大患難時の救い
/ 2026年7月26日
他の学びでもこの点については触れてきましたが、もう一度述べておくことが重要です。これから訪れるこの期間は、実際には「ヤコブの苦難の時代」と呼ばれるべきものです。
ヤコブとはイスラエルのことです。そして、この期間は特にイスラエル国民のためのものです。
それは彼らを正すためのものです。そして、この学びの中でそのことを見ていくことになります。
しかし、ここではまず、パウロがガラテヤの信徒たちに与えた警告についておさらいしたいと思います。
6節にこうあります。
「あなたがたが、キリストの恵みへと招いてくださった方から、これほど早く離れて、別の福音へと移ってしまったことに、私は驚いています。それは別の福音というわけではありません。ただ、あなたがたを惑わせ、キリストの福音を歪めようとする者たちがいるのです。 しかし、たとえ私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えたものとは異なる福音をあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれよ。以前にも申し上げたように、今改めて申し上げます。もし、あなたがたが受け入れたものとは異なる福音をあなたがたに宣べ伝える者がいるなら、その者はのろわれよ。(ガラテヤ人への手紙 1:6-9)
さて、私はこの件について非難を受けてきました。というのも、私は「ヤコブの苦難」の時代における救いの福音――ここでは、多くの方が馴染みのある「大患難」という言葉を使います――を信じているからです。しかし、その福音が私たちのものと異なると信じているという理由で、私は異端者と呼ばれてきました。彼らは聖書と向き合うことを望んでいないのです。
ただ、私にこうした非難を浴びせたいだけなのです。そこで、まず彼らが私に対して用いてくるであろう攻撃について、ここから話を始めようと思います。さて、今朝私が説教する内容は、今のことについてではありません。キリストの体がこの世を去った後のことについてであり、その時には状況は変わっていくのです。 状況は変わっていくのです。そして、今朝の学びの中で、そのことを証明してまいります。
「では、どうやってそれを知ることができるのでしょうか?」とおっしゃるかもしれません。実は、このメッセージは、携挙に間に合わなかった方々のために録音しているものです。「では、携挙がすでに起こったかどうか、どうやって分かるのでしょうか?」とおっしゃるかもしれません。 お分かりになるはずです。考えてみてください。この出来事がもたらす影響を考えると、それはノアの時代の洪水を除けば、歴史上最大の出来事となるでしょう。「では、イエス様が十字架で亡くなられたことはどうなのですか?」とおっしゃるかもしれません。確かに、それは最も重要な出来事ですが、最大の出来事ではありません。なぜなら、当時、ここにいる人々の多くは、エルサレムで何が起きているのかさえ知らなかったからです。
携挙が起きれば、それは世界規模の出来事となります。史上最大の惨事となるでしょう。実は、私はこのことについて考えていました。今週はずっと考えていたんです。たとえごく小さな地域一つを取ったとしても、そこには救われた人々がいます。さて、今日の午後、皆が車で帰宅している最中に携挙が起きたら、どうなるでしょうか?
事故が大量に発生するでしょう。運転手のいない車が至る所に飛び交うことになるでしょう。つまり、まさにカオスそのもので、事態は完全に予測不能になるのです。
携挙が起きれば、それは至る所で起こるでしょう。世界中で報道されることになるはずです。
人々が消え去り、車が道路から飛び出し、飛行機が空から落ちてくるでしょう。非常に混沌とした状況になるはずです。ですから、信じてください。携挙が起こっても、あなたがそれに気づかないということはありません。携挙が起こったことは、必ずお分かりになるはずです、いいですか?今、私がこの説教をしているこの瞬間、私たちはまだ教会の時代の中にいます。ですから、私は今日のためにこの説教をしているわけではありません。 この福音は今日のためのものではありません。今日のためのものではありませんが、もしこの出来事が起こり、あなたがこのメッセージに出会ったなら、このメッセージはまさにあなたに向けたものです。よろしいでしょうか?ですから、まずはそのように前置きをしておきたかったのです。私は偽りの福音を説いているわけではありません。よろしいでしょうか?私が言いたいのは、これが「ヤコブの苦難の時代」のための福音になる、ということです。では、何が起こるのでしょうか?
『ヨハネの黙示録』第4章から第5章までは、ここでは詳しく取り上げませんが、そこにはヨハネが天に召される場面が描かれています。天には、あらゆる言語、民族、部族、国民から集まった聖徒たちの大群がいます。 さて、彼らがそこにいます。ヨハネの黙示録6章1節から2節では、反キリストが現れます。ですから、聖書は「大患難前の携挙」を教えているのです。その点については、他の解説もぜひお聞きください。では、ヨハネの黙示録第13章を開いてみましょう。
ここでは、反キリストが何を行うのかについて見ていきます。
これについては、他のメッセージでも取り上げられていますので、ここでは一部にのみ触れることにします。ヨハネの黙示録13章15節から18節です。
13章の冒頭で、反キリストが現れます。その後、偽預言者が現れます。そして、15節にはこう記されています。
「彼は、獣の像に命を与える権能を与えられ、その像が語り、また、獣の像を礼拝しない者はすべて殺されるようにした。そして、彼は大小、貧富、自由人、奴隷を問わず、すべての人に、右手か額に印を受けさせるようにした。 また、この印、あるいは獣の名、あるいはその名の数を持たない者は、誰も買いも売りもできないようにしました。ここに知恵があります。理解のある者は、獣の数を数えてください。それは人の数であり、その数は六百六十です。(黙示録 13:15-18)
さて、あなたがこの印を受けるとしましょう。この時代を乗り切るとしましょう。
あなたは失敗してしまいます。携挙に乗り遅れてしまいます。さて。
さて、あなたはこの時代にいて、「ああ、彼らは私にこの印を受け、獣を礼拝するよう求めている。受けよう。大したことじゃない」と思うでしょう。いえ、それは大問題です。14章9節をご覧ください。
第14章9節にはこうあります。
「三番目の天使が彼らに続いて、大声でこう言いました。『もし、だれでも、獣とその像を礼拝し、額か手にその印を受けるなら、その人は、神の怒りの杯に、混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲むことになります。そして、聖なる天使たちの前で、また子羊の御前で、火と硫黄によって苦しめられることになります。 彼らの苦しみの煙は、永遠に上り続けます。また、獣とその像を礼拝する者、およびその名の印を受ける者は、昼も夜も休むことがありません。(黙示録 14:9-11)
「もし、だれでも、だれでも」と書かれていることにご注目ください。これにはクリスチャンも含まれます。
もしあなたがその時代にいて、携挙が起こり、このメッセージを聞いているのであれば、その印を受け、獣を礼拝すれば、あなたは永遠に終わりであることを理解する必要があります。すぐに地獄に行くわけではないかもしれませんが、地獄にいるのと同じことです。その印を受け、獣を礼拝した時点で、あなたの永遠の運命は決まってしまいます。例外はありません。
さて、今の時点では、まだ教会の時代です。では、教会の時代にこのようなことはあるでしょうか? いいえ。ここには、あなたが地獄に落ちるような行為は一切ありません。関係ありません。そこから抜け出すことはできません。分かりましたか? 今のところ、あなたが死ぬその日まで、救われるチャンスがあります。
死こそが、あなたが永遠にどこへ行くかを決定づけるものです。分かりましたか?もし、生涯を通じてイエス・キリストを拒み続け、その状態で死んでしまったなら、天国へは行けません。
しかし、生涯を通じてイエス・キリストを拒み続けながらも、死の床で心から悔い改め、真に救われる人々もいます。とはいえ、それは危険な賭けです。もしあなたがまだ生きていて、携挙がまだ起きていないのなら、そのようなことはしないでください。今日、救われてください。
わかりました。では、12節を見てみましょう。
黙示録14章12節です。
ここに聖徒たちの忍耐があります。ここに、神の戒めを守り、イエスの信仰を保つ者たちがいます。(黙示録14章12節)
さて、まさにここに、大患難の時代の聖徒たちのための、この大患難の時代の福音が示されています。もし携挙がすでに起こり、あなたがこのメッセージを聞いているのであれば、あなたは戒めを守り、イエス・キリストの信仰を保たなければなりません。
しかし、救いには二つの要素があります。12節にそれが示されています。戒めを守ること、そしてイエス・キリストへの信仰を保つことです。
もちろん、そこには「行い」の要素も含まれています。なぜなら、獣の印を受けたり、獣を礼拝したりすることはできないからです。それでは、どういうことになるでしょうか?
あなたは政府の敵となるのです。そして第二に、その間ずっと身を隠して生き延びるか、捕らえられて殺されるかのどちらかになるでしょう。
それが現実なのです。繰り返しになりますが、もしあなたが、携挙が起こる前にこの話を聞いているのであれば、救われてください。今の方が、その後に比べてずっと簡単です。それでは、ヨハネの黙示録20章をご覧ください。
黙示録20章4節です。
ここでは、この「印」、すなわち「獣の印」について書かれた別の聖句を見ていきます。
黙示録20章4節にはこうあります。
「また、私は玉座を見ました。人々がその上に座り、裁きが彼らに委ねられていました。また、イエスの証しと神の言葉のために首を切られて殺された者たち、また、獣やその像を礼拝せず、額や手にその印を受けなかった者たちの霊魂を見ました。彼らは生き返り、キリストと共に千年間、支配しました。」(ヨハネの黙示録20章4節)
それが、あなたがたが待ち望むべきものです。
もしあなたが「ヤコブの苦難の時代」を生き抜き、その印を受けることを拒み、そのために殺されたとしても。それが、あなたが待ち望むべき未来なのです。
厳しい状況になるでしょうが、あなたはそれを乗り越えることができるでしょう。
そして、この聖句との関連性についてお話ししましょうね。そこには、「彼らの額にその印が押された」とあります。
私は、それが埋め込み型のマイクロチップになると信じています。それが売買を制御する装置となるでしょう。しかし、おそらく額には目に見えるタトゥーのようなものが施されると思います。そうすれば、簡単に「あの人にはある、あの人にもある、あの人にもある」と判別でき、あるいは「あの人にはない」と分かるようになるでしょう。
そして、反キリストは偽りのキリストです。
彼は偽りのキリストなのです。
そして彼はこう言います。「忠誠の印を額に刻んでほしい」と。
『ヘブライ人への手紙』です。ヘブライ人への手紙を開いてください。
さて、このことを長い間研究してきた結果、私は、新約聖書の中に、この大患難の時代にユダヤ人のために特別に書かれた二つの書物があると考えています。ヘブライ人への手紙とヤコブの手紙です。ヘブライ人への手紙については、明らかに、私たちはヘブライ人ではありません。そうですね。
霊的には、はい、私たちは、ご存知のように、養子縁組の御霊を受けています。そのことは理解しています。
しかし、パウロが記しているように、肉的には私たちはユダヤ人ではありません。そしてヤコブの手紙ですが、最初の節で「散らされている十二部族」に語りかけています。そこを読み進めてみると、大患難の時代に説教される内容と完全に一致しています。わかりました。ヘブライ人への手紙第3章12節から14節です。
「兄弟たちよ、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心があり、生ける神から離れてしまわないよう、注意してください。また、『今日』と呼ばれる間、互いに励まし合いなさい。あなたがたのうち、だれも罪の欺きによって心が頑なにならないように。なぜなら、私たちが初めの確信を最後までしっかりと保ち通すならば、キリストの共同相続人となるからです。」(ヘブライ人への手紙 3章12~14節)
最後まで耐え抜かなければなりません。その点については、まもなく見ていくことになります。しかし、ここでは15節と16節の2つの聖句についても触れておきたいと思います。そこにはこう書かれています。
「今日、『その声を聞くならば』と言われている間、反抗した時のように、心を頑なにしてはなりません。ある人々は、それを聞いたにもかかわらず反抗しましたが、モーセに導かれてエジプトから出てきた者全員がそうだったわけではありません。」(ヘブライ人への手紙 3:15-16)
さて、ここでマタイによる福音書第24章に目を向けましょう。
13節にはこう記されています。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、救われるのです。」(マタイによる福音書 24章13節)
皆さんは最後まで耐え忍ばなければなりません。もし失敗して携挙に乗り遅れてしまったなら、あなたは真に救われてはいなかったのです。
最後まで耐え忍ばなければなりません。
14節をご覧ください。
「この御国の福音が、すべての国の人々に証しとして宣べ伝えられるでしょう。そうして、終わりが来るのです。」(マタイによる福音書 24章14節)
そこで、あなたはこう言うでしょう。「あなたは別の福音を宣べ伝えているから、異端者だ」と。いいえ、そうではありません。もし私が今日のためにそれを宣べ伝えていたなら、確かに異端者だったでしょうが、大患難の時期においてはそうではありません。
彼らは「御国の福音」を宣べ伝えているのです。
「行いと信仰、そして御国が来る」というのが、そこで宣べ伝えられる内容なのです。
わかりました。15節です。
ですから、預言者ダニエルが語った『荒廃の憎むべきもの』が聖なる場所に立っているのを見たら、読む者は理解すべきです。その時、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。ユダヤです。
さて、これはユダヤ人にとっての時期です。好むと好まざるとにかかわらず。
20節に飛びましょう。
しかし、あなたがたの逃亡が冬や安息日にならないよう、祈りなさい。(マタイによる福音書 24:20)
安息日はいつだったのでしょうか? いつ復活したのでしょうか? インターネット上で何人かの方から、「教会時代の教義こそが最後の摂理である」と指摘されました。
これからは「信仰のみ」だ、と。
私はいつもこう答えます。「その点については、あなたは間違っています」と。信仰のみではあり得ません。特に千年王国に至った時にはなおさらです。なぜなら、イエス・キリストが肉体をもってこの地上におられるからです。彼らはそのことをどう扱えばよいのか本当に分かっていないのです。しかし、大患難の時期でさえ、信仰のみではなく、信仰に加え行いが必要です。また、教会時代において安息日が有効であることを今この時点で証明することはできませんが、ヤコブの時代の大患難の時期、まさにその時に安息日が復活するのです。なぜそうなるのかとお尋ねになるかもしれませんが、エゼキエル書20章19~20節にその答えがあります。ここで手短に読み上げます。そこにはこう記されています。
「わたしはあなたがたの神、主である。わたしの定めを歩み、わたしのさばきを守り、それを実行しなさい。また、わたしの安息日を聖別しなさい。それは、あなたがたが、わたしがあなたがたの神、主であることを知るための、わたしとあなたがたとの間のしるしとなる。」(エゼキエル書20章19~20節)
安息日が復活するのです。
現在は施行されていません。では、いつ復活するのでしょうか? 大患難前の携挙を信じていない方々にとっては、これが問題となります。携挙こそが、教会時代を終わらせる出来事なのです。それがその出来事であり、非常に重要な出来事となるでしょう。
ヘブル人への手紙第6章を開いてください。
「耐え忍ばなければならない」という点について、ここからさらに2箇所を取り上げます。
ヘブライ人への手紙第6章4節にはこうあります。
「かつて光を受け、天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、また神の善き御言葉と来たるべき世の力を味わった者たちが、もし背き去ったならば、彼らを再び悔い改めに立ち返らせることは不可能です。彼らは、自分たちのために神の御子を再び十字架につけ、公然と恥をかかせているからです。」(ヘブライ人への手紙 6章4-6節)
さて、これは少し奇妙に聞こえるかもしれませんが、今この瞬間、あなたには永遠の救いの確信があります。あなたは贖いの日まで封印されています。
そして、携挙に乗り遅れて「ヤコブの苦難の時代」に入る偽りの説教者たちが大勢現れるでしょう。彼らは「永遠の安全」を説くことになるでしょう。
しかし、その時期には、あなた方には永遠の救いの確信はありません。では、なぜ彼らは永遠の救いの確信を説くのでしょうか。それは、彼らがいわば「印を受けることは問題ない」と主張しようとするからです。
救いを失うことはありません。あなたは贖いの日まで封印されているのです。
「印を受け、キリスト、すなわち真のキリストを敬いなさい」と。
そのような言葉に惑わされてはいけません。もし「印」を受ければ、救いは失われます。それだけのことです。その時期には、永遠の救いの保証はありません。携挙前の今日という時点では保証されていますが、その時期にはありません。惑わされてはいけません。
では、ヘブライ人への手紙第10章です。
ヘブライ人への手紙第10章26節です。
そこにはこう書かれています。
「もし、真理の知識を受けた後に、故意に罪を犯すなら、もはや罪のためのいけにえは残されておらず、ただ、恐るべき裁きの待ち望みと、敵対者たちを焼き尽くす燃えるような怒りだけが残されるのです。」(ヘブライ人への手紙 10:26-27)
『ヨハネの黙示録』第14章に何が書かれていたか、覚えていらっしゃいますか? 印を受ける者たちは、神の怒りに遭い、その苦しみの煙は、永遠に、永遠に上って行きます。これこそが、その「燃えるような怒り」なのです。
28節。
モーセの律法を軽んじた者は、二、三人の証人の下で、憐れみなく死にました。それならば、神の御子を踏みつけ、自分たちを聖別した契約の血を不浄なものと見なし、恵みの御霊を冒涜した者は、どれほど厳しい罰に値すると思われますか。(ヘブライ人への手紙 10:28-29)
さて、獣の印を受けるということは、その一部として獣を礼拝することになるということを覚えておいてください。つまり、自分はイエスの信仰を持っていると言いながら、実際にはイエス・キリストに背き、獣の印を受け、反キリストを礼拝することになるのです。ほら、これこそが大きな問題なのです。
さて、『ヨハネの黙示録』には、人々は神の戒めとイエスの信仰を守らなければならないと書かれています。では、それはどのようにして成し遂げられるのでしょうか。
さて、携挙の後には、実に驚くべき出来事が起こるでしょう。そして、マスコミはそれを隠蔽するために何らかの手段を講じるはずです。 具体的にどのような手段になるかは分かりませんが、彼らはそれを隠蔽するために何らかの行動に出るでしょう。では、ユダヤ人たちはいつ頃からイエス・キリストを信じ始めるのでしょうか? 彼らがイエス・キリストを信じるようになるには、何が必要なのでしょうか? さて、誰が彼らにイエスについて説教できるでしょうか? イエスご自身が彼らに説教することはできるでしょうか? いいえ。彼らはイエスを受け入れないでしょう。
当時もイエスを受け入れなかったのです。では、パウロはどうでしょうか?もし神様がパウロを復活させて、彼を連れ戻されたらどうでしょう?いいえ。彼らもパウロをそれほど高く評価していません。ペテロ、ヨハネ、マタイ、マルコ、あるいはルカはどうでしょうか?
彼らはこう言うでしょう。「ああ、あなたは異邦人のところへ行ってしまったではありませんか。あなたはユダヤ人なのに。ええ、でもあなたは異邦人のところへ行ってしまったのです。」
では、モーセについてはどうでしょうか?
彼らはモーセを、すべての預言者の中で最も偉大な人物だと見なしています。
さあ、ここをちょっとだけお見せしたいと思います。『使徒行伝』第6章です。
ここからが興味深いところです。なぜなら、この一連の出来事すべてが、主によってあらかじめ計画されていたことがお分かりいただけるからです。本当に驚くべきことです。『使徒行伝』6章9節では、ユダヤ人たちの個人的な証言と、彼らがどう考えているかが記されています。
ここでは、ステパノがユダヤ人たちに語りかけています。そして、9節にはこう書かれています。
すると、「リベルティン人、キレネ人、アレクサンドリア人、キリキア人、アジア人の会堂」と呼ばれる会堂の者たちの一部が立ち上がり、ステパノと論争を始めました。しかし、彼らはステパノが語る知恵と御霊に抗うことはできませんでした。そこで彼らは、ある者たちを買収して、「この男はモーセと神を冒涜する言葉を語っているのを聞いた」と言わせました。 そして、彼らは民衆や長老たち、律法学者たちを扇動し、ステパノに襲いかかって捕らえ、公会へ連行しました。そして、偽りの証人を立てさせ、「この男は、この聖なる場所と律法に対して冒涜的な言葉を絶えず語っています。私たちは、彼が『ナザレのイエスがこの場所を破壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と言っているのを聞いたからです」と証言させました。 そして、公会に席を置いていた者たちは皆、彼をじっと見つめましたが、その顔はまるで天使の顔のように見えました。
ここでは第7章は読みませんが、もちろん、この物語をご存じの方ならお分かりのように、ステパノは殺されてしまいます。彼らは彼を殉教させたのです。彼らは、救われたユダヤ人の証言を受け入れなかったのです。
彼らはイエス・キリストを受け入れなかったのです。しかし、彼らにとって何が聖なるものだったのでしょうか?
モーセです。さて、もしモーセがユダヤ人たちに説教できる方法があったとしたら、素晴らしいことではないでしょうか。
『ヨハネの黙示録』第11章を開いてください。
ここで何が起こるのかを見ていきましょう。
黙示録11章3節です。
「わたしは、わたしの二人の証人に権威を与える。彼らは、荒布を身にまとい、千二百六十日間、預言する。彼らは、地の神の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。 もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くします。また、もし誰かが彼らを傷つけようとするなら、その者はこのようにして殺されなければなりません。彼らには、預言している間、天を閉ざして雨が降らないようにする力があり、また、水を血に変え、望むたびにあらゆる災いで地を打つ力があります。(黙示録11:3-6)
モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したとき、まさにこの第六節にあるように、彼は同じことを行いました。彼は将来、再びそれらを行うことになるのです。そして、この二人の証人がモーセとエリヤであることをお示しいたします。これから話を進めていく中で、その点について詳しく見ていきましょう。
では、7節です。
そして、彼らが証しを終えたとき、底知れぬ穴から上って来る獣が彼らと戦いを繰り広げ、彼らに打ち勝ち、彼らを殺すでしょう。そして、彼らの死体は、霊的にソドムとエジプトと呼ばれる大いなる都の通りの上に横たわることになります。そこは、私たちの主が十字架につけられた場所でもあります。
この点は、後ほどのために覚えておいてください。9節です。
そして、諸民族、諸部族、諸言語、諸国の人々は、三日半の間、彼らの死体を見るでしょう。そして、その死体を墓に葬ることを許しません。また、地に住む者たちは、彼らを喜んではしゃぎ、互いに贈り物を送り合うでしょう。というのも、この二人の預言者が、地に住む者たちを苦しめたからです。 そして、三日半の後、神からのいのちの霊が彼らに入り、彼らは立ち上がりました。それを見た者たちには、大きな恐れが襲いました。そして、天から大きな声が聞こえ、「ここへ上ってきなさい」と言われました。彼らは雲に乗って天に昇り、敵たちはそれを見届けました。(黙示録 11:9-12)
今日、多くの人が説教者に不快感を抱いています。
携挙を逃してこの時代に生き残り、この二人の預言者が歩き回り、水を血に変えたり、災いが地上に降り注いだりするのを見たら、そうした人々が彼らの言うことを聞くと思いますか? まずありえません。一体誰が聞くというのでしょうか?
もしこれがモーセとエリヤであるなら――私はそう信じていますが――一体誰が彼らの言葉に耳を傾けるでしょうか?
ユダヤ人たちはしるしを求めています。
ですから、彼らはしるしを伴って現れるのですが、同時に、これがモーセであることに気づくのです。モーセが戻ってきたのです。 以前、チャールトン・ヘストン主演の映画『十戒』に関する興味深い話を耳にしました。彼はエルサレムに滞在していた際、映画のためにモーセのような衣装を着せられていたそうです。彼は街のあちこちを歩いていたところ、ユダヤ人たちは手元の作業を止めて、ただ彼をじっと見つめ、「モーセ、モーセ」と口々に言っていたそうです。ご存知の通り、彼らはモーセを非常に高く評価しており、あの時代に彼を復活させて人々に説教させるのは、まさに理想的な人物だったのです。そして、面白いことをしたいなら、いつか『ヘブライ人への手紙』を読んで、モーセとエリヤがユダヤの人々にその内容を説教している様子を想像してみてください。それは極めて理にかなっています。荒野にいた先祖たちや、あの場所の先祖たちについて語られる――それがユダヤ人に向けて説教されているのです。この人々に説教するには、まさに最適な書物でしょう。
ここで、もうひとつ興味深い点をお見せしたいと思います。『ヘブライ人への手紙』第11章です。
これは、当時のユダヤ人たちに説教するのにまさにうってつけの内容です。
ヘブライ人への手紙11章23節には、次のように書かれています。
「信仰によって、モーセは生まれたとき、両親によって三ヶ月間隠されました。彼らは、彼が立派な子であることを見抜いたからです。そして、彼らは王の命令を恐れませんでした。」
これは、大患難の時期に役立つかもしれません。
非常に役に立つでしょう。反キリストは王と見なされるのでしょうか?
間違いなくそうです。ええ。そして、もしあなたがその時代に生きているなら、彼の命令を恐れてはいけません。
24節です。
信仰によって、モーセは成長すると、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒みました。一時的な罪の快楽を楽しむよりも、むしろ神の民とともに苦難に耐えることを選んだのです。
もしあなたが「獣の印」を受ければ、その場を切り抜けられたと思うかもしれませんが、それは罪であり、その状態は一時的なものに過ぎません。そして、モーセは神の民と共に苦難に耐えることになるのです。神の民とは誰のことでしょうか?
それはユダヤ人です。
そこにはそう書かれています。
26節。
キリストの辱めを、エジプトの宝よりも大きな富と見なしたのです。なぜなら、彼は報いの報酬に目を向けていたからです。
キリストの辱め。
モーセがキリストの辱めを負ったこと。
それはいつ起こるのでしょうか?
それは、ヤコブの苦難の時代、まさにその最中に起こります。そして、その頃について、エジプトの宝物について記されています。先ほど『ヨハネの黙示録』で、エルサレムが何と呼ばれているか読みましたか? ソドムとエジプトです。
旧約聖書において、モーセはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らをエジプトから導き出したのです。
将来、モーセはイスラエルの民のために何をするのでしょうか?
聖なる場所に「荒廃の憎むべきもの」が立っているのを見たら、逃げなさい。
まさにその通りです。そして、今ここで申し上げたいのですが、私は聖書の中にこうした事柄の一部を垣間見ることができます。
しかし、私は「教会時代」という摂理の中にあり、この時代を先取りして見ているのです。少しぼんやりとしています。私はそれを完全に理解することはできないでしょう。
私には完全な知恵はありません。
ですから、あまり多くを語るつもりはありません。なぜなら、その時代が到来するまでは、主はこうした事柄の多くを明らかにされないからです。
その時には、もっとはっきりとわかるようになるでしょう。ですから、このことについてどれほど話すかについては、慎重に考えたいと思います。
それでは、申命記に戻りましょう。
モーセが現れたとき、ユダヤ人たちは彼を受け入れるのでしょうか?
さて、ここで非常に興味深いことをお見せしてから、この学びを締めくくりたいと思います。
申命記第34章、申命記の最後の章です。
これは非常に興味深い内容です。
申命記第34章1節です。
モーセはモアブの平野からネボの山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの頂上へと登りました。 主は、ギレアデの全土からダンに至るまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、そしてユダの全土から海の果てに至るまで、また南の方、ヤシの木の街であるエリコの谷の平野からゾアルに至るまで、モーセに示されました。
さて、現在、ユダヤ人はその土地のすべてを所有しているわけではありません。
しかし、ここで主が何とおっしゃっているか、ご覧ください。第4節です。
主は彼にこう言われました。「これは、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地です。『あなたの子孫にこれを与える』と。わたしはあなたが自分の目でそれを見るようにしましたが、あなたはそこへ渡ってはなりません。」
モーセは罪を犯していました。その詳細には立ち入りませんが、彼は罪を犯していたのです。
彼はその地に入ることはできませんでした。しかし、神はこう言われました。「これは、わたしが誓った地である。」神は、「もしあなたが知っていれば」などとは言われませんでした。神は、彼らにその地を与えると誓われたのです。神は約束され、誓いを立てられました。彼らはその地を受け継ぎ、エルサレムから統治し、支配することになるのです。
第五節。
こうして、主のしもべモーセは、主の御言葉どおり、モアブの地で死にました。そして、主は彼をモアブの地のベト・ペオルに面した谷に葬られました。しかし、今日に至るまで、彼の墓の場所は誰にも知られていません。
モーセを葬ったのは誰でしょうか。
神様です。興味深いことではありませんか?神様ご自身が埋葬された人物が、他にいたかどうかは分かりません。
さて、なぜ神はモーセを葬られたのでしょうか。その点については、後ほど詳しく見ていきます。
彼の墓の場所は、誰も知りません。
モーセはどこに埋葬されているのでしょうか?エルサレムに行って、正統派ユダヤ教徒やラビなどに近づき、「あの、すみません。モーセはどこに埋葬されているのですか?」と尋ねてみてください。「わかりません」と答えられるでしょう。
その理由は何でしょうか?
第7節。
モーセは百二十歳で亡くなりました。その目は衰えず、体力の衰えもありませんでした。イスラエルの民はモアブの平野で三十日間、モーセのために泣き悲しみました。こうして、モーセを悼む泣き悲しみの日々は終わりました。ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていました。モーセが彼に手を置いて祝福したからです。イスラエルの民は彼の言葉に耳を傾け、主がモーセに命じられたとおりにしました。 それ以来、イスラエルには、モーセのような預言者は現れませんでした。主はモーセと顔を合わせて知っておられました。主がモーセをエジプトの地へ遣わし、ファラオやそのすべての家臣、そしてその全土に対して行わせたすべてのしるしと不思議、また、モーセがイスラエルの民全員の目の前で示したすべての力強い御業と、すべての大きな畏怖の御業において。(申命記 34:7-12)
ヤコブの苦難の時代には、再び同じことが起こるでしょう。
では、エリヤについてはどうでしょうか。列王記下第2章11節です。
二人がまだ歩きながら話していると、見よ、火の戦車と火の馬が現れ、二人を引き離しました。そして、エリヤは旋風に乗って天に上げられました。
エリヤは天に引き上げられました。彼は決して死ぬことはありませんでした。
ですから、モーセは亡くなりましたが、彼がどこに葬られたのかは誰も知りません。神様が葬られたのです。
エリヤは死ぬことなく天に召されました。ですから、モーセとエリヤがまさにあそこに埋葬されているとは言えません。
ほら、もし「ここが聖なる祠であり、ここにモーセが埋葬された」といった場所があったとしたら、聖書には彼が埋葬された場所が明確に記されています。そして「ここがエリヤが埋葬された場所だ」とも。あなたがそこに立っているのだと人々に納得させるのは、非常に難しいことでしょう。 もちろん、神様なら彼らを復活させることもできたでしょうが、実際のところ、神様はこれら二人の人物の遺体が存在しない埋葬地を、ある非常に明確な理由から、あえて残しておかれたのだと思います。
さて、もうひとつ、非常に興味深いことをお見せしましょう。ユダの手紙9節です。
実は今週、この箇所を耳にして、これは実に驚くべきことだと感じました。
しかし、大天使ミカエルは、悪魔と争い、モーセの遺体について論争した際、あえて悪魔を激しく非難することはせず、「主があなたを叱責されますように」と言ったのです。(ユダの手紙 1:9)
なぜ悪魔はモーセの遺体を欲しがったのでしょうか?
興味深い問いですね。
というのも、もし悪魔がモーセの遺体を手に入れていたら、彼が埋葬された場所に特別な聖地を作り上げることができたでしょう。そうなれば、モーセが戻ってきたとしても、人々は彼の証言を受け入れなかったはずです。
時間の都合上、そこについては詳しく触れませんが、マタイによる福音書17章1~9節、マルコによる福音書9章2~10節には、変容の山での出来事が記されています。そこに現れたのは誰でしょうか?
モーセとエリヤです。そして、ペテロは何と言いましたか?「幕屋を建てましょう。一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために。」
いいえ。いいえ、ペテロさん。それは良い考えではありません。
マラキ書第4章が、最後に取り上げる箇所となります。
旧約聖書の最後の書です。
数年前に教会を訪れた、改宗したユダヤ人の方の証しがあります。非常に興味深い証しでした。彼はホロコーストを生き延び、その経験を経てユダヤ教のラビとなり、最終的に救いを受けました。実に興味深い人物です。彼はこう語りました。「『ユダヤ人を改宗させるのですか?』とよく聞かれますが、私はそうはしません。私は彼らを『完成』させるのです」と。
彼らには旧約聖書がありますが、ただ「完成」される必要があるのです。
彼らはメシアを待ち望んでいます。
彼らはそれに気づいていません。そして、彼らの多くは――本当です、本当に多くの人が――指導者たち、すなわちラビたちが真実を隠しているからだと、私は信じています。彼の証言を聞いてみてください。
ある若い男性から質問を受けたのです。「私が死んだら、どこへ行くのですか?」と。すると彼は、「まあ、アブラハムの懐のようなところへ行くでしょう。そして、息子たちによる祈りが必要になるのです」と答えました。するとその青年は、「もし息子ができないうちに死んでしまったらどうなりますか」と尋ねました。
良い質問ですね。そして、それがきっかけで、彼は基本的にイザヤ書第53章へと導かれたのです。彼らはその箇所を避けようとします。正統派ユダヤ教徒は、イザヤ書第53章を避けようとするのです。
そして、それがきっかけで彼はヨハネの福音書を学び始め、それが主イエス・キリストへと導いたのです。しかし、それこそが彼らが待ち望んでいることなのです。それでは、ここでマラキ書4章1節から6節を見てみましょう。その後、締めくくりにいたします。
そこにはこう書かれています。
「見よ、炉のように燃え上がる日が来る。高ぶる者、また悪を行う者はみな、もみ殻のようになる。来るべきその日は、彼らを焼き尽くす。万軍の主はこう言われる。『彼らに根も枝も残さない。』しかし、わたしの名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼には癒やしを携えて来る。あなたがたは出て行き、牛舎の子牛のように育つ。 そして、あなたがたは悪しき者たちを踏み砕くでしょう。私がこのことをなすその日、彼らはあなたがたの足の裏の灰となるからです、と万軍の主は言われます。
これこそが、ヤコブの苦難の時代の終わりです。
さて、もしあなたがこのメッセージを聞いていて、まだ救われていないのであれば、あなたは携挙の機会を逃してしまいました。これが、あなたがこれから直面することになる未来です。
獣の印を受けてはいけません。それは地獄への片道切符だからです。
あなたはこの期間を乗り越えなければなりません。
しかし、4節をご覧ください。
「わたしのしもべモーセの律法、すなわち、ホレブでイスラエルの民全体のためにわたしが彼に命じた掟と裁きとを、あなたがたは覚えていなさい。見よ、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたのもとに遣わします。彼は、父たちの心を子たちに向け、子たちの心を父たちに向けさせるでしょう。そうしなければ、わたしが来て、のろいでこの地を打つことになるからです。
モーセとエリヤが来られます。彼らこそが、今まさに、正統派ユダヤ人、すなわち「未完成のユダヤ人」たちを回心させるのです。彼らは完成されることになりますが、その道のりは厳しいものとなるでしょう。
それは非常に、非常に過酷な時期となるでしょう。誰にも惑わされないでください。あなたを過去へと引き戻そうとしたり、「永遠の救いが保証されているから、獣の印を受けても構わない」などと説く者たちに惑わされないでください。惑わされないでください。
さて、今朝のメッセージは以上です。お聞きいただきありがとうございました。
