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教会の時代

フィリップ より  /  2026年8月2日

それでは、今朝は「教会の時代」についてお話ししたいと思います。

それでは、今朝はマタイによる福音書第16章18節から始めましょう。

さて、「教会」という言葉が最初に登場するのはどこでしょうか。聖書を読む際、いわゆる「初出の法則」を活用することができます。ある言葉が初めて登場する箇所では、多くの場合、その定義が示されています。それによって、その言葉が聖書の残りの部分でどのような意味を持つのか、大まかな見当をつけることができるのです。

それでは、マタイによる福音書第16章18節をご覧ください。

また、わたしはあなたに言います。あなたはペテロです。この岩の上に、わたしの教会を建てます。地獄の門も、それを打ち破ることはできません。(マタイによる福音書 16章18節)

ここには二つの解釈があります。正しい解釈と、間違った解釈です。正しい解釈は、イエス・キリストこそが、教会が築かれる岩であるということです。

「すでに据えられている土台、すなわちイエス・キリスト以外に、だれも別の土台を据えることはできません。」(コリントの信徒への手紙一 3:11)

さて、カトリックの解釈では、「あなたはペテロであり、イエスこそが教会が築かれる岩である」とされています。その解釈の問題点をご説明しましょう。22節に進んでください。

すると、ペテロはイエスを脇に引き寄せ、こう言いながら、イエスを叱りつけました。「主よ、そんなことは決してあってはなりません。あなたにそのようなことが起こるはずがありません。」

彼は、イエスが十字架で死ぬという話を聞きたくなかったのです。そして、イエスの反応をご覧ください。

しかし、イエスは振り返ってペテロに言われました。「サタンよ、私の後ろに下がりなさい。あなたは私の妨げです。あなたは神の御心ではなく、人の考えを重んじているからです。」(マタイによる福音書 16章22-23節)

もしペテロが教会が築かれた岩であるとするなら、その土台はかなり不安定なものになってしまいます。

私はペテロを批判しようとしているわけではありません。もちろん、彼は後に偉大な神の僕となりました。しかし、教会がペテロの上に築かれていると言うのは馬鹿げています。そうではありません。教会はイエス・キリストから始まったのです。

ですから、ここで教会について初めて言及されている箇所をご覧いただくと、それはイエス・キリストによって、またイエス・キリストの上に築かれたものであると書かれており、これはまさに真実です。しかし、ここからわずか二章先、マタイによる福音書18章15節に目を向けてみましょう。

ここでは、ある興味深い点が見えてきます。

また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、あなたと彼との二人きりのところで、その過ちを指摘しなさい。もし彼があなたの言うことを聞くなら、あなたは兄弟を取り戻したことになる。しかし、もし彼があなたの言うことを聞かないなら、さらに一人か二人を連れて行きなさい。そうすれば、二、三人の証人の口によって、すべての言葉が立証されるからです。 もし彼らが言うことを聞き入れないなら、教会に告げなさい。もし教会にさえ聞き入れないなら、その人を異邦人や取税人のようにみなせ。(マタイによる福音書 18:15-17)

さて、教会という言葉が最初に三回登場するのはマタイの福音書であり、そこにあるのはその三箇所だけです。次に教会という言葉が現れるのは、使徒行伝になります。

ところで、一つ質問させてください。「教会」という言葉の最初の言及は、旧約聖書にあるのでしょうか、それとも新約聖書にあるのでしょうか?

旧約です。そうです。人々は、「ああ、マタイにあるから、新約に違いない」と言います。いいえ。なぜそれが当てはまらないのか、お見せしましょう。ヘブライ人への手紙第9章を開いてください。

ヘブライ人への手紙第9章15節です。

もちろん、これについては以前にも触れましたが、いくつかの点を明確にしておくために、ここで改めて取り上げます。

そして、このゆえに、彼は新しい契約の仲介者となられたのです。それは、最初の契約の下にあった過ちを贖うために、死によって、召された者たちが永遠の嗣業の約束を受けられるようにするためです。なぜなら、契約があるところには、必然的に遺言者の死もなければならないからです。 遺言は、人が死んで初めて効力を生じます。そうでなければ、遺言者が生きている間は、まったく効力を持ちません。(ヘブライ人への手紙 9:15-17)

新約聖書はいつ始まったのでしょうか?

それはイエス様の死から始まりました。その時から始まったのです。その時からすべてが始まったのです。そして、そのことを裏付ける証拠をお求めなら、聖書の中に4か所あります。それらを一つひとつ挙げていくことはしませんが、マタイによる福音書26章28節が最初の箇所です。最後の晩餐の席で、イエス様はこう言われました。

「これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血、すなわち新しい契約の血です。」

この言葉はマルコによる福音書14章24節、ルカによる福音書22章20節にも記されており、またコリントの信徒への手紙第一11章25節でも、私たちがこれを記念として行うべき聖餐について語られています。しかし、それは新約の血なのです。

それこそが新約聖書の始まりなのです。

イエス様の誕生ではありません。イエス様の死と、流された血なのです。その血の犠牲が新約をもたらしました。そして、それはカルバリの丘で起こりました。そこが新約の始まりなのです。ですから、教義的に言えば、教会――実際、「教会」という言葉は旧約聖書に最初に登場します。そして、ここではそれが実際には問題ではないことをお示ししたいと思います。 話が先走ってしまわないようにしたいのですが、ちょっとした興味深い補足としてお伝えしておきます。ところで、ここでの説教の一つで、この話を少し触れておきたかったのです。

さて、教会に関する最後の言及はどこにあるでしょうか。黙示録3章14節です。

「ラオディキアの教会の御使に書き送れ。」

つまり、「教会」という言葉の最後の言及は、先ほどその節の冒頭部分をお読みしましたが、最初の言及はマタイの福音書にあります。最後の言及はヨハネの黙示録3章14節です。

これについては、後ほど詳しくお話しします。

では、「教会」の複数形についてはどうでしょうか。最初の言及は使徒行伝9章31節にあります。

こうして、ユダヤ全土、ガリラヤ、サマリアの至る所で、教会は安らぎを得て、築き上げられました。そして、主を畏れ、聖霊の慰めの中で歩み、ますます増し加わりました。(使徒行伝9章31節)

これはキリストの体について語っているものです。

そして、「教会」という言葉の最後の言及は、ヨハネの黙示録22章16節にあります。

わたし、イエスは、これらのことを諸教会に証しさせるために、わたしの御使いを遣わしました。わたしはダビデの根であり、その子孫であり、輝く明けの明星です。(ヨハネの黙示録 22:16)

つまり、最初の言及は使徒行伝にあり、最後の言及はヨハネの黙示録にあります。ここで興味深いのは、「教会」という言葉が、ヨハネの黙示録4章から21章に至るまで、一度も登場しないということです。コンコーダンスで調べてみてください。 「教会」という言葉は、その大患難の期間には登場しません。さて、これは実に興味深い点であり、皆さんはこの点に飛びついて、「ほら、教会は大患難の中にいないのだから、これは大患難前の携挙を証明している」と言いたくなるかもしれません。ええ、私も大患難前の携挙を信じています。しかし、解釈をねじ曲げられて、逆に自分に不利に利用されるような事柄を、安易に用いないよう注意しなければなりません。 私が何を言いたいのか、例を挙げて説明させてください。「教会」という言葉が大患難の期間に現れないという主張には問題があります。というのも、「教会」という言葉は三回登場しており、そのうち二回は『ヘブライ人への手紙』に、一回は『ヤコブの手紙』に記されているからです。

さて、教義的には、『ヘブライ人への手紙』と『ヤコブの手紙』は患難期の聖徒たちに向けたものであると私は信じています。ですから、そこでは「教会」という言葉が使われているのです。それでは、具体的にご説明しましょう。「では、『教会』という言葉をどのように定義するのですか?」とおっしゃるかもしれません。それでは、『ヘブライ人への手紙』第10章25節を開いてみてください。教会とは本来どのようなものであるべきか、その適切な定義をお示しします。

また、ディスペンセーションの観点から見て、いくつかの点は重なり合う部分があります。それらは基本的に誰にとっても当てはまる真実です。

「ある人たちの習慣のように、互いに集まることを怠ってはなりません。むしろ、その日が近づいているのを見るにつれて、なおさら互いに励まし合いなさい。」(ヘブライ人への手紙 10章25節)

さて、まさにこれこそが、教会とは本来どのようなものであるべきかを定義する方法です。「互いに集まること」。それこそが教会なのです。

それは「集まり」なのです。

さて、この聖句を利用して、「物理的な教会に定期的に通わないことは罪である」と主張しようとする教会グループには、十分ご注意ください。それは真実ではありません。これまでの学びを通じて何度か証明してきたように、この箇所は患難期の聖徒たちに向けたものであり、イエス・キリストへの信仰のみによって救われた、教会時代に生きる人々には当てはまりません。

ヘブライ人への手紙12章23節を開いてください。

ここでも同じことが書かれています。集会についてですが、実はこの節の中でも「教会」という言葉が使われています。

「天に記されている長子たちの総会と教会、すべての者の裁き主である神、そして完全な者となった義人の霊たちへ」。

このように、同じ節の中に「大集会」と「教会」が並んで挙げられています。

それでは、ヤコブの手紙第2章をご覧ください。

「兄弟たちよ、栄光の主である私たちの主イエス・キリストへの信仰において、人を差別してはなりません。もし、金指輪をはめ、立派な服を着た人が、また、みすぼらしい服を着た貧しい人が、あなたがたの集会にやって来たとしたら、(ヤコブの手紙 2章1-2節)」

そして、その箇所は、豪華な服を着た金持ちの男を特別に扱うことについて述べています。ここでもまた、集会という概念が重要なポイントとなっているのです。教会史の大部分において、クリスチャンたちが集まることは常に非常に危険な行為でした。 多くの場合、彼らは秘密裏に集まらざるを得ませんでした。「誰でも歓迎します」と公言することはできなかったのです。そして今、ここ数百年、多くの国では、誰でも参加できる形で公然と集会が行われてきました。しかし、それはここには礼拝を行うための非常に安全な場所があったからです。北朝鮮のような場所では、そのようなことはできないでしょう。

さて、時が経ち、迫害がますます激しくなるにつれて、集会に誰を招き入れるかについて、再び細心の注意を払わなければならない状況に戻っていくでしょう。ヘブライ人への手紙10章25節には、「救われた者たちの集まりを怠ってはならない」と記されています。 そして、「ヤコブの苦難の時代」が訪れたとき、何らかの理由で携挙に間に合わず、その時代に直面することになった場合、獣の印を持つ人々を集会に招き入れることはできなくなります。それは賢明な判断ではありません。誰を招き入れるかについては、非常に慎重にならなければなりません。しかし重要なのは、「教会」という言葉は、基本的に「救われた人々の集まり」と定義されているということです。

では、「クリスチャン」という言葉についてはどうでしょうか。

さて、時間の都合上、すべての聖句を挙げていくことはしません。今日は取り上げるべきことがたくさんあります。使徒行伝11章26節が、「クリスチャン」という言葉が初めて登場する箇所です。

そして、彼を見つけ出すと、アンティオキアへ連れて行きました。すると、一年間、彼らは教会と共に集まり、多くの人々に教えを説きました。そして、弟子たちは、アンティオキアで初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。(使徒行伝11章26節)

次の箇所は使徒行伝26章28節です。

そこで、アグリッパはパウロに言いました。「あなたは、私をクリスチャンになろうとほとんど説得しかけた。」(使徒行伝 26:28)

そして最後の箇所は、ペテロの手紙第一4章16節にあります。

しかし、もしだれかがクリスチャンであるために苦難を受けるなら、それを恥じてはなりません。むしろ、そのことで神をあがめなさい。(ペテロの手紙一 4:16)

そして、これが聖書の中で「クリスチャン」あるいは「クリスチャンたち」という言葉が登場する唯一の箇所です。なかなか興味深いですね。「クリスチャン」あるいは「クリスチャンたち」という言葉が使われているのは、たったの3回だけです。合計で3回です。

では、教会時代とは何でしょうか。これについては議論の余地がありますが、基本的には『使徒行伝』から始まります。ある人々は、十字架の死、つまり新約聖書の始まりからだと主張し、またある人々は、いいえ、ペンテコステの日に始まったのだと言います。

今日はその点については詳しく取り上げません。どちらの説を信じるかは人それぞれですから。しかし、基本的には『使徒行伝』から始まります。過激なディスペンセーション主義者が教えるように、パウロから始まるわけではありません。なぜなら、パウロは『ローマ人への手紙』16章で、数人の名前を挙げ、「私よりも先にキリストにあっていた人々」と述べているからです。つまり、キリストの体はパウロよりも前から存在していたのです。では、教会時代は『使徒行伝』から始まり、何で終わるのでしょうか?

教会の時代は、何によって終わるのでしょうか?

携挙です。携挙については、もちろんお読みいただけます。それに関する研究も数多くあります。しかし、コリントの信徒への手紙第一15章51節から58節、テサロニケの信徒への手紙第一4章16節から18節、そしてヨハネの黙示録4章1節から2節にも記されています。

わかりました。さて、黙示録第4章以降、教会が姿を消していく様子が、ある程度お分かりいただけるかと思います。ですから、そこには何らかの適用があるのです。私はそれを完全に否定することはできません。

この時代における救いは、信仰によるものです。行いは、単に天国での報いを得るためのものです。

第三に、この時代におけるクリスチャンは、永遠の救いが保証されています。これについては、後ほど詳しく取り上げます。また、彼らは聖霊によって封印されています。これも、永遠の救いが保証されていることの一部です。 エペソ人への手紙1章13節と4章30節に記されています。そして、現在の私たちの教義の大部分はパウロの手紙に見出され、聖書の残りの部分は教えと義のためにあります。また、福音書や他のいくつかの書物にも教義を見つけることができます。旧約聖書にも、一部重なる部分があります。しかし、重要なのは、テモテへの手紙第二2章15節に書かれているように、学ばなければならないということです。

「真理の御言葉を正しく分け、神に認められた、恥じることのない働き人となるよう、熱心に学びなさい。」

そこには、「働き人」とあります。

真理の御言葉を正しく区別するには、労力が必要です。だからこそ、多くの人がディスペンセーション主義を好まないのです。それは、多くの研究と時間を要し、彼らはそれをやりたくないからです。彼らはただ手っ取り早く済ませたいだけなのです。しかし、物事はそうはいかないのです。さて、このメッセージの第二部に移りたいと思います。 数ヶ月前、ある友人と話していた時のことです。彼がある発言をしたのですが、それが私の考えを深くさせました。

彼は、要するに「もしパウロの手紙が、実はクリスチャンの人生を象徴しているとしたらどうでしょうか?」と言ったのです。

パウロの手紙の順序は、クリスチャンの霊的な成長を表しているのではないか、と。

そして、私たちはそれを少しずつ整理していきました。何度か話し合いを重ねながら、その仕組みがどのように機能するのかを検討したのです。その後、しばらくそのことを脇に置いていたのですが、もう数ヶ月が経ちました。改めてその話題に戻ったところ、主が残りの部分を示してくださいました。これは実に興味深いことです。

これからその点について詳しく見ていきます。新約聖書の各書が、実際にどのように構成されており、クリスチャンの人生を反映しているのかをお見せします。まずは『使徒行伝』から始まります。『使徒行伝』をいつか通読されると、ユダヤ人が国家としてイエスをメシアとして拒絶し、福音が異邦人へと広がっていった様子がわかるでしょう。そして、福音が異邦人に宣べ伝えられていく様子が見て取れるはずです。

さて、ローマ人への手紙とは何でしょうか? ローマ人への手紙とはどのような書物なのでしょうか? この書物全体が基本的に何について書かれているか、一言で説明できるでしょうか。そうですね、もしこれを分類するとすれば、「義認」について書かれたものだと私は考えています。

ローマ人への手紙3章20節に戻りましょう。

ここでは、いくつかの節を取り上げて、この箇所を順を追って見ていきましょう。

さて、ある時点で、「私は救われなければならない」と気づかれたとします。そして、主に祈り、イエス・キリストを救い主として受け入れたとします。

さて、ここからが本当の始まりなのです、よろしいでしょうか?

ローマ人への手紙3章20節にはこうあります。

「それゆえ、律法の行いによって、御目の前で義と認められる者は、ひとりもいないのです。なぜなら、律法は罪の認識をもたらすからです。」(ローマ人への手紙3章20節)

さて、その律法は皆さんの心に刻まれています。すべての人の心にです。つまり、救われた後に初めて律法が現れて、罪を指摘するわけではありません。いいえ。もしあなたが失われた者であるなら、たとえ最も迷い深い人であっても、人を殺すことは間違っていること、盗むことは間違っていること、嘘をつくことは間違っていることを知っています。 ご存知のように、救われていない人でもそれを知っています。ですから、律法は罪を指摘するためにあるのです。救われるために律法を守らなければならないというわけではありません。ローマ人への手紙4章6節から8節をご覧ください。

ですから、ここでは私が律法を守れないことがお分かりいただけるでしょう。私にはイエス・キリストが必要です。ローマ人への手紙4章6節をご覧ください。

ダビデもまた、行いによらずして神から義と認められる人の幸いを次のように述べています。「その不義が赦され、その罪が覆われる者は、幸いである。主が罪を帰さない人は、幸いである。」(ローマ人への手紙 4章6~8節)

あなたは律法を守ることができません。ですから、神はイエス・キリストを通して、あなたに義を与えてくださるのです。

ここで使われている「帰する(impute)」、「帰属(imputation)」、「帰された(imputed)」という言葉は、聖書全体を通して最も重要な言葉の一つです。なぜなら、あなたが理解すべきことは救いについてだからです。それはあなたが成し遂げたことでもなければ、救われるために継続して行わなければならないことでもありません。

それは、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げられたことなのです。

その血こそが、それらの罪を洗い流してくれるのです。そして、救いにおいて起こることは、あなたの罪深い人生、つまり過去・現在・未来の罪が取り除かれ、イエス・キリストの完全な人生と取り替えられるということです。

イエス・キリストの義、すなわちその清く完全な人生が、あなたに帰せられるのです。

あなたは神に対して罪を犯しました。神に対して負い目があり、それを支払うことはできませんが、イエス・キリストがそれを支払ってくださいます。
イエス・キリストの義があなたに与えられます。それはあなたに帰せられるのです。これは非常に重要なことです。

そして、救われたその瞬間に、このことを正しく理解しておく必要があります。そうでなければ、ただ善行を積み続けようとし、決して確信を持つことができないからです。このことをしっかりと心に刻んでおく必要があります。

私が義と認められるのは、私自身のためではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださったことによるのです。

ローマ人への手紙第8章35節を開いてください。

ここにはこう書かれています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。苦難でしょうか、苦悩でしょうか、迫害でしょうか、飢えでしょうか、裸であることでしょうか、危険でしょうか、剣でしょうか。聖書にこう記されています。『あなたのゆえに、私たちは一日中殺されています。私たちは、屠られる羊のように扱われています。』いいえ、これらすべての事において、私たちを愛してくださった方によって、私たちは、勝利者以上の者となるのです。 私は確信しています。死も、生も、御使いたちも、支配者たちも、力ある者たちも、現在のことも、未来のことも、高きものも、深きものも、その他のいかなる被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ人への手紙 8:35-39)

あなたはイエス・キリストの血によって義と認められています。そして、救われた時には、そのことをしっかりと理解しておく必要があります。では、次に何が起こるのでしょうか?

さて、あなたは罪の自覚に導かれ、救われ、イエス・キリストが十字架の上ですべての罪の代価を支払ってくださったことを理解しました。では、クリスチャンとしての人生において、次に何が起こるべきでしょうか?

それでは、次の二冊の書、コリントの信徒への手紙第一と第二に進みましょう。この二冊の書物の主なテーマは何でしょうか?

「肉的な、まだ幼いクリスチャンたち」です。コリントの信徒への手紙第一、第3章を開いてください。

このコリントの教会についてですが、パウロは他のどの教会よりも、この教会との間で多くの問題を抱えていました。手紙全体を通して、パウロは彼らを叱責していますが、彼らはそれをあまり快く受け止めていません。時には受け入れることもあれば、そうでないこともあります。それでは、コリントの信徒への手紙第一3章1節を読みましょう。

兄弟たちよ、私はあなたがたに、霊的な人々としてではなく、肉的な人々として、すなわちキリストにある幼子たちとして語らざるを得ませんでした。 私はあなたがたに、固い食物ではなく、乳を与えてきました。それは、あなたがたがそれを受け入れることができなかったからです。今もなお、受け入れることはできません。あなたがたは、まだ肉的な者だからです。あなたがたの間には、妬みや争いや分裂があるのですから、あなたがたは肉的な者であり、人間のように歩んでいるのではないでしょうか。(コリントの信徒への手紙第一 3章1~3節)

これは、力強い教会ではありませんでした。そして、誰かが新しく救われ、自分が救われたことを知ったとき、その人はクリスチャンの赤ん坊なのです。それは避けられません。

救われて、一夜にしてベテランのクリスチャンになることはできません。そんなことはあり得ないのです。 救われたすべてのクリスチャンは、乳を飲まなければならない「赤ん坊の時期」を経なければなりません。しかし、よくあることですが、新しいクリスチャンが、すぐに「肉」や難しすぎる教理を与えられ、混乱してしまうのです。新しいクリスチャンには、ゆっくりと始めなければなりません。歩けるようになる前に、まず這うことを学ばなければならないのです。それが当然のことなのです。

コリントの信徒への手紙第二、第11章を開いてください。

ここではコリントの教会についてさらにいくつかの言及がなされていますが、もう少し読み進めたいと思います。

しかし、私は恐れています。蛇がその狡猾さによってエバを惑わしたように、何らかの形で、あなたがたの心がキリストにある純真さから逸れてしまうのではないかと。(コリントの信徒への手紙第二 11章3節)

さて、ここで少し立ち止まらせてください。サタンがエバに差し出したものは何だったでしょうか?

知識です。

善悪を知ることができるというものです。

それは良いことでしたが、サタンは彼女に「知恵」を差し出したのです。さて、初期の若いクリスチャンたち、つまりキリストにある幼子たちの多くに何が起こるかというと、偽預言者が現れて、「この美しい真理について説明させてください」と言うと、彼らはすっかり混乱してしまうのです。「魂の眠り」について説明させたり、あるいは様々な大きな教義的な事柄を教えられたりすると、彼らの救いの単純さは、この奇妙な体系の中ですべてがごちゃ混ぜになってしまうため、あっという間に失われてしまいます。

こうしたことは頻繁に起こりますが、今日ではさらに深刻な状況になっています。なぜなら、それは地元の教会の教えによるものではないからです。もちろん、地元の教会の教え自体も間違っている可能性はありますが。しかし、インターネット上では、アクセスするだけで教義的にひどく混乱させられてしまうのです。つまり、そこにいる偽預言者の数は、本当に信じられないほど多いのです。 本当に深刻な状況です。ですから、キリストにあるその単純さから、あっという間に道を外れてしまう可能性があります。そして、ここで何が起きているかを見てみましょう。

第4節です。

「もし、誰かが来て、私たちが宣べ伝えていない別のイエスを宣べ伝えたり、あなたがたがまだ受けていない別の霊を受け入れたり、あなたがたがまだ受け入れていない別の福音を受け入れたりしたとしても、あなたがたはそれを容認してしまうかもしれません。」(コリントの信徒への手紙二 11:4)

パウロは、これから現れる、あるいはすでに現れつつあるこれらの偽預言者たちについて語っています。文脈を読めばお分かりになるでしょう。彼らは現れて、コリントの信者たちを惑わしているのです。パウロは、あなたがたは彼らを容認してしまうだろう、と述べています。あなたがたは彼らを受け入れてしまうでしょう。

彼らの話に耳を傾け、その言葉に惑わされてしまうでしょう。そして、それは信仰の浅いクリスチャンによく起こることなのです。

そして、もう一点指摘しておきたいことがあります。

コリント人への手紙に基づいて主要な教義を掲げている教会には、十分ご注意ください。例を挙げましょう。男性に対して、布製の頭巾の着用を義務付け、長い髪を禁じているような教会です。

新約聖書全体を通して、そのことについて語られている章はたった一つだけです。それは『コリントの信徒への手紙第一』第11章です。

さて、その一節を基に主要な教義を立てるべきでしょうか? この頭巾の着用や長髪を禁じる指示は、コリントの信徒たちに対してのみ与えられたものです。それは当時のコリントの文化的背景に基づくものであり、すべての人に対する規則ではありません。他の教会についてはどうでしょうか? そこにはそのような記述はありません。なぜコリント人への手紙を基に、主要な教義を立てるのでしょうか?

しかし、肉的なクリスチャンが多い場合、それに対する反応はどうなるでしょうか。律法主義に陥り、反対の方向へ走ってしまうのです。(ちなみに、これも間違っています)

ガラテヤ人への手紙を見てみましょう。 肉的な状態と戦う方法として、多くのクリスチャンが次に取る行動があります。彼らはクリスチャンとしての「赤ん坊の段階」を抜け出しますが、その後、間違った方向へと進んでしまいます。律法主義に陥り、正反対の方向へ進んでしまうのです。そこで、ガラテヤ人への手紙3章1節があります。

「ああ、愚かなガラテヤの人々よ。あなたがたを惑わしたのは誰でしょうか。イエス・キリストが、あなたがたの間で十字架につけられたことが、はっきりと示されているというのに、どうして真理に従わないのですか。ただ一つ、あなたがたに尋ねたいことがあります。あなたがたは、律法の行いによって御霊を受けたのですか。それとも、信仰による聞き入れによって受けたのですか。あなたがたはそれほど愚かなのですか。御霊によって始まったのに、今や肉によって完成しようとしているのですか。」(ガラテヤ人への手紙 3章1~3節)

その地域のユダヤ人たちから、彼らは再び律法の下に戻り、律法やその他のすべてを守らなければならないと告げられていました。しかし、そのようなことをする必要はありません。

ガラテヤ人への手紙5章4節をご覧ください。

「あなたがたのうち、律法によって義と認められる者がいるなら、キリストはあなたがたにとって無意味なものとなってしまいます。あなたがたは恵みから落ちたのです。」(ガラテヤ人への手紙 5:4)

律法によって義と認められるなどと考えてはいけません。自分の肉を抑え、従わせようとできる限りのことはすべきですが、肉を完全なものにしようとすべての時間を費やすべきではありません。 結局、主のためにほとんど何もできなくなってしまいます。そして、多くのクリスチャンがまさにそうしています。彼らは救われ、「私は義と認められている。私の罪はイエス・キリストの血によって贖われている。私は肉的な者になりたくない」と知っています。しかし、その後、律法主義に陥ってしまうのです。

この地域でもそのような傾向が多く見られ、何かを「しなければならない」と教える人々が大勢います。しかし、それは必要のないことであり、実際には問題を引き起こす可能性があります。

そして、それは別の問題へとつながります。

もし、自分の行いによって救われようとし、律法の下にとどまり、戒めやその他すべてを守ろうとするなら、どうなるでしょうか? 自分の救いを疑うようになるでしょう。永遠の救いの確信を信じられなくなるでしょう。そして、聖潔主義者やその他多くの人々は、永遠の救いの確信を信じていません。

永遠の救いの確信は異端ではありません。実際、それはクリスチャンとして到達すべき次の段階なのです。エペソ人への手紙第1章を開いてください。

クリスチャンとして成長し、律法の行いによって義と認められることはできないと悟るにつれ、自分の救いがどこから来るのかを理解する段階に到達するのです。

あなたがたもまた、真理のことば、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞いた後、その方を信頼しました。また、その方を信じた後、約束の聖霊によって封印されました。この聖霊は、買い取られた所有物が贖われる時まで、私たちの相続財産の保証であり、神の栄光を称えるためのものです。(エペソ人への手紙 1:13-14)

ここでもまた、13節に二つの非常に重要な表現があります。「あなたがたは、約束の聖霊によって封印された」という部分です。これは非常に重要です。14節には、「買い取られた所有物が贖われる時まで」とあります。

あなたは代価を払って買い取られたのです。あなたの人生はあなた自身のものではありません。あなたは実際に買い取られたのです。救われたとき、あなたが救いを失うことがないのは、神が実際に御自身の血によってあなたを買い取られたからです。

まさにそこに書かれています。義があなたに帰せられ、イエス・キリストの完全な性質を受け入れたならば、それを二度と失うことはありません。

救いを失うことはできません。そして、そこがあなたが到達すべき地点なのです。もし、あなたが戒めを守らなければならないと確信しているなら。重要なのは、自分の救いが自分の義や善行に依存しているのではないと悟る段階に到達しなければならないということです。私は、その約束の聖霊によって封印されているのです。

ですから、その次の段階が「永遠の保証」です。

さて、もしあなたがそれを信じ、自分が封印されていると信じ始めたなら、神は私が神の贖われた所有物であると約束してくださっています。私は救いを失うことはありません。それでは、次に何につながるのでしょうか。それは、フィリピの信徒への手紙で言及されている「大胆さ」へとつながります。

フィリピの信徒への手紙1章14節です。

ご自身の救いが確かなものであると確信し、それを失うことはないと知り、また、行いは単に天の報いを得るためのものであり、救いを維持するためのものではないと理解したとき、それは多くの場合、大胆さへとつながります。フィリピの信徒への手紙1章14節をご覧ください。

また、主にある多くの兄弟たちは、私の投獄によって勇気づけられ、恐れずに御言葉を宣べ伝えることに、ますます大胆になっています。(フィリピの信徒への手紙 1:14)

投獄や迫害など、あらゆる試練を乗り越えたパウロの模範が、フィリピの信徒たちをさらに大胆にさせたのです。

フィリピの信徒への手紙3章10節。

すなわち、キリストを知り、その復活の力を知り、その苦難の交わりを知り、その死に倣う者となるためです。(フィリピの信徒への手紙 3:10)

フィリピの信徒への手紙 4:13。この箇所は、ぜひ暗記しておくべきです。

私を強くしてくださるキリストによって、私はすべてのことを成し遂げることができます。(フィリピの信徒への手紙 4:13)

あなたには大胆さがあるでしょうか?

はい。そして言っておきますが、「ああ、それは簡単だ」と言うかもしれません。いいえ、そうではありません。パウロは大胆さを得るために祈らなければなりませんでした。「私が大胆に口を開くことができるよう、その言葉が私に与えられますように」と。ご存知のように、それは必ずしも容易なことではありません。

しかし、その点を頭の中でしっかりと整理しておく必要があります。なぜ誰かに証しをするのでしょうか? 自分が救われたままでいるためにそうしているのでしょうか? もしそうなら、その動機は恐れからくるものになってしまいます。キリストが私のために死んでくださったという動機から、キリストのためにこれを行いたいという気持ちで、証しをするべきなのです。

愛と慈しみから、私は伝道しているのです。それが大胆さへとつながるはずです。ちなみに、キリストによってなら、あなたはすべてのことを成し遂げることができます。

あらゆることをです。あなたがなすべきことは、何でも行うべきです。さて、クリスチャンとして次に何が必要でしょうか?大胆さを身につけたら、次に何があるのでしょうか?

そうですね、理解です。

コロサイ人への手紙第1章を開いてください。

コロサイ人への手紙1章9~10節です。

それゆえ、私たちも、それを聞いたその日から、あなたがたのために祈りを絶やさず、あなたがたが、すべての知恵と霊的な理解をもって、神の御心を知る知識に満たされることを切に願っております。そうして、あなたがたが、あらゆる点で主にふさわしく歩み、すべてにおいて主を喜ばせ、あらゆる良い行いに実を結び、神を知る知識を増し加えることができるように。(コロサイ人への手紙 1:9-10)

皆さんは、神を知る知識を深めていますか?

ある時、ある教会の古参の信徒の方にお会いした際、「この7年間で何か新しいことを学びましたか?」と尋ねました。すると、その方は「特に何も学んでいないと思います」とおっしゃいました。

そこで私は思いました。「7年間も、主について成長もせず、新しいことも何も学んでいないのですか?」と。

それは良くないことです。私としては、主から定期的に新しいことを学ばなければ、それはある意味で良くないことだと考えています。つまり、主についての知識を深めていくべきなのです。それは、「ああ、以前信じていた古いことは、もう信じなくてもいい」というわけではありません。

いいえ、そうではありません。ただ、主がこの世で行っておられる新しいことを見出し、それを聖書と結びつけるべきだということです。そして、聖書を読み進めていく中で、主があなたに物事を明らかにしてくださるはずです。ですから、理解を持つことが大切なのです。

それに、これはちょっと興味深いことでもあります。救いの確信を得て、人々に証しをする大胆さが芽生えてくると、その理解の一部は、実は主のために戦いの場に立つことから得られるものなのです。実際に外に出て人々と話し、実際に外に出て証しをし、実際に外に出て人々と関わる経験をすること。それが理解の一部なのです。ただどこかに座って聖書を学ぶだけでは不十分です。

それも重要ですが、実践も必要です。人々と向き合い、対峙することも必要です。ご存知のように、頭での知識だけで実際の経験がなければ、あまり先には進めません。ですから、これは重要なことです。ちなみに、これを本当に教えてくれる人は誰もいません。自ら外に出て、実際に体験しなければなりません。ある程度の戦いの経験が必要なのです。

さて、理解が深まり始めたとき、何が起こるでしょうか?

テサロニケの信徒への手紙第一 1章6節を開いてください。

主の中で成長し、何が起きているのかを理解し始めると、あることが起こります。あなたは救われてからしばらく経ち、聖書を読み続けてきました。祈りも続けてきました。証しをしてきて、少しずつ大胆さを得て、理解も深まってきたのです。

次に何が起こるでしょうか?

「あなたがたは、多くの苦難の中にあっても、聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちや主の模範に従う者となりました。」(テサロニケの信徒への手紙第一 1章6節)

これは興味深いことではありませんか?

多くの苦難の中にあっても、聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れたのです。

つまり、迫害を受けても、その結果として喜びを持つことができるということですか?

ええ、可能です。聖書を信じるクリスチャンとして、誰かに証しをしているときに、相手があなたを攻撃し、「狂信者だ」「聖書を振りかざす人だ」「偏狭だ」「視野が狭い」などと言ってきたとしても、それを気にする必要はありません。むしろ、自分が正しいことをしていることを知っているからこそ、聖霊による喜びを感じるべきなのです。イエス・キリストでさえ迫害されたのですから、あなただけがその苦難を免れることができるでしょうか?

しかし、そういうことが時々起こるのです。

そして、それは悪いことではありません。

テサロニケの信徒への手紙第二 1章を開いてください。

兄弟たちよ、私たちは、あなたがたのために、常に神に感謝せざるを得ません。それは当然のことだからです。あなたがたの信仰が著しく成長し、あなたがた一人ひとりの互いに対する愛がますます豊かになっているからです。 それゆえ、あなたがたが耐え忍んでいるあらゆる迫害や苦難における忍耐と信仰ゆえに、私たち自身も神の諸教会において、あなたがたを誇りに思っております。これは、あなたがたが神の御国にふさわしい者と認められるための、神の義なる裁きの明らかなしるしであり、あなたがたもまた、その御国のために苦難に耐えているのです。(テサロニケの信徒への手紙二 1:3-5)

さて、これは、自分を鞭打ったり、殴ったり、あるいは何らかの苦難の体系に無理やり自分を押し込めたりするような、カトリック的な苦難の話ではありません。

いいえ、それは単に、あなたが主と共に正しく生きるということです。あなたが福音を宣べ伝え、大胆に証しをしているのです。苦しみは必ず訪れます。

それは必然的に起こるものです。そして、主のために証しをするとき、そのようなことが起こるかもしれません。

しかし、同時に、聖書や主イエス・キリストに関する知識や、大胆さも深まっていくのです。

さて、次のステップは何でしょうか?イエス・キリストのためにしばらく戦場を歩んだ後、次に何が待っているのでしょうか?

さて、テモテへの手紙第一と第二は、どのような内容でしょうか?

それは「奉仕」についてです。テモテへの手紙第一 1章18節。

「わが子テモテよ、あなたに与えられた以前の預言に従って、この使命をあなたに託します。それによって、あなたが良い戦いを戦えるようにするためです。」(テモテへの手紙第一 1章18節)

これはなかなか興味深いことです。ここ『第一テモテ』でも『第二テモテ』でも、パウロは奉仕を兵士であることに例えています。

そこには、その比喩がどのように適用されているかが見て取れます。そこには非常に深遠な教えがたくさんあります。しかし、肝心なのは、自分自身がある程度戦場に身を置いてみなければ、部隊を率いる準備は整わないということです。つまり、ある程度の経験を積まなければならないのです。

霊的な意味で、攻撃を受ける経験が必要です。つまり、自分自身を守る方法を知らなければなりません。物事がどのように機能するかを理解している必要があります。そうした経験が不可欠なのです。もし奉仕の働きに早すぎる段階で飛び込んでしまうと、聖書は『テモテへの手紙第一』3章6節で、「初心者はならない」と述べています。

私がここで話してきたような段階をいくつか飛ばしてしまうと、大胆さも理解も持てず、永遠の救いの確信も持てません。その状態では、牧会に携わる準備ができていないのです。わかりますか?そうした経験を積まなければならないのです。

興味深いことに、テモテへの手紙第一3章では、教会の指導者について触れられており、彼らは基本的に「試練を経て証明されなければならない」と記されています。

奉仕の現場で指導者となる準備が本当に整うには、いくつかの試練を経なければなりません。

次に、テモテへの手紙第二2章を開いてください。

このテーマ全体を1回の学びに収めようとしています。つまり、ここで語れることはまだまだたくさんあるのですが、今回はこのテーマをざっと概観する程度にとどめます。時間を節約するため、いくつかの聖句に焦点を当てていきます。

テモテへの手紙第二 2章1節から5節です。さっと読みましょう。ここにはこう書かれています。

「それゆえ、わが子よ。」

ところで、パウロはティモテオを「わが子」と呼び続けています。彼はパウロの霊的な息子なのです。あなたが奉仕の現場に立つようになれば、あなたの働きによって救われた若い人たちが現れ、あなたは彼らを教え、霊的な意味で育てていくことになるでしょう。

それゆえ、わが子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くありなさい。また、多くの証人の前で、あなたが私から聞いたことを、忠実な人々に委ねなさい。その人たちは、他の人々にも教えることができるようになるでしょう。

ここには、若い人を主のもとへと導き、聖書の知恵や理解を伝え、戦いの場へと連れ出し、物事がどのように機能するかを示す神の人が描かれています。そして、その若い人は、自分の奉仕の中で出会う人々に同じことを行うことになっています。それが、福音が広まっていく仕組みなのです。

本来あるべき姿は、まさにそれなのです。

第3節。

ですから、あなたはイエス・キリストの立派な兵士として、苦難に耐え忍びなさい。戦っている者は、この世の事に巻き込まれてはいけません。それは、自分を兵士として選んだ方に喜ばれるためです。また、競技で優勝を目指す者であっても、規則に従って戦わなければ、冠を受けることはできません。(テモテへの手紙第二 2:1-5)

ご存知の通り、多くの運動において本当に問題となっているもう一つの点があります。彼らは「規則に従って」戦っていないのです。まあ、会員数は多く、多くの成果を上げているし、様々な活動を行っており、素晴らしいこともたくさんしていますが、それは「規則に従って」戦っていることにはなりません。彼らは、聖書が決して命じていないことを行っているのです。

そして、こうした運動の多くは、実際に足を運んでみても、救いの福音が全く語られていないのです。

十字架のつまずきは消え失せてしまいました。こうしたグループの多くは、まさにその状態にあるのです。彼らは律法に従って努力していないのです。

ですから、宣教の現場に足を踏み入れると、手抜きができる場面はたくさんあります。嘘をつきながらでも、宣教活動を拡大し、大金を稼ぐ方法は数多くありますが、律法に従って努力しなければ、冠を授かることはありません。

だからこそ、繰り返しになりますが、奉仕の現場に足を踏み入れる前に、ある程度の経験を積んでおく必要があるのです。

では、次にテトス書に進みましょう。

奉仕の道に入った後、次に何があるでしょうか? テトス書第2章です。

テトス書第2章1~3節です。

テトス書には何が書かれているでしょうか。そこには、霊的な成熟について記されています。ここにはこうあります。

「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年配の男性は、慎み深く、威厳があり、節制を保ち、信仰と愛と忍耐において健全であるべきです。年配の女性も同様に、聖さにふさわしい振る舞いをし、中傷をせず、酒に溺れず、良いことを教える者であるべきです。」(テトス2:1-3)

このように、ここには霊的な成熟が示されています。

それでは、テトスへの手紙3章14節をご覧ください。ここにも、非常に重要な点がもう一つあります。

また、私たちの者たちも、必要な用途のために善行を続けることを学び、実を結ばない者とならないようにすべきです。(テトス3:14)

奉仕の現場に身を置くと、やるべきことは常に山ほどあり、時間が足りないという状況になりがちです。そして、奉仕の現場に長くいるほど、自分が何に時間を費やすべきかを見極める必要があります。「何が最も多くの霊的な実を結ぶのか?」と。私は「最も多くの金」とは言いませんでした。「最も多くの霊的な実」と言ったのです。

何が最も霊的な実を結ぶのでしょうか? 何に集中すべきなのでしょうか? ご存知の通り、これは重要なことです。そして、それが霊的な成熟の証なのです。間違った戦いに時間を浪費してはいけません。

何か一つを選んで、それに取り組んでください。ちなみに、これは誰にでも当てはまることです。牧師だけに限った話ではありません。

さて、ここでもう一冊、見ていきましょう。

フィレモン書です。

さて、フィレモンとは何でしょうか? そうですね、私は、そこでは自己犠牲がテーマになっているのだと思います。ここで、いくつかの節を見てみましょう。

フィレモン書9節から11節までです。

しかし、愛のゆえに、私はむしろあなたに懇願いたします。私は、年老いたパウロであり、今やイエス・キリストの囚人でもあります。私の息子オネシモスのために、あなたに懇願いたします。彼は、私がこの束縛の中で生み出した者です。かつてはあなたにとって役に立たない者でしたが、今はあなたにとっても、私にとっても有益な者となっています。(フィレモン1:9-11)

パウロは、年老いた者として、オネシモという名のこの若い男性のことをより深く気にかけていました。

さて、18節をご覧ください。ここには、「帰属」という概念の素晴らしい定義が示されています。

もし彼があなたに過ちを犯したり、何か借りがあったりしたとしても、それを私の勘定に計上してください。(フィレモン 1:18)

さて、御奉仕の現場で年を重ねると、若い人が頭角を現し、順調に成長していくのを見ても、気にするようなことはなくなるでしょう。霊的に成熟すれば、むしろ若い人々を助けようと努め、自らを低くし、御奉仕における若い人を助けるために犠牲を払うようになるのです。

ですから、自己犠牲こそが、ここでの究極の目的であると思います。そして、これはそれほど詳細な研究ではありません。もっと詳しく掘り下げることもできることは承知しています。ただ、教会時代の話題の一環として、この点に触れておきたかったのです。

さて、結論として、テモテへの手紙第二第4章を見ていきましょう。

テモテへの手紙第二 4章6節と7節です。

「私は今、捧げ物となる準備ができており、私の旅立つ時は近づいています。私は良い戦いを戦い抜き、走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテへの手紙第二 4章6-7節)

さて、今日お話しした内容ですが、クリスチャンとして成長していく上で、皆さんが通るべき10の異なるポイントがあります。

第一に、義認です。救われることです。
さて、ここではクリスチャンとしての生活についてお話ししています。義認、肉的な生き方、律法主義、永遠の救いの確信、大胆さ、理解、迫害、奉仕、霊的な成熟、そして犠牲、自己犠牲です。

これが絶対的な決まり事だと言っているわけではありませんが、あくまで基本的な大まかな流れとしてお伝えしているのです。さて、この「コース」として、またクリスチャンとして、皆さんはどの段階にいますか?

2番目の「肉的な状態」で立ち往生していませんか?

教義の大部分が、コリントの信徒への手紙第一のどこかに留まってはいませんか?律法主義についてはいかがでしょうか?「私は肉的な者ではありません。そんなことには手を出しません」とおっしゃるかもしれません。では、律法主義についてはどうでしょうか?

そこに立ち止まっていてはいけません。永遠の救いの確信についてはいかがでしょうか? その点については、しっかりと理解されていますか?

イエス・キリストの成し遂げられた御業に安らぎを見出していますか?

大胆さ。それについてはいかがでしょうか?

証しをする際、どれほど大胆になれていますか?クリスチャンとして、どれほど大胆になれていますか?

理解。神の御言葉だけでなく、あなたを助けてくれるような本を読むことに、どれだけの時間を費やしていますか?ご存知のように、世の中には多くのことを学び、研究を重ねてきた、神に導かれた年配の方々がいます。聖書について学ぶための、非常に優れた本が世の中にはたくさんあります。そしてもちろん、理解とは、外に出て聖書を自分の生活に適用し、証しにおいて大胆になることでもあります。そのようにして、理解も深まっていくのです。

迫害。皆と仲良くやれていますか? もちろん、これは住んでいる国によって大きく異なることは承知しています。

奉仕活動についてはいかがでしょうか?

今、何らかの奉仕活動に携われる段階には至っていますか? 必ずしも専任の奉仕活動を意味するわけではありません。そのように召されている人もいれば、そうでない人もいます。しかし、トラクトを配ったり、インターネットを活用したり、人々と話したりするなど、何らかの奉仕活動があるべきです。何らかの奉仕活動があるべきなのです。

霊的な成熟についてはいかがでしょうか? 霊的に成熟しつつありますか。

そして、自己犠牲や慈善活動についても、先ほど触れたのは良い例でした。

では、クリスチャンとしての成長において、あなたは今どの段階にいますか? 特定の分野で行き詰まっていることはありませんか?

さあ、前進しましょう。

さて、今朝のメッセージは以上となります。お聞きいただきありがとうございました。ご質問がございましたら、もちろんいつでもお気軽にお問い合わせください。できるだけ早くご返信いたします。それでは、以上です。ありがとうございました。

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