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大患難前の携挙 ― 全3回の第3回

フィリップ より  /  2026年7月12日

さて、いよいよここからです。大患難前の携挙に関する第3部です。なぜ私が、聖書が大患難前の携挙を教えていると信じているのかについてお話しします。簡単に振り返りますと、この学びの最初の部分では、この7年間の期間の実際の正式名称が「ヤコブの苦難の時代」であることを証明することについて取り上げました。

そちらの講義もぜひお聴きください。よく聞かれる質問として、「あなたは患難期を経験するのですか?」というものがあります。では、患難期とは一体何なのでしょうか?これについては、第1回の講義で解説しました。
第2回の学びでは、私が「携挙は患難前である」と信じる最初の6つの理由について考察しました。

簡単に振り返りますと、第一の理由は、ユダヤ人がしるしを求めているという点です。
だからこそ、それは「ヤコブの苦難の時代」なのです。

理由その2は、反キリストが再建された神殿に立つということです。
よろしいでしょうか? クリスチャンには、物理的な神殿はありません。彼らの体こそが、聖霊の神殿なのです。

3つ目の理由は、大患難期の福音は私たちの福音とは異なるということです。大患難期には信仰が求められます。
イエス・キリストへの信仰は必要ですが、それに加えて、獣の印を受け入れてはならないという行いも関わってきます。ですから、それは少し異なる福音なのです。 大患難の時代に別の福音を教えることは異端ではありません。なぜなら、彼らもやはりイエス・キリストへの信仰を持たなければならないからです。ただ、そこに「獣の印を受け入れてはならない」という新たな要素が加わっているのです。つまり、信仰に加え、行いも求められるのです。だからこそ、マタイによる福音書24章では、救われるためには最後まで耐え忍ばなければならないと記されているのです。

第四の理由として、携挙は最初にパウロに啓示された「奥義」であると言われています。イエスはヨハネによる福音書第10章で、ユダヤ人たちにこのことについて語られました。しかし、彼らはそれを理解できなかったため、パウロが現れるまで完全に啓示されることはありませんでした。だからこそ、パウロはコリントの信徒への手紙第一第15章で、それが「奥義」であると述べているのです。

第五の理由は、キリストの再臨において、死んだ聖徒たちの復活について言及されていないことです。さて、まず死者がよみがえり、次に生きている者がよみがえって雲の中に上がり、空中で主と出会うというこの出来事は、再臨とは何の関係もありません。それは別の出来事なのです。

そして、第六の理由は、あらゆる言語や民族から、血によって贖われた異邦人たちがおり、24人の長老たちも、大患難が始まる前、反キリストが現れる前に、すでに天におられるということです。そして、彼らは「謎のバビロン」が滅ぼされる時にもそこにいて、そのことを祝っているのです。

分かりましたか?もしあなたが救われているなら、その一部となるのです。

さて、7つ目の理由です。ここから続けましょう。

では、7つ目の理由です。「キリストの花嫁とは誰でしょうか?」と、皆さんに尋ねさせてください。

『ヨハネの黙示録』19章5節にはこうあります。

すると、御座から声が聞こえてきて、こう言いました。「神のしもべたちよ、神を畏れる者たちよ、大小を問わず、みな、私たちの神を賛美しなさい。」 すると、私は、まるで大いなる群衆の声のようであり、多くの水の音のように、また激しい雷鳴のような声が聞こえ、こう言っているのが聞こえました。「ハレルヤ。全能の主なる神が支配なさるからです。喜び、楽しみ、神に栄光を帰しましょう。子羊の婚礼の時が来たからです。その妻は、身支度を整えました。」 そして、彼女には、清く白い細布を身にまとうことが許されました。この細布とは、聖徒たちの義なのです。そして、彼は私に言われました。「書き記せ。『小羊の婚宴に招かれた者たちは、幸いである』と。」また、彼は私に言われました。「これらは、神の真実な言葉である。」(黙示録 19:5-9)

さて、イエス・キリストは誰と結婚されるのでしょうか。もちろん、彼は神の小羊です。彼は誰と結婚されるのでしょうか。

コリントの信徒への手紙二 11:2。

私は、神にかなう嫉妬をもって、あなたがたを嫉妬しているのです。なぜなら、私はあなたがたをただ一人の夫に嫁がせ、キリストに清い処女としてお引き渡すためです。(コリントの信徒への手紙二 11:2)

マタイによる福音書25章。ところで、そこには10人の乙女たちが登場しますが、彼女たちは花婿に会いに行くのであって、彼と結婚するわけではありません。さて、キリストの体である教会は、キリストの花嫁です。あなたはこうおっしゃるかもしれません。「ちょっと待ってください。」 クリスチャンが、どうしてキリストの体であり、同時にキリストの花嫁でもあることができるのでしょうか? そうですね、聖書を学べばわかりますが、聖書には、結婚が成立したとき、この二人は「一つの肉」になると書かれています。だからこそ、それが可能になるのです。

分かりましたか? さて、私たちはイエス・キリストと婚約しています。そうですよね? つまり、本質的には婚約しているわけですが、結婚が成立するのは、私たちが天国で主と共にいる時です。

では、どうして私たちが「大患難の時代」を経験することになると信じられるのでしょうか? 私たちは、神の裁きと怒りが下るその7年間、神がキリストの花嫁を打ちのめす時期を経験し、そして何とかそれを乗り越えた者たちが、イエス・キリストが再臨して降りてこられる前に天国に現れ、彼と結婚し、その後、彼と共に地上に戻ってくる、というのです。まったく理にかなっていません。

実のところ、私たちは「ヤコブの苦難」の時期の前に天に上げられます。主と共にいるために天に上げられるのです。 私たちは主の羊です。主は門です。主は私たちを呼び、外へと導いてくださいます。私たちはキリストの裁きの座を通り抜け、地上で大患難が繰り広げられている間も、イエス様と共にいます。そして、その終わりに近づくと、私たちは結婚し、その後、イエス・キリストの千年の統治のために地上に戻ります。それは本質的に、新婚旅行のようなものとなるでしょう。

さて、もう一つ非常に興味深い箇所があります。もちろん、すべての聖書は神の霊感によって与えられ、教理のために有益なものです。これが最も重要な点です。 そこで、真理の御言葉を正しく分け、戒め、是正、義の教えのために用いる必要があります。ですから、聖書のどの部分も、義の教えとして用いることができます。教理については注意を払わなければなりません。さて、『雅歌』には、本質的に夫とその花嫁について書かれた一冊の本があります。そして、ここには非常に興味深い点があります。『雅歌』2章10節にはこうあります。

「私の愛する人が語り、私にこう言いました。『起きなさい、私の愛する人よ、私の美しい人よ。さあ、私と共に来てください。見よ、冬は過ぎ去り、雨も止んで去りました。地には花が咲き、鳥が歌う時が来ました。私たちの地では、ツグミの声が聞こえます。』」(雅歌 2:10-12)

ここでちょっと話を中断させてください。多くの人々が、神の言葉を歪曲しているのを耳にします。彼らは「これは間違いに違いない」と言うのです。「わが地でカメの声が聞こえる」なんて。ああ、まったく。彼らは、明らかにそのことを知らないのです。 「あの頃の翻訳者たちは無知だったんだ」なんて言う人もいますが、いいえ、実際のところ、カメには確かに求愛の鳴き声があるのです。

私が住んでいるこの辺りには、「カメが歌い、求愛した土地」と呼ばれる小川があります。私が住んでいる地域は、その小川からそれほど遠くなく、声が聞こえる距離にあるため、春になると、カメが求愛の一環として歌う声が聞こえてきます。 さて、それは鳥のような美しいメロディーではありませんが、重要なのは、彼らが確かに音を出しているということです。求愛の鳴き声です。ですから、はい、カメは歌います。しかし、カメが歌うのは春の繁殖期だけです。ですから、聖書の記述は正しいのです。それを変えようとしてはいけません。それは「鳩」などではありません。カメなのです。『雅歌』2章13節。

「いちじくの木は青いいちじくを実らせ、ぶどうの木は若ぶどうの香りを放つ。さあ、私の愛する人よ、私の美しい人よ、起きて、私と共に来てください。」(雅歌 2:13)

さて、ある人々は、携挙が春に起こるだろうと信じています。彼らが正しいことを願っています。私にはわかりません。そして、あなたはこう言うかもしれません。「それなら、彼らは日付を決めていることになるし、それは罪だ」と。いいえ、彼らは日付を決めているわけではありません。

彼らはただ、「まあ、春に起こるかもしれない」と言っているだけです。私には分かりません。これは単に面白い話として挙げただけです。教義の根拠にしようとしているわけではありません、分かりましたか? これはどちらの主張も証明するものではありません。ただ、「これを見てください。面白いですね」と付け加えただけです。

しかし、聖書は、クリスチャンがキリストの花嫁であり、再臨の前に「小羊の婚宴」が行われることを明確に教えています。

さて、これが7つ目の理由です。次に、8つ目の理由ですが、神はご自身の裁きが下される前に、常に義人をこの世から連れ去られます。

さて、次は神の裁きについてです。時には、この地上の、つまり地上の未信者や邪悪な人々が、クリスチャンを迫害することがあります。私が言っているのはそういうことではありません。神は、クリスチャンを邪悪な者たちによる迫害から免れさせてはくださらないのです。しかし、神の怒りが注がれる時、神は救われた人々を救い出してくださるのです。 さて、旧約聖書を読んでみると、ユダヤ人たちは罪を犯すたびに、神は彼らを滅ぼしたり、病気を与えたり、あらゆる災いを下したりされました。しかし、それは彼らが邪悪だったからです。義人たちは、神が常に守ってくださったのです。それでは、いくつかの聖句を見てみましょう。

まず、その話に入る前に、旧約聖書に登場する三人の人物について見ていきましょう。ロト、ノア、そしてエノクについて取り上げ、神の裁きがこれらの人々一人ひとりにどのように下されたかを確認します。ロト。

ペテロの手紙第二 2章6節。

また、ソドムとゴモラの両都市を灰に変えて滅ぼし、後の世で不敬虔に生きる者たちへの戒めとされました。そして、悪しき者たちの不品行に悩まされていた義人ロトを救い出されました。(その義人は彼らの間に住み、彼らの不法な行いを目にして耳にするたびに、日ごとにその義なる魂が悩まされていたからです。) 主は、敬虔な人々を誘惑から救い出し、不義な者たちを裁きの日にまで留めておき、罰せられるようにされることをご存知です。(ペテロの手紙第二 2:6-9)

ソドムとゴモラの問題点は何だったのでしょうか。ソドムの場合は集団強姦でした。しかし、ゴモラに関しては、詳細は記されていません。

7節。

そして、悪しき者たちの不潔な行いに悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのも、その義人は彼らの間に住み、目にして耳にするたびに、彼らの不法な行いによって、日ごとにその義なる魂を悩ませていたからです。主は、敬虔な人々を試練から救い出し、不義な者たちを裁きの日にまで留めておき、罰を受けるようにされることをご存知です。

主はロトをソドムから救い出されましたか?

はい。

それでは、その点について見てみましょう。

創世記13章10節です。

ここから先を読み進めながら、そこで何が起こったのかを正確にお見せいたします。

ロトは目を上げて、ヨルダンの平野全体を見渡しました。主がソドムとゴモラを滅ぼされる前、その地は至る所に水が豊かにあり、まるで主の園のようであり、エジプトの地のように、ゾアルに近づくにつれてそうでした。 そこでロトはヨルダンの平野全体を選び、東へと旅立ちました。こうして、二人は互いに別れました。アブラムはカナンの地に住み、ロトは平野の町々に住み、ソドムの方角に天幕を張りました。しかし、ソドムの民は、主の御前で極めて邪悪で、罪深い者たちでした。(創世記 13:10-13)

こうした美しい熱帯の庭園のような場所には、たいてい最も恐ろしい人々が集まってくるというのは、なんだか興味深いですね。

創世記 18:20。

主は言われました。「ソドムとゴモラの叫びは大きく、その罪は極めて重い。今、わたしが下って行って、わたしのもとに上ってきたその叫びの通り、彼らが本当にそのようなことをしたかどうかを見てみよう。もしそうでなければ、それを知るだろう。」人々はそこから顔を背け、ソドムの方へ向かいましたが、アブラハムはなおも主の御前に立っていました。(創世記 18:20-22)

アブラハムは、ソドムとゴモラで何が起きているのか知っていたのでしょうか。きっと知っていたに違いありません。間違いありません。

23節。

そこで、アブラハムは近づいて言いました。「あなたは、悪人とともに義人も滅ぼそうとお考えなのですか。もしその町の中に五十人の義人がいたとしても、あなたはそれを滅ぼし、そこにいる五十人の義人のためにその町を赦さないおつもりですか。悪人とともに義人を殺すなど、そのようなことをなさるはずがありません。義人が悪人のようになるなど、そのようなことがあろうはずがありません。全地の裁き主であるあなたが、正しい裁きを行われないはずがありません。」 (創世記 18:23-25)

さて、あることを考えてみてください。

どちらがはるかに悪いことでしょうか。どちらの裁きがよりひどいものでしょうか。神がソドムとゴモラという一つの町に下された裁きと、ヤコブの苦難の時代、すなわち全人類の三分の一が死に、海が血に変わり、すべての水さえも血に変わるという、これから訪れる七年間の期間に、神が全世界に下そうとしている裁きと、どちらがよりひどいのでしょうか。

神は、義なるクリスチャンたちを、不義な者たちと一緒に裁かれるのでしょうか?

いいえ、そうはされません。ところで、なぜ神はまだこの地球を滅ぼされていないのでしょうか?

それは、この地上にまだ義人を見出せるからです。なぜ一部の地域がまだ滅ぼされていないか、お分かりでしょうか?なぜそこでは今も繁栄と平和、そして自由が保たれているのか、お分かりでしょうか?それは、そこに義人がいるからです。聖書を信じるクリスチャンたちが、今も主のために働き続けているからです。

分かりましたか? 国を守るのは憲法ではなく、クリスチャンなのです。

それでは、続けていきましょう。創世記18章26節です。

主は言われた、「もしソドムの町の中に五十人の義人が見つかるなら、彼らのためにその町全体を救ってやろう」。すると、アブラハムは答えて言った、「見よ、私はただ塵と灰に過ぎない者ですが、あえて主に申し上げました」。

ちなみに、祈りの際には、そのような態度を持つべきです。

謙虚であるべきです。

「もし、その五十人の義人のうち五人が足りなかったとしたら、五人のためにその町全体を滅ぼされるおつもりでしょうか。」主は言われました。「もし、そこに四十五人見つかったなら、私はそれを滅ぼさない。」彼はさらに主にお話しになり、「もし、そこに四十人しか見つからなかったとしたら」と言いました。主は言われました。「四十人のために、私はそれをしない。」 そこで彼は主におっしゃいました。「どうか、主よ、お怒りにならないでください。私が申し上げます。もしかすると、そこに三十人見つかるかもしれません。」主は言われました。「もしそこに三十人見つかったなら、私はそれを滅ぼしません。」彼は言いました。「ご覧ください。私はあえて主に申し上げました。もしかすると、そこに二十人見つかるかもしれません。」主は言われました。「二十人のために、私はそれを滅ぼしません。」 そこで彼は言いました。「どうか、主よ、お怒りにならないでください。ただこの一度だけ、さらに申し上げさせてください。もしかすると、そこに十人見つかるかもしれません。」すると主は言われました。「十人のために、それを滅ぼすことはしません。」主はアブラハムとの対話を終えるとすぐに立ち去られ、アブラハムは自分の場所に戻りました。(創世記 18:26-33)

さて、神はソドムとゴモラで十人の義人を見つけられたでしょうか? いいえ。

一人だけ見つかりました。ところで、その物語をお読みになればお分かりになると思いますが――ここではこれ以上読み進めませんが――ロトこそが、本当に立ち去りたがっていた唯一の人物だったのです。彼の妻は振り返ったために塩の柱に変えられ、二人の娘たちも同様でした。いわば、彼らは立ち去ることを余儀なくされたのです。

そしてその後、彼らはかなりひどい行いをしてしまいました。これもまた別の話ですが。しかし、神はソドムが滅ぼされる前にロトを連れ出されました。神は義人を悪人とともに滅ぼすようなことはされませんでした。

さて、世界規模の裁きについてはどうでしょうか?「ヤコブの苦難の7年間」に起こることのように、地球全体が裁かれた時代はかつてあったのでしょうか?「ヤコブの苦難の7年間」においては、神様が怒りを注ぎ出すのが、あちこちの局所的な出来事にとどまるようなことにはなりません。いいえ、それは世界規模のものとなるでしょう。

さて、そのようなことは過去に起きたことがあるでしょうか?

はい。ノアの時代です。それでは、ノアについて見てみましょう。

そして、聖書がこのことについて何と言っているかを見てみましょう。マタイによる福音書24章37節です。

「ノアの時代がどうであったか、人の子の到来もそのようである。洪水以前の時代、人々はノアが箱舟に入るその日まで、食べたり飲んだり、結婚したり嫁がせたりしていた。洪水がやって来て、彼らを皆さらい去るまで、何も知らなかった。人の子の到来も、そのようである。」(マタイによる福音書 24章37~39節)

さて、この「人の子の到来」とは再臨のことを指していますが、大患難の期間を通じて、事態が本当に、本当にひどくなることをこれからお分かりいただけるでしょう。しかし、神はその期間を通じて、大患難の聖徒たちを救ってくださるのです。

それでは、ルカによる福音書17章を見てみましょう。

「ノアの時代であったように、人の子の時代もそうなるでしょう。人々は食べ、飲み、結婚し、嫁がせ、ノアが箱舟に入った日までそうしていました。そして、大洪水が来て、彼らを皆滅ぼしました。 同様に、ロトの時代もそうでした。人々は食べ、飲み、買い、売り、植え、建てていました。しかし、ロトがソドムを出たその日、天から火と硫黄が降り注ぎ、彼らをすべて滅ぼしました。人の子が現れる日も、まさにそのようになるのです。(ルカによる福音書 17:26-30)

さて、もちろん、ここで理解しておかなければならないもう一つの点は、「その日」という言葉が、時には「その時期」、つまり大患難の時期を指す場合があるということです。また、「人の子が現れる日」という表現もあります。これまでの学びで、ユダヤ人たちはエルサレムから逃げるよう告げられていることを思い出してください。

彼らはエルサレムから脱出するよう命じられているのです。

ですから、ロトのように――覚えておいてください――『ヨハネの黙示録』第11章では、エルサレムはソドムとエジプトと呼ばれています。ですから、ロトのように、彼らは逃げなければならず、この世の所有物を置き去りにしなければならないのです。

さて、それがロトがしなければならなかったことです。では、ルカによる福音書17章31節をご覧ください。

その日、屋根の上にいる者は、家の中の持ち物を取りに降りてはなりません。また、野にいる者も、同様に引き返してはなりません。ロトの妻のことを思い出してください。「自分の命を救おうとする者はそれを失い、自分の命を失う者はそれを保つのです。」

つまり、エルサレムに住むユダヤ人であれば、すべての財産を置き去りにしなければならないということです。

もしあなたがその地にいて、主の再臨が近づいていることを知り、神殿の聖所の中に反キリストが立っているのを見たら、すぐに逃げたほうがよいでしょう。コインのコレクションやガレージにある高級車を取りに行こうなどとはしないでください。

置いていきましょう。逃げてください。そこから脱出してください。わかりました。

34節です。

「あなたがたに言っておきます。その夜、一人のベッドに二人の男が寝ているでしょう。一人は連れ去られ、もう一人は残されるでしょう。二人の女が一緒に粉を挽いているでしょう。一人は連れ去られ、もう一人は残されるでしょう。 畑に二人の男がいますが、一人は連れ去られ、もう一人は残されます。すると、人々は答えて言いました。「主よ、それはどこで起こるのですか。」すると、イエスは彼らに言われました。「死体がどこにあっても、そこに鷲が集まってくるのです。」(ルカによる福音書 17:34-37)

『ヨハネの黙示録』第19章をお読みください。そこで語られているのは、イエス・キリストが再びこの世に降りてこられる時、反キリストの軍勢が彼と戦うためにそこに現れるということです。そしてもちろん、イエス・キリストは彼らを全滅させるでしょう。 先ほど申し上げたように、黙示録第19章をお読みください。そこには、主が殺されることになるこれらすべての人々の肉を食べるために、鷲たちが集まってくるという記述があります。そして、それは実際に起こるのです。

さて、私がここで強調したいのは、反キリストが神殿に立っており、人々がそこから逃げ出そうとしているこの時期に、ある特定の地域へと走って避難しなければならない人々が現れるということです。

ある人々は、それが失われた都市ペトラだと言っています。

私には分かりません。この件に関しては、さまざまな見方があります。

しかし、イエス・キリストが天から現れる時が来たら、その準備をしておかなければなりません。もしあなたが大患難の時代のユダヤ人であるなら、まさにこれがその話なのです。さて、これはクリスチャンとは何の関係もありません。なぜでしょうか? それは、黙示録第19章を読んでみてください。

私たちは天にいて、子羊の婚宴に与り、軍勢としてイエス・キリストと共に集い、彼に従って地上へと降りていきます。

私たちは地上にいて、イエスの再臨を待ち望んでいるわけではありません。いいえ、私たちはイエスと共に天におります。イエスが言われたように、イエスは羊を羊小屋に導き入れ、それから私たちはイエスと共に外へ出ます。

ペテロの手紙第二2章5節には、こう書かれています。

そして、神は古き世界を容赦されず、義を宣べ伝えたノアという八人目を救い、不敬虔な世に大洪水をもたらされました。(ペテロの手紙第二 2:5)

では、ヘブライ人への手紙11章7節です。

信仰によって、ノアは、まだ見られない事柄について神から警告を受け、恐れを抱いて、家族を救うために箱舟を造りました。それによって、彼は世を裁き、信仰による義の相続人となりました。(ヘブライ人への手紙 11:7)

さて、ここでいくつか質問をしてみましょう。

ノアは神の裁きから救われたのでしょうか。はい。

ノアは洪水を経験しなければなりませんでしたか?はい。

ノアは地上の所有物をすべて失いましたか?
ええ、基本的にはそうです。つまり、箱舟に何をすべて載せたのかは分かりませんが、家やその他の所有物を持ち込んだわけではないことは確かです。ですから、はい、彼は所有物を失いました。

わかりました。では、大洪水の後、地球は清められましたか?はい。それでは、これを「ヤコブの苦難の時代」に当てはめてみましょう。

ユダヤ人たちは神の裁きから救われるのでしょうか?ええ、もし彼らが「獣の印」を受けないのであれば、そうです。彼らは大患難を経験しなければならないのでしょうか?はい。

まるでノアが洪水を経験したようにです。彼らはすべての所有物を失うことになるのでしょうか?はい、そうなるでしょう。

さて、再臨の後、地球は清められるのでしょうか?はい、間違いなくそうです。

ですから、お分かりのように、ノアと患難の聖徒との間には類似点があるのです。

しかし、ここで一つお尋ねしたいと思います。

この最後の時、この世界的な大災害、この全世界にわたる裁き……「大災害」と言うべきではなかったかもしれません。なぜなら、それは罪の中に生き、悔い改めようとしなかった邪悪な世界に対する神の怒りだったからです。そして、まさにその理由から、主は再びこのことをなさるのです。主は、失われた世界に対して、7年間にわたり御自身の怒りと裁きを注ぎ出されるのです。

さて、疑問はこうです。大洪水の前に、誰かが携挙されたことはあったのでしょうか?

ご存知の通り、私はここで「大患難前の携挙」について教えています。では、その前兆のようなものはあったのでしょうか?ノアの時代の洪水の前に、そのようなことは起こったのでしょうか?その答えは「はい」です。

創世記5章21節で、エノクについて学びます。

そこにはこう記されています。

「エノクは六十五歳になってメトシェラをもうけました。エノクはメトシェラをもうけた後、三百年間、神と共に歩み、息子や娘たちをもうけました。エノクの生涯は三百六十五年でした。エノクは神と共に歩み、やがていなくなりました。神が彼を御許に召されたからです。」(創世記5章21~24節)

ちなみに、ユダヤ暦では1年が360日であるのに対し、異邦人の暦では1年が365日であるというのは興味深い点です。エノクが365年生きたことを考えると、この事実はなかなか興味深いと感じました。

なんだか興味深いですね。しかし、ここで別の点を見てみましょう。エノクは、聖書全体を通して、死を免れた唯一の人物なのです。

そうですね?

「では、エリヤはどうなのか」とおっしゃるかもしれません。ええ、エリヤは天に上げられましたが、黙示録11章で再び地上に降りてきて、獣によって殺されることになっています。ですから、いいえ、彼は死を免れたわけではありません。

彼は今のところ死を免れましたが、大患難の時代に殺されることになります。「では、イエス・キリストは十字架で亡くなられたではありませんか」とおっしゃるかもしれません。いいえ、死を免れた唯一の人物はエノクです。彼は二度とこの世に戻ってくることはありません。再びこの世に戻って死ぬ必要などないのです。では、彼は誰の予型なのでしょうか?

彼は携挙され、神の裁き、すなわち神を拒んだ邪悪な世界に対する神の世界的な裁きが行われる前に、天へと引き上げられるのです。

そして、彼は二度と死ぬ必要はありません。

さて、これは誰の型なのでしょうか?それは、携挙の時点で生きている教会時代のクリスチャンの型なのです。

あなたは携挙されます。二度と死を経験する必要はありません。二度と地上に戻って死ぬ必要もありません。地上に戻ったとき、あなたはキリストの御姿に似せられることになります。その時には、朽ちることのない体を持つことになるのです。

ちなみに、私たちが千年の間、イエス・キリストと共に治め、統治できるようになるのは、キリストの心を持っており、朽ちることのない体を持つからです。今のクリスチャンたちが地球を運営しようとしている姿を想像できますか? ええ。大混乱になるでしょう。そうはなりません。 私たちは変えられ、キリストの御姿に似せられるのです。私たちは、キリストが物事を理解されるのと同じように、物事を理解できるようになります。そうして初めて、裁きを行うことができるようになるのです。

しかし今、ヘブライ人への手紙11章5節では、再びエノクについて語られています。

そこにはこう書かれています。

「信仰によって、エノクは死を見ることなく、移され、神が彼を移されたため、見出されませんでした。移される前に、彼は神に喜ばれる者であるという証しを受けていたからです。」(ヘブライ人への手紙 11章5節)

これはクリスチャンの型です。さて、この「移される」ということについてはどうでしょうか。

「移された」とあります。

さて、エノクが「移された」ことですが、聖書の中で、他にも「移された」人はいたでしょうか。

そうですね、これも非常に興味深いことです。

コロサイ人への手紙1章12節にはこうあります。

「私たちを、光にある聖徒たちの相続分にあずかるにふさわしい者とされた父に感謝します。父は、私たちを闇の力から救い出し、御愛する御子の御国へと移してくださったのです。その御子において、私たちは、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ人への手紙 1:12-14)

さて、聖書の中で、神の愛する御子の御国へと「移された」と記されている唯一の二つのグループ、いわば唯一の二つの人々について、興味深いと思いませんか。第一に、『ヘブライ人への手紙』でエノクがそこへ移されたことが記されています。そして第二に、クリスチャンが挙げられます。

コロサイ人への手紙にそう記されています。旧約聖書のユダヤ人への言葉でもなく、将来の大患難の時期の話でもありません。

いいえ、それはクリスチャンに向けて記されているのです。

クリスチャンたちは携挙されるのです。

私も、これは非常に興味深いと思いました。

ユダの手紙1章14節。

また、アダムから数えて七代目であるエノクも、これらについて預言し、こう言いました。「見よ、主は、その聖徒たちを数万も従えて来られます。すべての人に対して裁きを下し、その中にいる不敬虔な者たちすべてを、彼らが不敬虔に犯したすべての不敬虔な行い、また、不敬虔な罪人たちが主に対して口にしたすべての厳しい言葉について、その罪を立証するためです。」(ユダの手紙 1:14-15)

さて、一体どうしてクリスチャンを大患難の中に置くことができるのでしょうか。私たちは不敬虔な罪人たちに対して裁きを下すことになるのです。

どうしてクリスチャンを、ユダの手紙1章15節のあの文脈に当てはめることができるのでしょうか? しかし、興味深いことです。なぜエノクは、大洪水が起きるずっと前に預言をしたのでしょうか? なぜエノクは、主が御自身の聖徒たちを数万人も伴って来られることについて預言したのでしょうか?

これもまた非常に興味深いことです。しかし、次のポイントに進みましょう。

9つ目のポイントです。救われたクリスチャンは、神の怒りの対象にはなっていません。ノアが洪水を経験しなければならなかったのと同じです。それは大患難期の聖徒たちの姿を表しています。彼らには神の怒りが注がれたわけではありませんが、その中を耐え抜かなければなりませんでした。彼らはそれを乗り越えなければならなかったのです。よろしいでしょうか?エノクは、神の怒りが下る前にこの世を去りました。

そして、クリスチャンたちにも同じことが起こるのです。

それでは、テサロニケの信徒への手紙第一 5章9節を見てみましょう。

神は、私たちを御怒りの対象として定められたのではなく、私たちのために死なれた主イエス・キリストによって救いを得るよう定められたのです。それは、私たちが目を覚ましていようが眠っていようが、主と共に生きるためです。(テサロニケの信徒への手紙第一 5章9-10節)

神は私たちを怒りの対象として定められたのではありません。

ルカによる福音書21章20節。

あなたがたが、エルサレムが軍勢に包囲されているのを見たら、その荒廃が近づいていることを知ってください。そのとき、ユダヤにいる者は山へ逃げ、都の中にいる者はそこから出て行き、地方にいる者は都に入ってはなりません。これらは、書かれていることがすべて成就するための報いの日だからです。 しかし、そのころ、身ごもっている者や乳飲み子を抱いている者たちには、なんと悲惨なことでしょう。その地には大きな苦難があり、この民には神の怒りが下るからです。(ルカによる福音書 21:20-23)

ユダヤにいる者たちとは、誰のことでしょうか。ユダヤ人たちです。

そして、「この民」に対する怒りとは、誰に対するのでしょうか。不敬虔な者たち、邪悪な罪人たちです。

ルカによる福音書 21:24。

そして、彼らは剣の刃によって倒され、あらゆる国々に捕らえられて連れ去られるでしょう。また、エルサレムは、異邦人の時代が満ちるまで、異邦人によって踏み荒らされるでしょう。

異邦人の時代はいつ満ちるのでしょうか。

ヤコブの苦難の時代の終わり、ダニエルの70週の終わりの時です。なぜでしょうか。

それは、千年王国において、イエス・キリストが地上の王国を築き、エルサレムから統治し、支配されるからです。

さて、そのことについては、皆さんご自身で詳しく調べてみてください。

ヨハネによる福音書3章36節。

御子を信じる者は永遠の命を持ちますが、御子を信じない者は命を見ることはありません。むしろ、神の怒りがその人の上に留まるのです。

神の怒りは、誰に向けられているのでしょうか。それは、失われた世界に向けられています。

神の怒りは、不義によって真理を隠している人々の、あらゆる不敬虔と不義に対して、天から明らかにされるからです。(ローマ人への手紙 1:18)

そして、滅びゆく者たちには、不義のあらゆる欺きが働きます。それは、彼らが救われるべき真理の愛を受け入れなかったからです。それゆえ、神は彼らに、偽りを信じるようにと、強い惑わしをお送りになります。それは、真理を信じず、不義を喜んだ者たちが、みな裁きを受けるためです。(テサロニケの信徒への手紙第二 2:10-12)

これは、明らかに失われた人々、不敬虔な罪人たちについて語っているのです。最後まで耐え忍ばなければならないクリスチャンたちについて語っているわけではありません。

それはナンセンスです。

ローマ人への手紙 2:7。

善を行うことに忍耐強く励み、栄光と誉れと不死、すなわち永遠のいのちを求める人々には、それらが与えられます。しかし、争いを好み、真理に従わず、不義に従う人々には、怒りと憤り、苦難と苦悩が、悪を行うすべての人の魂に下ります。まずユダヤ人から、そして異邦人にも。(ローマ人への手紙 2:7-9)

ご覧の通り、神の怒りは信者たちではなく、真理に従わない者たちに注がれているのです。よろしいでしょうか? 救われていない人々、まずユダヤ人から、そして異邦人にも。

テサロニケ人への手紙第一 1:9。

なぜなら、彼ら自身が、私たちがどのようにしてあなたがたのところへ入っていったか、また、あなたがたがどのようにして偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになったかを証ししているからです。そして、神が死者の中からよみがえらせた御子、すなわち、来るべき怒りから私たちを救い出してくださったイエスを、天から待ち望んでいるのです。(テサロニケの信徒への手紙一 1:9-10)

さて、イエス・キリストは地獄から救ってくださいますが、同時に、神の怒り、すなわち神の怒りの注ぎ出しからも救ってくださいます。この怒りは、ヤコブの苦難の時代、すなわち7年間の大患難の時代に完全に現れるのです。

黙示録15章1節、ここではこの章全体を読みます。それほど長い章ではありません。そこにはこう書かれています。

また、私は天に、大きくて驚くべき別のしるしを見ました。それは、最後の七つの災いを持つ七人の天使たちでした。それらの災いによって、神の怒りは満たされるからです。また、私は、まるで火が混じったガラスの海のようなものを見ました。そして、獣と、その像と、その印と、その名の数に打ち勝った者たちが、神のハープを持って、そのガラスの海の上に立っているのを見ました。 そして、彼らは神のしもべモーセの歌と、小羊の歌を歌い、こう言いました。「全能の主なる神よ、あなたの御業は偉大で驚くべきものです。聖徒たちの王よ、あなたの道は正しく、真実です。」(黙示録 15:1-3)

さて、3節に「モーセの歌」と「小羊の歌」と書かれていることにご注目ください。さて、第2回の学びで、福音には違いがあるとお話ししたことを思い出してください。

そこには、「信仰に加え行い」、すなわち戒めを守ることとイエスへの信仰が組み合わされています。

では、戒めは誰に啓示されたのでしょうか。モーセです。ですから、「モーセの歌」があるわけです。

あなたがたが信仰を置くべき方は誰でしょうか。イエス・キリストです。ですから、「小羊の歌」があるのです。お分かりでしょう、これらは教会時代のクリスチャンとは異なる存在なのです。

彼らは大患難の聖徒たちなのです。

黙示録15章4節。

主よ、だれがあなたを恐れず、あなたの御名をあがめずいましょうか。あなただけが聖なる方だからです。すべての国々があなたの御前に来て、あなたを礼拝するでしょう。あなたの裁きが明らかにされたからです。その後、私が見ていると、見よ、天にある証しの幕屋の神殿が開かれました。そして、七人の天使が神殿から出てきました。彼らは七つの災いを携え、純白の亜麻布の衣をまとい、胸には金の帯を締めていました。 そして、四つの生き物のうちの一匹が、永遠に生きられる神の怒りが満たされた七つの金の鉢を、七人の天使に与えました。すると、神の栄光と御力による煙が神殿を満たし、七人の天使による七つの災いが成就するまで、だれも神殿に入ることができませんでした。(黙示録 15:4-8)

このように、黙示録15章には、神の怒りが注がれる様子が描かれています。それでは、主の怒りについて、ここで別の箇所を見てみましょう。

黙示録19章11節です。

すると、天が開かれるのを見ました。見よ、白い馬が現れました。その馬に乗っておられる方は、「忠実で真実な方」と呼ばれており、義をもって裁き、戦いをなさいます。その目は燃える火のようで、頭には多くの冠を戴いておられました。また、その方には、ご自身以外には誰も知らない名が記されていました。その方は、血に染まった衣をまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれています。 そして、天にいる軍勢は、白く清らかな細布の衣をまとい、白い馬に乗って、その方に従いました。その方の口からは鋭い剣が出ており、それをもって諸国民を打ち倒すのです。また、その方は鉄の杖で彼らを治め、全能の神の激しい怒りと憤りのぶどう酒の搾り場を踏み潰されます。(ヨハネの黙示録 19:11-15)

さて、彼は一体誰なのでしょうか?

ヨハネの黙示録 19章16節。

そして、その衣と太ももには、「王の王、主の主」という名が記されています。

これはまさにイエス・キリストのことを指していることは明らかです。

コリントの信徒への手紙第一 12章27節にはこうあります。

「あなたがたはキリストの体であり、それぞれがその一員なのです。」

そこで、皆さんにお尋ねしたいと思います。黙示録19章では、イエス・キリストが再びこの地上に降りてこられます。黙示録15章は、その章全体が神の怒りについて書かれています。そして、その最後、つまり大患難が終わりに近づいたとき、イエス・キリストが現れて怒りを注ぎ出すのです。では、もし私たちが怒りの対象として定められていないのなら、一体どうやってこのシナリオ全体に当てはまるのでしょうか? もしクリスチャンが大患難期を経験するとお考えなら、これらすべての事柄をどのように整合させることができるでしょうか?

ご覧の通り、これは辻褄が合いません。さて、真実にもう少し近づいている人々もいます。彼らもやはり間違っていますが、少しは近づいているのです。彼らは、クリスチャンが神の怒りの対象に定められていないことを認識しています。そこで彼らはこう言います。「私は『怒りの前』説を信じています。つまり、大患難の半ばあたりで、クリスチャンは天に上げられると信じています。」しかし、違います。それは大患難の前なのです。

それには多くの理由があります。

ここではそれらについて解説しています。しかし、少なくとも彼らは、クリスチャンが神の怒りを経験することはないという事実を認識しています。

しかし、もしクリスチャンが大患難を経験するとお考えなら、コリントの信徒への手紙第一12章27節で、私たちがキリストの体の肢体であると述べられているにもかかわらず、なぜヨハネの黙示録19章でキリストが再び降りてきて怒りを注ぐことになるのか、その点をぜひ説明してください。

大患難を経なければならないと信じる限り、こうした矛盾を調和させることはできません。それは成り立ちません。

さて、テモテへの手紙第二2章11~13節にも、これに関連して興味深いことが書かれています。そこにはこうあります。

「この言葉は真実です。もし私たちがキリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるでしょう。もし私たちが苦難に耐えるなら、キリストと共に支配するでしょう。もし私たちがキリストを否むなら、キリストも私たちを否まれるでしょう。もし私たちが信じないとしても、キリストは真実な方であり、ご自身を否むことはできません。」(テモテへの手紙第二 2章11~13節)

もしあなたが今クリスチャンでありながら、イエス・キリストを否み、キリストを恥じているなら、キリストはあなたの千年王国の相続権を否定されるでしょう。

その意味において、主はあなたをそのように見捨てられるのです。しかし、ここには「主はご自身を否定することはできません」と書かれています。あなたはキリストの体の一員です。救われたとき、あなたはキリストの体の中に組み入れられるのです。

その時点で、主はあなたを否定することはできません。

あなたは封印されているのです。

さて、これは大患難期の聖徒には当てはまりません。教会時代のクリスチャンに当てはまることです。

ポイント10です。そろそろ終わりに近づいてきました。
長い学びとなりましたが、ポイント10を見てみましょう。

10番目のポイントは、マタイによる福音書24章は教義上、旧約聖書に属しているということです。この研究の冒頭でこれについて触れましたが、多くのクリスチャンはそれを理解していないと思います。新約聖書はいつ始まったのでしょうか? それでは、ここを見てみましょう。ヘブライ人への手紙第9章8節を読みましょう。

聖霊は、最初の幕屋がまだ立っている間は、至聖所への道がまだ明らかにされていなかったことを、このように示しておられます。それは当時の時代を象徴するものであり、その中には、奉仕を行う者を良心の点において完全にすることのできない供え物や犠牲が捧げられていました。それらは、ただ食物や飲み物、さまざまな清めの儀式、そして改革の時が来るまで彼らに課されていた肉的な規定に過ぎませんでした。 しかし、キリストは、来るべき良いものの大祭司として、人の手によって造られたものではなく、すなわち、この世の造り物ではない、より偉大で完全な幕屋を通って来られました。また、山羊や子牛の血ではなく、ご自身の血によって、聖所へ一度だけ入り、私たちのために永遠の贖いを成し遂げられました。 もし、雄牛や雄山羊の血、また雌牛の灰を不浄な者に振りかけることでさえ、肉体の清めのために聖別するのですから、ましてや、永遠の御霊によって、ご自身を汚れのないものとして神にささげられたキリストの血は、なおさら、あなたがたの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕えるようにしてくださるのではないでしょうか。 そして、このゆえに、キリストは新しい契約のとりなし人となられました。それは、最初の契約の下にあった過ちを贖うために、ご自身の死によって、召された者たちが永遠の嗣業の約束を受けられるためです。なぜなら、遺言があるところには、必然的に遺言者の死がなければならないからです。 遺言は、人が死んで初めて効力を生じます。そうでなければ、遺言者が生きている間は、まったく効力を持ちません。(ヘブライ人への手紙 9:8-17)

まだ明らかにされていなかったイエス・キリストの血によって清められ、救われるために、至聖所へと入る道。

新約の仲介者。新約をもたらしたのは誰でしょうか。イエス・キリストです。

「遺言があるところには、必然的に遺言者の死もなければならないからです。」
もう一度お尋ねします。新約聖書はいつ始まったのでしょうか?
「マタイによる福音書第1章が新約聖書の始まりです」とおっしゃるかもしれません。
いいえ。マタイによる福音書第1章は、「新約聖書」と呼ばれる書物の集まりの始まりに過ぎません。しかし、実際の新約聖書は、遺言者の死によって初めて始まったのです。そして、イエス・キリストこそが遺言者です。新約聖書をもたらされたのは、まさにイエス・キリストご自身なのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死以前のものは、教義的にはすべて旧約聖書に属します。もちろん、その一部は教会時代の教義と重なる部分もあります。よろしいでしょうか? 私は、四つの福音書のどれ一つとして読むべきではないと言っているわけではありません。そこにはクリスチャンにとって有益な内容がない、などという主張もしていません。私はそのような立場の人ではありません。よろしいでしょうか?

それは「過激なディスペンセーション主義」の立場です。

四つの福音書には、今日のクリスチャンに当てはまることがたくさんあります。しかし、教義的には非常に注意しなければなりません。だからこそ、人々がマタイによる福音書第24章に立ち返ると、あらゆる種類の誤った教義に陥ってしまうのです。

なぜでしょうか? それは、イエス様がユダヤ人に向けて語っておられ、しかも、ヤコブの苦難の時代を経験し、最後まで耐え抜かなければならないユダヤ人に向けて語っておられるからです。よろしいでしょうか? それは、キリストの体にあるクリスチャンに向けて書かれたものではありません。

エペソ人への手紙 3章1節

このため、異邦人のためにイエス・キリストの囚人となっている私、パウロは、あなたがたに与えられた神の恵みの管理について聞いたことがあるならば、すなわち、啓示によって、神が私にその奥義を明らかにされたこと、 (以前、私が簡潔に記した通り、あなたがたがそれを読んで、キリストの奥義に関する私の知識を理解できるようになるためです。)この奥義は、かつては人の子らに知らされていませんでしたが、今や御霊によって、神の聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。(エペソ人への手紙 3:1-5)

一体何が明らかにされたのでしょうか。そこにあった「奥義」とは何だったのでしょうか。さて、エペソ人への手紙3章6節が、それが何であるかを教えてくれています。

すなわち、異邦人が、福音によって、キリストにあって、共同の相続人となり、同じからだとなり、その約束の分け前を受ける者となるということです。私は、神の力の力強い働きによって私に与えられた神の恵みの賜物に従って、その奉仕者となりました。 すべての聖徒のうちで最も小さい者よりもさらに小さい私のような者に、この恵みが与えられました。それは、異邦人の間でキリストの測り知れない富を宣べ伝えるためであり、また、世界の初めから、イエス・キリストによって万物を創造された神の中に隠されていた、この奥義の交わりがどのようなものであるかを、すべての人に明らかにするためです。(エペソ人への手紙 3:6-9)

神は、異邦人が最終的に救われることをご存知でしたが、それはユダヤ人の目からは隠されていました。つまり、理解されていなかったのです。確かに、福音書や旧約聖書の中にも、あちこちに「異邦人はいつか救われるだろう」と示唆するような箇所がいくつか見られますが、当時の人々はそれらを本当に理解していませんでした。そこで、そのことについて現代の例を挙げてみましょう。

1960年代や1970年代に書かれた多くの注解書を読んだことがありますが、それらは『ヨハネの黙示録』第13章で、獣の印が額や手に刻まれると書かれている箇所に差し掛かると、「これは明らかに誤訳だ」と述べています。「売買を支配するような印などあり得ない。手にそんなものが刻まれるはずがない」と。

しかし、原典の写本までさかのぼってみると――私はその写真複写を持っていますが――そこには「額と手」と記されています。 ええ、これは古い読み方です。ちなみに私もこれが正しい読み方だと信じていますが、長年にわたり人々はこれに疑問を抱いていました。なぜでしょうか? それは、彼らがその意味を理解していなかったからです。聖書には確かにそう書かれています。「額と手」にあることは極めて明確です。しかし、長い間、人々はその意味を理解していませんでした。

しかし、今では人々はそれを理解しています。現在、金融情報をすべて保存できる埋め込み型マイクロチップが存在します。それを詳しく調べてみると、かなり恐ろしいものです。ですから、聖書には書かれているものの、後になって初めて明らかになるような事柄もあるのです。分かりましたか? ダニエル書を読んでみると、ダニエルは、示されたこれらの事柄を「終わりの時」まで封印しておくよう命じられています。つまり、「ダニエルよ、君は今のところ、これらのことを理解できないだろう。君には全く意味が分からないだろうが、終わりの時には、その意味が分かるようになる。その時、封印が解かれるのだ」ということです。

では、次のポイントを見ていきましょう。

ポイント11、携挙の際、神のラッパが鳴らされます。

さて、コリントの信徒への手紙第一15章51節にはこうあります。

「見よ、私はあなたがたに奥義を明かします。私たちは皆、眠るわけではありませんが、皆、変えられるのです。一瞬のうちに、瞬く間に、最後のラッパの響きと共に。ラッパが鳴り響き、死者は朽ちることのない者としてよみがえり、私たちも変えられるのです。」(コリントの信徒への手紙第一 15章51-52節)

テサロニケ人への手紙第一 4章16節。

主ご自身が、叫び声と、大天使の声と、神のラッパの音とともに、天から降って来られます。そして、キリストにあって死んだ者たちがまずよみがえり、その後、私たち生き残っている者が、彼らと共に雲の中に引き上げられ、空中で主と出会うのです。そうして、私たちは、いつも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。(テサロニケの信徒への手紙第一 4章16-18節)

さて、この「神のラッパ」とは何でしょうか。

ここでいう「ラッパ」とは、トランペットが奏でる音のことです。そして、なぜそれが非常に重要なのかをお見せしましょう。

黙示録1章10節。

主の日に、私は御霊に満たされていたところ、背後から、ラッパのような大きな声が聞こえ、こう言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」 「あなたが見たことを書物に書き記し、アジアにある七つの教会、すなわちエフェソ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」(黙示録 1:10-11)

そしてもちろん、彼は振り返ると、そこに主イエスがいて、彼に語りかけておられるのを見ました。

しかし、黙示録4章1節に飛びましょう。

そこにはこう記されています。

その後、私が見ていると、見よ、天に門が開かれました。そして、私が最初に聞いた声は、まるでラッパの音が私に向かって語りかけるかのようでした。その声は言いました。「ここへ上って来なさい。これから起こるべきことを、あなたに示しましょう。」すると、たちまち私は御霊に満たされ、見よ、天には御座が設けられ、その御座にはお方がお座りになっておられました。(黙示録 4:1-2)

このように、ラッパがヨハネに語りかけているのです。これについては以前にも触れましたが、この点を強調するために、もう一度読み上げたいと思います。

ヨハネによる福音書第10章2-3節。

しかし、門から入る者は、羊の牧者です。門番は彼のために門を開きます。羊は彼の声を聞き分けます。彼は自分の羊を名指しで呼び、外へ導き出します。

さて、一つお尋ねしたいことがあります。これらの聖句をお読みになった後、キリストの再臨の際に、神のラッパはどこで鳴らされるのでしょうか?

マタイによる福音書第24章、マルコによる福音書第13章、ヨエル書をお読みください。イエス・キリストの再臨に関する記述ならどれでも構いませんので、神のラッパが鳴らされている箇所をぜひご指摘ください。これは全く別の話なのです。よろしいでしょうか? 救われたクリスチャンにとって、神の御声はラッパのように聞こえるのです。

だからこそ、それは「神のラッパ」と呼ばれるのです。

それはトランペットそのものではありません。神がトランペットを手に取って吹くわけではありません。それは神の声なのです。そして、その声がトランペットのように聞こえるのです。

よろしいでしょうか? この点を理解することは重要です。神はトランペットを演奏されるわけではありません。神が語られ、私たちがその声を聞くとき、それがトランペットのように聞こえるのです。さて、このことをさらに詳しく調べてみると、救われていない人が神の声を聞いたとき、「雷が鳴った」と言うことがわかります。

雷のような音に聞こえるのです。ですから、携挙の時には、私たちは自分の名前を聞くことになるでしょう。

神は私たちを御自身の羊として知っておられます。そして、私たちを名前で呼び、外へと導いてくださるのです。神こそが、私たちが天国で見る「門」なのです。私たちは自分の名前を聞き、呼び出されることになります。その声は、まるでトランペットが私たちに語りかけているかのように聞こえるでしょう。トランペットの音が鳴って、そのまま立ち去るというわけではありません。

いいえ、それはトランペットのように音楽的な響きを持つ声となるのです。分かりましたか?

神様がトランペットを吹くわけではありません。

そして、再臨の時にはそのような光景は見られません。聖書の箇所をすべて調べてみてください。確認すれば、私が嘘をついていないことがお分かりいただけるでしょう。

さて、12番目の理由、最後の理由です。今回の学びは長くなりましたが、私は普段、このような3回にわたるメッセージなどを好んで行うわけではありません。皆さんがとてもお忙しいことを承知していますし、長々と熱弁を振るうような時間を費やすのも好きではないからです。ご存知の通り、私は聖書に忠実であり、聖書を信じる者です。 つまり、私が言えるのはそれだけなのです。さて、ここで、携挙が「大患難の前」に起こるという12番目の理由を見ていきましょう。

そして、これは最も重要な理由の一つです。12番目の理由は、それが「清めをもたらす希望」だからです。

もしイエス・キリストがいつでも再臨される可能性があると信じているなら、反キリストのことや、7年間の試練を乗り越え、最後まで耐え抜かなければならないことなどについては心配しないでしょう。イエス・キリストのことを考えているはずです。

一方、大患難後の携挙を信じるクリスチャンたちは皆、国のことや、世の中の状況、あるいは「ああ、大変だ」といったこと――つまり、肉的なことや地上のことにばかり気を取られているのです。しかし、イエス・キリストがいつ再臨されてもおかしくないと待ち望み、「来週にはキリストの裁きの座に立たされるかもしれない」と自覚しているクリスチャン。

これは、考えてみる価値のあることです。

皆さんは主の御業に忙しくされることでしょう。では、ここで手短に数節お読みしてから、この学びを締めくくりたいと思います。

ヨハネの手紙第一 3章1節。

「見よ、父が私たちにどのような愛を注いでくださったか。私たちは神の子と呼ばれるようになったのです。それゆえ、世は私たちを知りません。世は父を知らなかったからです。愛する者たちよ、今、私たちは神の子です。私たちが将来どのような者になるかは、まだ明らかになっていません。しかし、主が現れるとき、私たちは主のようになることを知っています。なぜなら、私たちは主をそのありのままの姿で見るからです。」(ヨハネの手紙第一 3:1-2)

それは驚くべきことです。

イエス・キリストが雲に乗って来られ、私たちを天に引き上げられるとき、私たちは変えられることになります。そして、それは一瞬のうちに、まばたきの間に起こるのです。もしあなたが救われているなら、あなたは今、神の子なのです。

よろしいでしょうか? しかし、あなたはまだ朽ちるこの世の体を持っています。

まだ変えられてはいませんが、やがて変えられるのです。

あなたはキリストのようになるのです。

ヨハネの手紙第一 3章3節。

この希望を彼に置く者は皆、彼が清いように、自分自身も清めるのです。(ヨハネの手紙第一 3章3節)

さて、これは非常に重要なことです。なぜなら、イエス・キリストが次の5分以内に再臨されるかもしれないという期待を持って生活すれば、あなたは自分自身を清めるようになるからです。イエス・キリストが再臨された時に、罪を犯しているところを捕まりたくないと思うため、罪を犯す前に考え直すようになるでしょう。

フィリピの信徒への手紙3章18節を見てみましょう。

「多くの人が歩んでいるように、私は以前にもたびたびあなたがたに話しましたが、今、涙を流しながら申し上げます。彼らはキリストの十字架の敵です。その終わりは滅びであり、彼らの神は腹であり、その栄光は恥にあり、地上の事柄ばかりを心に留めているのです。」(フィリピの信徒への手紙 3:18-19)

ここで少し立ち止まらせてください。さて、私はこれが救われていない人々について語っているのだと信じています。そして、私は、「もしあなたが『大患難後の携挙』を信じているなら、あなたは救われていない」と言っているわけではありません。

いいえ、そうは思いません。しかし、あなたは地上の事柄に心を向けています。ここで私は、あなたに教えと義、そして戒めと是正を申し上げているのです。

お分かりでしょうか。もしあなたがイエス・キリストの再臨を期待していないのなら、一体誰を期待しているのでしょうか。あなたは反キリストが現れることを期待しているのです。新しい世界秩序が現れることを期待しているのです。 「獣の印」やその他あらゆるものを待っているのです。そして、最後まで耐え抜かなければならないからと、そのために気合を入れ、万全の準備を整えているのです。つまり、あなたは地上のことに心を奪われているのです。しかし、ここでこの聖句を振り返ってみましょう。

フィリピの信徒への手紙3章20節です。

「私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます。主は、すべてのものを御自身に従わせることができる御力によって、私たちの卑しい体を、御自身の栄光ある体と同じ姿に変えてくださるのです。」(フィリピの信徒への手紙 3:20-21)

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたの生き方は天にあるべきであり、救い主である主イエス・キリストを待ち望むべきです。なぜなら、主があなたの卑しい体を、一瞬のうちに、瞬く間に変えてくださることを、あなたは悟っているからです。まさにその通りです。

あなたは、神があなたに語りかけ、あなたを呼び出される声を聞くことになるでしょう。なぜなら、あなたは神の子だからです。救われているのであれば、七年間、神の怒りや裁きを受けることはありません。そのような話に惑わされないでください。

イエス・キリストが今日でも再臨されるかもしれないという期待を持って生きてください。

トラクトを配り、証しをし、路上で説教してください。戸別訪問をしてください。インターネットを活用してください。インターネット上には、宣教の機会が山ほどあります。YouTube、TikTok、Instagramを利用してください。キリスト教の動画を投稿してください。こうしたソーシャルメディアを活用して、メッセージを発信してください。導きを感じたら、出かけて証しをしてください。主イエス・キリストに仕える機会は、本当にたくさんあります。

「大患難を耐え忍ばなければならない」といったことに気を取られたり、反キリストの王国の展開ばかりに目を奪われたりしてはいけません。新世界秩序について研究することはできます。研究しても構いません。私も研究しました。しかし、それに気を取られてはいけません。あなたの関心は天にあるべきです。 あなたがたは、この地上ではなく、天に宝を積むことを考えるべきです。「最後まで耐え忍ばなければならないから、7年間分の備蓄をしなければならない」などという考えではありません。いいえ。天におけるご褒美について考えてください。キリストの裁きの座について考えてください。千年王国の相続について考えてください。もしあなたがイエス・キリストと共に苦難を耐え忍ぶなら、イエス・キリストと共に支配することになるのです。

これこそが、あなたが考えるべきことなのです。

この学びの全3部をお聞きいただき、ありがとうございました。ご質問や、私が触れていないと思われる点などございましたら、どうぞお気軽にお問い合わせください。もし、私がお答えしなかったと思われる誠実なご質問やご懸念がございましたら、ぜひご連絡ください。

私はイエス・キリストにお会いできる日を心待ちにしています。そして、それこそがまさに核心なのです。ほら、これは単に「ああ、ただトラブルから抜け出したい」とか、「辛いことは何も経験したくない」といった話ではありません。そうではないのです。 私はイエス様のもとへ行きたいのです。そして、もしあなたが救われているのであれば、それがあなたの心の最大の願いであるべきです。亡くなった救われた愛する人たちと再会できるだけでなく、聖徒たちや、何世紀にもわたって生きてきたすべてのクリスチャンたちとも再会できるのです。それは素晴らしいことでしょう。 しかし、何よりも素晴らしいのは、イエス・キリストのもとへ行き、私たちの救い主と顔を合わせてお会いし、もう罪について心配する必要がないと実感できることです。それが私が心待ちにしていることです。ですから、そのことを心に留めておいてください。繰り返しになりますが、ご質問がございましたら、ぜひご連絡ください。できる限りお手伝いさせていただきます。お聞きいただき、誠にありがとうございました。

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