのためにご自身の命を捧げられましたか?はい。
12節です。
しかし、雇い人であり、羊飼いでない者、すなわち羊が自分のものではない者は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げ去ります。すると、狼は羊を捕らえ、散らしてしまいます。雇い人は、雇い人であるゆえに逃げ去るのです。彼は羊のことを気にかけていないからです。(ヨハネによる福音書 10:12-13)
世の中には、誤った教えに立ち向かう勇気を持たない説教者がどれほど多いことか、それは少し悲しいことです。
そして、それは勇敢さや勇気の問題ではありません。信念の問題なのです。
何かが間違っていると分かっているなら、それに立ち向かう責任があります。
しかし、多くの場合、雇い人は、自分が監督者として預かっている羊を実際に守るということよりも、自分の給料のことを気にかけているのです。
さて、別の話題に移りましょう。
では、14節、ヨハネによる福音書10章14節です。
「わたしは良い羊飼いです。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っています。父がわたしを知っておられるように、わたしも父を知っています。そして、わたしは羊のために命を捨てます。また、この囲いにはいない他の羊も、わたしにはいます。」
彼は誰に話しているのでしょうか。ユダヤ人たちに話しているのです。そしてここで、「この囲いにはいない他の羊たちも、わたしにはいる」と述べています。さて、彼は誰のことを指しているのでしょうか。
異邦人のことです。
「彼らもまた、わたしが導き入れなければなりません。そうすれば、彼らはわたしの声を聞くでしょう。そして、一つの群れ、一人の羊飼いがなるのです。」(ヨハネによる福音書 10:16)
携挙によって天国に上ったとき、物事はそう簡単にはいきません。「さあ、ユダヤ人の皆さんは天国のあちらの区画へ、異邦人の信者たちはあちらへ」といったことにはならないのです。 ペテロやパウロ、ヤコブやヨハネが一方のテーブルに座り、異邦人の信者たちがもう一方のテーブルに座っている、といったことにはなりません。いいえ、私たちは皆、一つになるのです。
では、17節です。
それゆえ、わたしの父はわたしを愛しておられます。それは、わたしが自分の命を捨てて、再びそれを取り戻すためだからです。だれもわたしからその命を奪うことはできません。わたしが自らそれを捨てるのです。わたしには、それを捨てる力があり、また、再び取り戻す力もあります。この戒めは、わたしの父から受けたものです。
19節をご覧ください。
そこで、これらの言葉によって、ユダヤ人たちの間には再び分裂が生じました。
真理は常に人々を分断するものです。
コリントの信徒への手紙第一 15章51節。
そしてここに、その奥義があります。
パウロはこう言います。
「見よ、私はあなたがたに奥義を明かします。私たちは皆、眠るわけではありませんが、皆、変えられるのです。それは、一瞬のうちに、瞬く間に、最後のラッパが鳴るときに起こります。ラッパが鳴り響き、死者は朽ちることのない体でよみがえり、私たちも変えられるのです。」(コリントの信徒への手紙一 15:51-52)
ここでパウロは、ヨハネの福音書第10章でイエス・キリストがユダヤ人たちに語られた「奥義」について語っています。当時、彼らはそれを理解できず、実際には誰も本当に理解していませんでした。彼らは皆、単に再臨があるだけだと考えていたのです。 キリストのからだの携挙については、誰も知りませんでした。しかし、ここでパウロはそれについて語っています。そして、彼が「瞬く間に」と述べていることに注目してください。もし覚えていらっしゃれば、黙示録4章2節でも、彼はこう言っています。
「すると、たちまち私は御霊に満たされました。」
つまり、それは「瞬く間に」起こったのです。さて、イエス・キリストが再臨されるとき、太陽が暗くなり、月が暗くなり、星が天から落ち、そして人の子が雲の中に現れるとき、それは「瞬く間に」起こるわけではありません。 さて、携挙は瞬く間に起こります。さて、5番目、私が大患難前の携挙を信じる5つ目の理由は、キリストの再臨において、死んだ聖徒たちの復活について全く言及されていないからです。
コリントの信徒への手紙第一15章53節です。ここからはコリントの信徒への手紙第一を読み進めていきましょう。そこにはこう書かれています。
「この朽ちるべきものは、朽ちないものを着なければならず、この死ぬべきものは、不死を着なければなりません。ですから、この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが不死を着たとき、『死は勝利に飲み込まれる』と書かれている言葉が成就するのです。『死よ、お前の刺はどこにあるのか? 「墓よ、あなたの勝利はどこにあるのか。」死の刺は罪であり、罪の力は律法です。しかし、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。(コリントの信徒への手紙第一 15:53-57)
ここでの復活については、瞬く間に、一瞬のうちに、目を見張るほどの速さで変えられることが語られています。バッと。最後のラッパの響きと共に、これについては後で詳しく触れます。
テサロニケ人への手紙第一 4章16節。
主ご自身が、叫び声と、大天使の声と、神のラッパの音とともに、天から降って来られます。そして、キリストにあって死んだ者たちがまずよみがえります。それから、私たち生き残っている者が、彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と出会うのです。そうして、私たちはいつも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。(テサロニケの信徒への手紙第一 4:16-18)
再臨の場面で、それはどこにあるのでしょうか?
死んだ聖徒たちが空中で主と出会うために上って行き、その後、生きている聖徒たちも上っていくという記述が、どこにあるのでしょうか。どこに書かれているのでしょうか。そこにはありません。再臨に関する箇所を読んでみてください。今からその一部を見ていきましょう。
マタイによる福音書17章1節。
それから六日後、イエスはペテロ、ヤコブ、そしてその兄弟ヨハネを連れて、人里離れた高い山に登られました。そして、彼らの前で姿を変えられました。その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなりました。すると、見よ、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていました。(マタイによる福音書 17:1-3)
ある方から手紙をいただき、コリントの信徒への手紙第一15章51節から57節は復活について書かれているとおっしゃっていました。
そして、これが彼らが知らなかった「奥義」だとのことです。しかし、それは正しくありません。なぜなら、ここにはマタイによる福音書17章1-3節、すなわち変容の山の話があるからです。モーセとエリヤが現れています。
はい、彼らは確かに、亡くなった聖徒たちが復活することを知っていました。
そうです、彼らはまさにその場で二人の姿を目撃したのです。
ところで、そこにモーセとエリヤが登場しますが、私は彼らが大患難の時の二人の証人であると信じています。
さて、マタイによる福音書22章31節を見て、再び死者の復活について考えてみましょう。
「しかし、死者の復活については、神があなたがたに語られたことを読まなかったのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と。神は死者の神ではなく、生ける者の神なのです。」群衆はこれを聞いて、その教えに驚きました。(マタイによる福音書 22章31~33節)
マタイによる福音書 27章52節。
すると、墓が開き、眠っていた多くの聖徒たちの遺体がよみがえり、イエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々の前に現れました。(マタイによる福音書 27:52-53)
コリントの信徒への手紙第一15章にある「奥義」について、それは復活に関するものだったと言う人もいます。いいえ、そうではありません。人々は復活についてすべて知っていました。わかりますか? 彼らは、死んだ聖徒たちが生き返るのを見たのです。そして、彼らが骸骨や半分腐った死体として歩き回っていたとは思いません。彼らは復活の体を持っていたのだと思います。
しかし、繰り返しになりますが、旧約聖書の聖徒たちは、教会時代の聖徒たちとは別のグループなのです。
これもまた、全く別の話なのです。
それでは、ここから続けていきましょう。さて、ここで再臨について見ていきましょう。これはマタイによる福音書第24章です。これは、新約聖書全体の中で、再臨について語られている最も重要な章です。マルコによる福音書第13章や、ルカによる福音書第21章(確かそうだったと思います)も、再臨について語っています。しかし、マタイによる福音書第24章は、ほとんどの人が参照する箇所です。それでは、そこを見ていきましょう。
マタイによる福音書24章40節です。
これは、人の子が雲に乗って来られる後のことです。そこにはこう書かれています。
「その時、二人が畑にいると、一人は連れ去られ、もう一人は残される。二人の女が臼で粉を挽いていると、一人は連れ去られ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主がいつ来られるか、あなたがたには分からないからである。」(マタイによる福音書24章40~42節)
さて、石臼で粉を挽いていた二人の女性のうち、一人は連れ去られ、もう一人は残されました。そのうちの誰かが死んで埋葬されていたのでしょうか?
いいえ。二人とも生きています。「畑に二人がいる。一人は連れ去られ、もう一人は残される。」
どちらかが死んでいたのでしょうか?いいえ。これらは生きているユダヤ人たちです。
分かりましたか?ですから、コリントの信徒への手紙第一15章が復活について書かれているという説に惑わされないでください。それは携挙について書かれているのではありません。いいえ、それは携挙について書かれているのです。
それが明らかにされた「奥義」なのです。
パウロがそれについて書く前から、人々は死者の復活について知っていました。分かりましたか? パウロは復活について書いているのではありません。彼は携挙について書いているのです。
さて、私が、現在生きているクリスチャンと、すでに亡くなって携挙を待っているクリスチャンについて、大患難前の携挙を信じる六つ目の理由です。
第六の理由は、7年間の「ヤコブの苦難」が始まる前に、天には血によって贖われた異邦人がいるからです。黙示録4章1節です。先ほど読みましたが、もう一度読み上げます。
その後、私が見ていると、見よ、天に門が開かれました。そして、私が最初に聞いた声は、まるでラッパの音が私に向かって語りかけるかのようでした。その声は言いました。「ここへ上って来なさい。これから起こるべきことを、あなたに示しましょう。」すると、たちまち私は御霊に満たされ、見よ、天に御座が設けられ、その御座に一人の方が座しておられました。 その座におられる方は、ジャスパーとサルディオンの石のようなお姿でした。また、御座の周囲には虹があり、その輝きはエメラルドのようでした。御座の周囲には二十四の座があり、その座には、白い衣をまとった二十四人の長老たちが座っており、彼らの頭には金の冠が載っていました。(ヨハネの黙示録 4:1-4)
さて、この二十四人の長老たちは一体誰なのでしょうか。ここから読み進めてみましょう。
黙示録 4:10。
二十四人の長老たちは、御座に座しておられる方の前にひれ伏し、永遠に生きておられる方を礼拝し、御座の前に冠を投げ捨てて、こう言いました。「主よ、あなたは栄光と誉れと権威を受けるにふさわしい方です。あなたはすべてのものを創造されたからです。それらは、あなたの御心によって、今あるものであり、また創造されたのです。」(黙示録 4:10-11)
さて、これからこの24人の長老たちについて掘り下げていきますが、その前に、まずこの人たちはどこからその冠を得ているのか、という点について見てみたいと思います。この24人の長老たち、すなわちこれらの男性たちは、どこでその冠を得たのでしょうか?
さて、ローマ人への手紙14章10節にはこうあります。
「しかし、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。あるいは、なぜ兄弟を軽んじるのですか。私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立つことになるのですから。」
コリントの信徒への手紙第二 5章10節。
私たちは皆、キリストの裁きの座の前に現れなければなりません。それは、各人が、善であれ悪であれ、この身で行ったことに応じて報いを受けるためです。(コリントの信徒への手紙第二 5章10節)
コリントの信徒への手紙第一 3章11節から15節は、このキリストの裁きの座について最もよく述べられている箇所です。
コリントの信徒への手紙第一 3章11節には、次のように記されています。
「だれも、すでに据えられている土台以外の土台を据えることはできません。その土台とは、イエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、わら、もみ殻を築くならば、各人の働きは明らかにされるでしょう。その日はそれを明らかにするからです。それは火によって明らかにされるからです。そして、その火は、各人の働きがどのようなものであるかを試すのです。 もし、その上に建てた人の働きが残るなら、その人は報いを受けます。もし、その人の働きが焼かれてしまうなら、その人は損失を被りますが、その人自身は救われます。ただし、火を通って救われるのです。(コリントの信徒への手紙第一 3:11-15)
あなたがた自身が、火の中を通らなければならないわけではありません。つまり、煉獄のようなものを通るわけではないのです。いいえ、あなたがたの行いが火を通ることになるのです。
これはちょっと興味深いことです。なぜなら、もしあなたが「大患難後の携挙」を信じているなら、キリストの裁きの座はどこに現れるのでしょうか?ご存知のように、「大患難後の携挙」を教えようとする人々がいます。それによれば、まず天に上げられ、その後、千年王国のために再び地上に戻ってくるというのです。一方で、携挙など全く存在しないと主張する人々もいます。彼らは、ここからは地球を離れることさえないと説いています。 ただ地上に留まるだけだ、と。そして、テサロニケ人への手紙第一4章で、「雲の中に引き上げられ、空中で主と出会う」と書かれていることについて、彼らはこう言います。「雲や空気というのは、実は死者の領域のことだ」とか、あるいは、ある種の馬鹿げた戯言を並べ立てたりします。いいえ、雲は雲を意味し、空気は空気を意味します。分かりましたか? それは「上へ上がる」ことを意味するのです。ヨハネに起こったことと同じです。それが、キリストの体である私たちにも起こるのです。 クリスチャンの皆さん、もしあなたが救われているなら、上へと昇ることになります。そして、そこに着いた時、「まあ、あなたはただ大患難を説明してやり過ごそうとしているだけでしょう。それを経験したくないから」と言われるかもしれません。いいえ、違います。正確にはそうではありません。ご覧の通り、私たちはある種の試練を経ることになります。それは「キリストの裁きの座」と呼ばれるものです。
それは、決して楽しいことではありません。もしあなたが主のために立派な働きをしたのであれば、報いを受けることになるでしょう。
しかし、あなたが時間を無駄にしてきた多くの事柄が、燃え尽きていくのを目の当たりにすることになるでしょう。あなたの行いは火によって試されるのです。これらの行いの背後にある動機は何でしょうか? あなたは、自分が偉そうな人間に見えるようにするために、外に出て熱心に証しをしているのでしょうか?
つまり、他の人を見下して、「私は何千人もの人々を主のもとへ導いたので、立派なクリスチャンだ」と言いたいからではないでしょうか。それがキリストの裁きの座でどのように映るのか、私には分かりません。 そして、多くの場合、こうした「魂の獲得」に熱心すぎる人々――ただひたすら「魂を救う、魂を救う、魂を救う」と繰り返す人々は、数字を稼ぐためだけに妥協してしまうことがよくあります。それは少し悲しいことです。事実、聖書には、人が救われるための非常に明確な道が示されており、人は新たに生まれ変わらなければなりません。イエスに対する真の信仰や信頼がないまま、ただ魔法のような短い祈りを唱えるだけでは不十分なのです。
彼らが救われなかったのは残念ですが、こうしたことには注意を払わなければなりません。
しかし、私が言いたいのは、クリスチャンとしてこの人生で行った行いについて、あなたは裁かれるということです。
では、その裁きはいつ行われるのでしょうか?
そうですね、それは大患難が始まる前のどこかの時点で下されるのです。というのも、この24人の長老たち――彼らが誰なのかは後ほど見ていきますが――彼らの頭には冠が載っているからです。さて、これらの冠はどのような文脈で登場するのでしょうか。新約聖書には、5種類の異なる冠について言及されています。 テサロニケの信徒への手紙第一2章19~20節には、「喜びの冠」について言及されていますが、これは、魂を救う人々に与えられるものだと思います。また、「朽ちることのない冠」は、忠実であり続けた人々に与えられます。
これはコリント人への手紙第一9章24~27節に記されています。
ぜひご自身で調べてみてください。今回は詳しく取り上げませんが、次のものは、他の人々に神の御言葉を伝える人々に与えられる「栄光の冠」です。ペテロの手紙第一5章1節から4節に記されています。
また、主の再臨を待ち望む人々に与えられる「義の冠」もあります。
このことについて考えてみてください。テモテへの手紙第二4章1節から8節です。
そして、さらに「いのちの冠」もあります。聖書によれば、これは試練に耐え抜いた人々や、殉教者として亡くなった人々に与えられるとされています。もちろん、殉教者に関する箇所は『ヨハネの黙示録』2章10節です。さて、中には「これらの五つの冠は、実はただ一つの冠に過ぎない」と言う人もいますが、その点については議論が分かれています。私自身、確かなことは分かりません。 五つの別々の冠があるのか、それともただ一つの冠なのか、どちらの立場にも説得力のある議論を耳にしています。私には分かりません。しかし重要なのは、これらの長老たちは冠を授けられ、反キリストが現れる前に天に現れるということです。それでは、これらの長老たちが一体誰なのかについて見ていきましょう。
黙示録5章8節です。
そして、小羊がその書物を受け取ると、四つの生き物と二十四人の長老たちは、小羊の前にひれ伏しました。彼らは一人ひとり、ハープと、聖徒たちの祈りである香の入った金の香炉を持っていました。 そして、彼らは新しい歌を歌って言いました。「あなたは、その書物を受け取り、その封印を開くにふさわしい方です。あなたは屠られ、その血によって、あらゆる部族、言語、民族、国民の中から、私たちを神のもとへ贖ってくださったからです。」
さて、この二十四人の長老たちは、明らかに全員がユダヤ人というわけではありません。
なぜでしょうか。彼らはあらゆる部族、言語、民族、国民から集まっているからです。ですから、その中にはユダヤ人もいるかもしれませんが、ユダヤ人ではない者、異邦人のような国々から来た者もいるのです。
では、10節、黙示録5章10節です。
そして、私たちを私たちの神のために王とし、祭司としてくださいました。私たちは地上で支配するのです。(黙示録5章8~10節)
これは、クリスチャンに与えられた約束です。
11節です。
そして、私は見ました。すると、御座と、生き物たちと、長老たちの周囲に、多くの天使たちの声が聞こえました。その数は、万の万、千の千に及んでいました。
ヨハネの黙示録19章1節。
その後、天において大勢の民の大いなる声が聞こえ、こう言いました。「ハレルヤ。救い、栄光、誉れ、力、すべては、私たちの神、主のもの。主の裁きは真実で正しいからです。主は、その淫行によって地を汚した大いなる娼婦を裁き、その手によって流された御自分のしもべたちの血の復讐をなされたからです。」そして、彼らは再び、「ハレルヤ」と言いました。そして、その煙は、永遠に、永遠に上って行きました。 そして、二十四人の長老たちと四つの生き物は、御座に着いておられる神の前にひれ伏して礼拝し、「アーメン。ハレルヤ」と言いました。(黙示録 19:1-4)
さて、ここで疑問が生じます。もしクリスチャンが大患難、すなわちヤコブの苦難の時代を経験するのであれば、なぜ彼らは天国で祝っているのでしょうか?
全く理にかなっていません。さて、クリスチャンたちは天国にいます。ところで、これについてはまだ触れていませんでしたが、黙示録5章には、あらゆる氏族、言語、民族、国民から、御血によって神に贖われたこの二十四人の長老たちについて書かれています。また、天使については「一万の十万、また千の千」と記されています。 そして『ヨハネの黙示録』第6章では、反キリストが解き放たれる場面が描かれています。つまり、反キリストが現れる前から、血によって贖われたクリスチャン、血によって贖われた聖徒たちが天国にいるのです。
しかし、ここには、反キリストが現れる前から天にいる聖徒たちが描かれています。そして、天にいる聖徒たちは祝宴を催しています。
それは教会時代のクリスチャンたちでした。そこにいたのは、まさに彼らなのです。
さて、これで第2部の終わりとなります。
ご希望であれば、第3部もお聴きいただけます。聖書が「大患難前の携挙」を教えている最後の6つの理由について解説していきます。
お聴きいただきありがとうございました。
