ヨハネ 第1章
/ 2026年8月9日
これは第四の福音書であり、時には他の三つの福音書とは区別されることもあります。
他の三つは「共観福音書」と呼ばれています。これらは互いに一致していると考えられているのに対し、ヨハネの福音書は、主にキリストの神性についてあまりに多く語っているという理由で、常に別個の、異質な存在として扱われてきました。
ここではそれらを区別せず、4つを1つの書物として扱います。
この書は21章、879節から成っています。
西暦85年から90年の間に書かれたとされています。
一部の学者は、西暦85年から90年の間のどの時期かについて意見が分かれています。
この書物が書かれた目的は、ヨハネによる福音書20章31節に記されています。
ヨハネによる福音書20章31節こそが、この書物が書かれた理由です。
そして、おそらくそれが、この書物を正統な福音書として認めようとしない理由でしょう。というのも、この書物は明らかに、人々を救うために書かれたものだからです。
そして、もし人々を救いたいのであれば、聖書の一部分だけを広めるとしても、広めるのに最適な部分はヨハネの福音書です。
これが『ヨハネによる福音書』であり、時には「聖ヨハネ」とも呼ばれますが、それは全く問題ありません。カトリック的なものだと言う人もいますが、聖パウロ、聖ヨハネ、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカといった呼び方があるのです。
それは全く問題ありません。聖人であるということは、救われているということです。
もしあなたが聖書に執筆したとしても、やはり聖人となるでしょう。
ヨハネによる福音書第1章です。
初めに、言葉がありました。
さて、ここで4、5時間ほど過ごしてみましょう。
この一節は、ヨハネの手紙第一1章1節と創世記1章1節につながっています。
『ヨハネの手紙一』1章1節と『創世記』1章1節です。
初めに、言葉がありました。
創世記1章1節には、こう書かれています。
初めに、神が。
そして、ヨハネの手紙第一1章1節で、ヨハネは「みことば」について語っています。
そして彼はこう言いました。
「初めからあったもの、すなわち、私たちの耳が聞き、私たちの目がこの目で見、私たちの顔で仰ぎ見て、私たちの手が触れた、いのちの言葉。いのちが現れたからです。私たちはそれを見て、証しし、その永遠のいのちをあなたがたに伝えます。」
それでは、ヨハネの手紙第一5章20節を開いてください。
ヨハネがイエス・キリストを「みことば」として語っているとき、彼が語っているのは真の神であることにご注目ください。
ヨハネの手紙第一5章20節です。
私たちは、神の御子が来られ、私たちがその真実なる方を知ることができるように理解を与えてくださったことを知っています。そして、私たちは、その御子イエス・キリストにおいて、その真実なる方の中にいるのです。これこそが、まことの神であり、永遠のいのちです。
イエス・キリストこそが真の神であり、イエス・キリストこそが永遠の命です。
ヨハネによる福音書第1章1節に戻りましょう。
初めに、御言葉がありました。
さて、厳密に言えば、大文字の「神の言葉」とはイエス・キリストのことであり、小文字の「神の言葉」とは、書かれた聖書のことです。
それでは、詩篇138篇を開いてください。
聖書には、イエスの御名の前では、すべてのひざが屈し、すべての頭が伏し、すべての舌がイエスを主であると告白すると書かれています。それが、すべての名にまさる名、すなわちイエスの御名です。
しかし、イエスの御名よりもさらに高い御名が一つあります。
詩篇138篇2節です。
「わたしはあなたの聖なる宮に向かって礼拝し、あなたの慈しみと真実のために、あなたの御名を賛美します。あなたは御言葉を、あなたの御名よりも高く掲げられたからです。」
ネヘミヤ記には、神の御名がすべての祝福と賛美にまさると書かれています。
また、詩篇138篇では、「御言葉」が「御名」よりも尊いとされています。
ですから、ここには神のすべての祝福があります。
そこには神のすべての賛美があり、その祝福と賛美の上に神の御名があります。
そして、その「書」は、これらすべてに優っています。
私が「その書」と言うとき、それはその書に記された神の御言葉を指します。
そして、その書物はイエス・キリストの御名よりも上にあります。
信者たちは、主イエス・キリストというお方を中心に団結すべきだと言う人々もいます。
しかし、信者たちが主イエス・キリストというお方を中心に団結することなど決してあり得ません。なぜなら、主がどのようなお方であるか、主が何者であるか、そして主の人格がどのようなものであるかについて、人それぞれに異なる考えを持っているからです。
すべての信者たちを適切な基盤の上で一つにまとめる唯一の方法は、まさにこの基盤に基づいて行うことです。なぜなら、この書物は主イエス・キリストの御名よりも上位にあるからです。
神が、皆さんの経験や感情、そして御子の御名よりも上に置かれたもの、すなわち神の御言葉こそが、皆さんが一致すべき基盤なのです。
ヨハネによる福音書第17章を開いてください。
ヨハネによる福音書17章17節です。
「あなたの真理によって、彼らを聖別してください」。あなたの御言葉こそが真理です。
そして、私が言っているのは、ある種の「真理」のことではありません。
私が言っているのは、絶対的な真理のことです。
その書物は、真の書物であり、生きた書物です。
そして、キリストはこう言われました。
「わたしがあなたがたに語る言葉は、霊であり、命です。」
聖霊については、いかがでしょうか?
そして、聖書に多くの時間を費やすようになると、物事の見方が変わり始めます。
ヨハネによる福音書第1章1節。
初めに、言葉がありました
これはキリストを指しています。
そして、その言葉は神と共にあり、その言葉は神そのものでした。
これは、キリストの神性について述べられた聖句です。
そして、永遠の昔、キリストは「言葉」と呼ばれていました。それは、キリストこそが、神がご自身を表現されるための手段であったからです。
キリストが「言葉」と呼ばれる理由は、神がご自身を表現される手段が言葉であるからです。
イエス・キリストは、神の現れそのものです。
キリストは神の現れそのものです。
キリストは神の像です。
彼は、肉となって現れた神そのものです。
さて、何かを人に明らかにし、理解してもらう唯一の方法は、その人に話しかけることです。
言葉を使わなければなりません。
この世で最も理にかなっているのは、もし天上に神がおられるなら、その神は本を書かれるだろうと推測することです。
それが、考えられる中で最も理にかなったことなのです。
なぜそれが理にかなっているか、お分かりでしょうか?
それは、この地球上で言葉でコミュニケーションをとることができるのは人間だけだからです。
さて、もし上の方に神様がいらっしゃって、この地上の私たちにメッセージを伝えたいとお考えなら、その神様は本を書かれるでしょう。
音楽を奏でたり、空に花火を打ち上げたりはしないでしょう。人間は言葉を使う存在ですから、神は本を書くはずです。
一方、動物たちは言葉を理解できません。
例えば、犬を前にして、私は穏やかにこう言います。「おいで、ドアの方へ。いい子だね。いい子だよ。君はこの町で一番いい子なんだよ。」
すると、その犬はしゃがみ込み、尻尾を足の間に挟んでしまいます。
しかし、同じ口調で「やあ、役立たずめ。裏庭から連れ出して、撃ち殺してやるぞ」と言えば、
すると、裏庭で、まるで何事もなかったかのようにしっぽを振っているその姿が見られるでしょう。
確かに、犬は時に非常に賢い動物だということは認めます。
時には、言葉を覚えることができるのではないかと思うこともあります。
オウムやカナリア、あるいはインコに何かを言わせることはできます。
しかし、推論の仕方を教えることはできません。
ある人の話を読んだことがあります。その人は強盗に遭い、何人もの犯人に縛り上げられたのですが、飼っていたオウムがくちばしでケージを開け、電話のところへ行き、受話器を取り外して警察に電話をかけたそうです。電話に出ると、オウムは「クラッカーが欲しい。クラッカーが欲しい」と言ったそうです。
動物に推論の仕方を教えることはできません。
その動物をどれほど訓練しようとも、関係ありません。
言葉で考えたり推論したりするようには教えられません。
あなたがこれまでに出会った中で最も高度に訓練されたオランウータンを連れてきて、座らせて、「さて、チャイコフスキーの交響曲第6番とブラームスの交響曲第4番を比較して、どう思うか教えていただけますか」と尋ねてみてください。
できますよ。できますよ。
ですから、もし天上に神が存在し、その神があなたを創り、あなたとコミュニケーションをとる際には、言葉を使うだろうと考えるのが、この世で最も自然なことです。
ですから、その御子は「言葉」と呼ばれています。
彼がどれほどの言葉であるか、ご存じでしょうか。
『ヨハネの黙示録』の中で、彼はこう言っています。「私はアルファであり、オメガである」。
皆さん、ギリシャ語を勉強してみてください。アルファとオメガが何なのか、お分かりになりますか?
それはアルファベット全体のことなのです。
ですから、神がこれまでに語られたすべての言葉は、イエス・キリストの中にあります。
ヨハネによる福音書第1章1節。
「初めに言葉があり、その言葉は神と共にあり、その言葉は神であった」。
しかし、大文字の「言葉」と小文字の「言葉」がどれほど近い関係にあるかというのは、不思議なことです。
それでは、ここにいくつかの類似点を書き出してみましょう。
これらは、書かれた聖書とイエス・キリストとの間の類似点です。
これらは、書かれた「言葉」と「言葉」との共通点です。
まず第一に、両者とも二つの性質を持っています。
イエス・キリストには、人間としての性質、すなわち「人の子」としての性質がありました。
また、神の御子としての神性もお持ちでした。
聖書には人間的な性質があります。
神の聖なる御使いは、聖霊に導かれて語られました。
聖書には神性があります。
すべての聖書は、神の霊感によって与えられています。
その両者は、愛されることもあれば、憎まれることもあります。
人々はイエス・キリストを愛し、聖書を愛します。
人々はイエス・キリストを憎み、聖書を憎みます。
どちらも愛され、また憎まれています。
どちらも受け入れられることもあれば、拒絶されることもあります。
キリストはこう言われました。
もし人がわたしとわたしの言葉を拒むなら、その言葉が彼を裁くでしょう。
聖書にはこうあります。
「植え付けられた御言葉を柔和な心で受け入れなさい。それらはあなたの魂を救うことができるのです。
その両者は永遠に生き続けます。
天と地は過ぎ去っても、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはありません。
主よ、あなたの御言葉は、天において永遠に確かなものです。
その両者は永遠に生き続けます。天と地は過ぎ去りますが、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはありません。主よ、あなたの御言葉は、天において永遠に確固たるものです
キリストは永遠に生きておられます。
聖書は永遠に生き続けます。
そして最後に、その両者があなたを裁くことになります。
キリストが裁き主となり、神の御言葉もまた裁き主となるのです。
キリストはこう言われました。
「わたしが語った言葉こそが、終わりの日にその人を裁くのです。」
ですから、「小文字の『言葉』」と「大文字の『言葉』」は非常によく似ています。
実際、それらは非常に似ているため、パウロは何度かその区別を無視しています。
ローマ人への手紙第9章を開いてください。
さて、クリスチャンたちは、聖書を崇拝していると非難されることでしょう。
そして、あなた方は、教育を崇拝する人々から非難されることになるでしょう。
ローマ人への手紙第9章1節から17節です。
パウロは「聖書」という言葉を取り上げ、「神」という言葉の代わりにそれを使い、そのことについて何の弁明もしません。
ローマ人への手紙第9章1節から17節。
聖書にはこう記されています。「ファラオよ、まさにその目的のために、わたしはあなたを立てたのだ」。
聖書がファラオを立てたのでしょうか?その文脈では、そうではありません。
出エジプト記に戻ってその箇所を確認してみてください。そこでは主が語っておられるのですか?
聖書は、「ファラオよ、わたしがあなたを立てたのは、まさにその目的のためである」と述べています。
ファラオの時代には、聖書など存在しませんでした。
出エジプト記を書いたのはモーセです。
主がファラオにそう言われたというその箇所は、モーセが書いたものです。
ファラオに語りかけるような聖書など、当時は存在しませんでした。
神がファラオに語りかけておられたのです。
そして、パウロは聖書の言葉を引用し、神の代わりにそれを使っています。
ガラテヤ人への手紙を開いてください。もう一度お見せします。
ガラテヤ人への手紙第3章8節です。
あなたは「予定説」と「予知」についてお話しされていますね。パウロは、予知に関して、聖書に神と同じ能力を与えているのです。
ガラテヤ人への手紙3章8節。
そして、聖書は、神が信仰によって異邦人を義と認めてくださることを予見し、福音に先立ってアブラハムに宣べ伝え、「これらによって、すべての国々が祝福を受ける」と語りました。聖書はアブラハムに宣べ伝えたのです。
聖書はどこでアブラハムに福音を宣べ伝えたのでしょうか。
創世記12章で、主がアブラハムにそう告げられたとき、紙に書かれたものは何もなく、聖書のどの部分にも、ヨブ記でさえも、何もありませんでした。
創世記12章で神がアブラハムに語られたとき、この地球上のどこにも聖書は存在していませんでした。
ヨブ記はまだ書かれていませんでした。ヨブ記は聖書の中で最も古い書物の一つです。
そして、その出来事を記している『創世記』もまだ書かれていませんでした。なぜなら、『創世記』はモーセが書いたものだからです。
ですから、パウロが「聖書がアブラハムに宣べ伝えた」と言うとき、彼は単に「聖書」という言葉を使って神を指していたのです。
アブラハムに語りかけたのは神であり、聖書ではありません。
この本は燃やすことができますが、神を燃やすことはできません。
この本には書き込むことができますが、神には書き込むことはできません。
つまり、この本が神そのものであるとは思いません。
この本は破り捨てることができます。しかし、神を破り捨てることはできません。
この本をなくすことはできますが、主を失うことはできません。
お分かりになりますか?
神様は天におられ、御霊であるのに対し、この本は物質的なものであり、私がこの人生の中で手に入れたものであることは分かっています。
ほら、これらはしばしば同じ意味で使われますが、私はパウロの言葉を文字通り徹底的に解釈して、「聖書こそが神である」などとは言いません。
しかし、確かにその違いはごくわずかですよね?
実のところ、その関係は極めて密接であるため、もし誰かがこの本をいじり続けるようなことがあれば、それはその人が主に対して何か恨みを持っているからではないかと疑ってしまうほどです。
ですから、私はこの本には決して手を加えません。
この本をそのままにしておきます。
さて、ヨハネによる福音書第1章2節です。その節を読み終えました。
ヨハネによる福音書第1章2節。
「初めに、御言葉は神と共にありました。すべてのものは、御言葉によって造られました。
つまり、「みことば」とは一人の人物なのです。ここでは、その方が擬人化されています。
すべてのものは、この方によって造られました。また、この方なしには、造られたものの中で、一つとして造られたものはありませんでした。
コロサイ人への手紙1章16節を書き留めてください。
これは、神が創世記第1章で行われたことを、主イエス・キリストを通して行われたことを示しています。
三位一体は、創造において働かれています。
父なる神が創造なさり、イエス・キリストを通して創造なさいます。
そして、神が用いられるのは、聖霊です。
創世記1章3節。
神の御霊が水の面を覆い、神は「光あれ」と言われました。
すべてのものは、彼によって造られました。彼なしには、造られたものの一つも造られることはありませんでした。彼には命があり、その命は人々の光でした。
ある人が言ったように、真の命はキリストから来るものであり、人間が持つすべての命はキリストから来るものです。
あなたの肉体的な命さえも、キリストから来ているのです。
イエス・キリストは、肉体のいのちの源であり、霊的ないのちの源でもあります。
そして、その命は人々の光でした。
霊的な命と霊的な光。
イエス・キリストは、世の光です。
主は知の世界の光です。
彼は芸術の世界の光です。
彼は宗教の世界の光です。
そして、その命は人々の光でした。そして、その光(キリスト)は闇(現在形)の中に輝いていますが、闇(過去形)はそれを理解しませんでした。
ですから、この世に生まれてくるすべての人は、ある程度の光を持っています。
9節をご覧ください。
それはまことの光であり、この世に生まれるすべての人を照らす光でした。
そして、その光はこの地上に現れました。
その意味で、彼がこの地上に降りてきて現れたという点において、光は闇の中に輝いているのです。
しかし、その光は今この瞬間も(現在形)、闇の中で輝き続けています。
イエスはある人にこう言われました。
悪を行う者は皆、光を憎み、光のもとに来ようとはしません。それは、自分の行いが責められるのを恐れるからです。しかし、真理を行う者は光のもとに来ます。それは、その行いが神の御業であることを明らかにするためです。
現在形です。ヨハネによる福音書3章20節。
悪を行う者は皆、光を憎み(現在形)、また光のもとへは来ません(現在形)。それは、自分の行いが非難されるのを恐れるからです。しかし、真理を行う者は、光のもとへ来ます(現在形)。それは、自分の行いが明らかにされ、それが神の御業であることを示すためです。
イエス・キリストがこの地上におられたとき、彼は世の光でした。
その人は正しいことをしました。彼はイエスのもとへやって来ました。
イエス・キリストがこの世におられたとき、彼は暗闇の中で輝く光でした。
私は世の光です。私が光であるように、あなたがたも光の中を歩みなさい。
その後、イエスは亡くなり、葬られ、死からよみがえり、天に帰られました。
今、この世であなたがたが受けるすべての霊的な光は、彼を通して得られるものです。
そして、その方が光そのものです。
そして、正しい行いをしたいのであれば、その方の元へ来なければなりません。
人々が彼のもとに来ないのは、正しい行いをしたいと思っていないからです。
あなたが話す相手にイエス・キリストを拒絶されたとしても、あなたは安全です。
彼らがイエス・キリストを拒む理由は、彼らの行いが邪悪であるため、光よりも闇を愛しているからです。
そうすれば、たくさんの友人ができるでしょう。
もしその人が善良な人であれば、キリストのもとに来るでしょう。
もしそうしないなら、あなたにはまだ知らない何かが、その人の人生にあるのです。
おそらく、お母さんもご存じないでしょうし、牧師さんもご存じないかもしれませんが、そこには何かがあるのです。
そうでなければ、その人はそうするはずです。
寛大さや無私無欲、勇敢さ、誠実さ、品位、そして勇気を愛していると公言する人々がいます。
さて、もしあなたがそれらのことを愛しているのなら、どうしてイエス・キリストを拒むことができるでしょうか?
さて、6節です。
神から遣わされた人が一人いました。その名はヨハネでした。
神が何かをなさろうとされる時、神は常に一人の人を遣わされます。
これは歴史を通じて見られるパターンです。
その流れはこうです。ある人物が現れます。ある運動があり、ある組織があり、ある記念碑があります。
どの学校でも、どの教会でも、どの国でも、その仕組みが機能しているのをご覧いただけます。
まず一人の人物が現れ、その後に運動が生まれ、次に組織が形成され、最後に記念碑が建てられます。
そして、その人物が記念碑を手に入れたとき、それはすでに死んでいるのです。
記念碑は墓の上に建っています。
そこに記念碑があり、運動は消え去っています。
一人の人物がいます。その人物に続いて運動が生まれ、それが組織化された仕組みとなり、やがて記念碑となります。そして、それで終わりなのです。
その男は問題ありません。その運動も問題ありません。
しかし、決してそれを機械にしてはなりません。
もしそれが機械になってしまったら、それは記念碑になってしまうのです。
その人物は問題ありません。そこには伝道活動があります。
そして、その運動も問題ありません。そこには教育があります。
ですから、私たちは決して、機械のように機能するような状態にはなりたくありません。
決してそのような状態にはなりたくありません。
それが私たちの進み方です。
私たちは機械にはなりません。
私たちは、もし神様があなたに説教をするよう召されたとき、ここで説教の仕方を学べるような場所を作りたいのです。
ヨハネによる福音書第1章9節です。
私はこれまで、この真の光の証人として来た洗礼者ヨハネについてお話ししてきました。
そして、8節で、ヨハネはその光そのものではなく、その光について証しをするために遣わされたとあります。
「ジョン」という名前は、英語で最も一般的な名前です。
また、英語圏では、他のどの名前よりも多くの人が「ジョン」という名前で呼ばれてきました。
彼はその「光」そのものではありませんでしたが、その「光」について証しをするために遣わされたのです。それが、この世に生まれるすべての人を照らす「まことの光」でした。
これは霊的な光という意味です。
もし人がその光を受けるとすれば、それはキリストから受けるものです。
すべての人は、何が正しく、何が間違っているかを知るのに十分な光を持っています。
10節。
彼はこの世におられましたが、この世は彼によって造られたにもかかわらず、この世は彼を知りませんでした。
彼は受肉者としてこの世におられました。
そして、世界は彼によって造られました。それが創世記第1章です。
彼は自分の民のもとに来ましたが、自分の民は彼を受け入れませんでした。
彼は自分の民のもとに来られました。その民とは、ユダヤ人、すなわちイスラエルの民のことです。
自分の民は彼を受け入れませんでした。彼らは彼を十字架につけました。
しかし、この聖句はぜひ暗記しておいてください。
しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その御名を信じる者たちには、神の子となる権能を彼はお与えになりました。
さて、これこそが新約聖書における、救いに関する極めて重要な聖句です。
ですから、救いに関するあらゆる議論において、いざという時には、この一節だけが、あなたが救われているかどうかを決定づけるのです。
さて、自分が正しく信じているかどうかは、自分にはわかりません。
自分が正しく悔い改めたかどうかも、自分にはわかりません。
自分がバプテスマを受けたかどうかも、自分にはわかりません。
たとえ知っていたとしても、結局のところ、それほど多くのことは分からないでしょう。
また、誰かが「あなたは救われています」と言ったとしても、それは嘘かもしれません。
もし天使が「あなたは救われています」と言ったとしても、その天使はあなたを騙しているかもしれません。
ある日は救われたと思い、次の日には救いを失ったと思うかもしれません。
あなたの救いは、結局のところ、イエス・キリストを救い主として受け入れたかどうかにかかっています。
さて、イエス・キリストを受け入れるということは、イエス・キリストを信頼し、心を開き、頼ることです。
そして、私がイエス様を受け入れたことについては、私の中に何の疑いもありません。
人々は、「いつイエス様を受け入れたのですか?」と尋ねます。
私は、いつイエス様を受け入れたかということよりも、受け入れたという事実そのものに、より関心があります。
つまり、その不滅の種がいつ植えられたのか、誰にもわからないのです。
それは誰にもわかりません。
あなたが知っているのは、キリストに救いを求めた時、救い主を信頼した時、あるいは自分ができる最善の方法でキリストを受け入れた時、ということだけです。
あなたが知っているのは、それだけなのです。
知っておくべきことは、それだけなのです。
12節。
しかし、彼を受け入れた者すべてに、神の子となる権能を、彼は与えました。
ここで、「彼を受け入れた者すべて」という部分に注目してください。それは「人」のことです。
それは真理ではありません。メッセージでも、教義でもありません。
信念でも、宗教でもありません。
聖礼典でも、教会でもありません。
それは、彼を受け入れたすべての人なのです。
救いは、ある「人」の中にあるのです。
「その名をイエスと名づけなさい。彼は、その民を罪から救うからです。」
そして、あなたがイエス・キリストを受け入れるとき、神はあなたに力を与え、あなたを神の子にしてくださいます。
しかし、救われたとき、その代価はすでに支払われているため、あなたの永遠の救いは永遠に保証されているのです。
それは永遠の代価でした。
では、12節です。
しかし、彼を受け入れた者すべてに、神の子となる権能を、彼は与えてくださいました。
その意味について、さらに詳しく説明しましょう。
「彼を受け入れる」とはどういう意味でしょうか。
それは、次のような意味です。
それは、御名を信じる人々に対しても当てはまるということです。
その御名を信じるということは、その御名に信頼を置くということです。
それに頼ることです。それを信頼することです。その御名に信じを置くことです。
つまり、その御名に信頼を置くということです。
これは、「その医師が優秀な医師だと信じる」ことと、「その医師を信じる」ことの違いです。
こう考えてみてください。
あなたが燃えている建物の中にいるとします。
建物の横にはしごが立てかけられています。
あなたは声を限りに叫びます。もう窒息しそうになっています。
はしごが運ばれてきます。
消防士が4階まで登ってきて、窓に向かって両手を差し伸べ、「さあ、早く。さあ、早く」と言います。
するとあなたは、「信じています。信じています」と言います。
彼は言いました。「あなたを無事に下ろせます。」
あなたは言います。「信じています。」
彼は言いました。「あなたを助け下ろせます。さあ、早く。」
あなたは言います。「信じます。信じます。地面が燃えているのも信じます。彼が私を助けてくれるのも信じます。」
しかし、それだけでは彼を信じていることにはなりません。
もしあなたが彼を信じるなら、彼のところへ行き、彼の上に降り立ち、彼があなたを抱き上げ、下まで運んでくれるのです。
ある人がかつて、「どうして人が『道』になり得るのですか?」と、そんなふうに尋ねました。
キリストはこう言われました。「わたしこそが道である。」
ご存知の通り、そのはしごを降りる道は、ある一人の人間、つまり消防士なのです。そして、地獄から抜け出す道はキリストなのです。
さて、12番です。
その御名を信じる者たちに対してもです。彼らは(過去形)、血によっても、肉の意志によっても、人の意志によってもなく、神によって生まれたのです。
キリストを受け入れたとき、あなたは生まれ変わるのです。
そして、生まれ変わる時、血によって生まれるのではありません。
それは霊的な誕生です。
肉の意志によるものでもありません。
あぐらをかいて座り、サマデイを受け、トリップしてフラギナを得、意志の力によって自分の枠から抜け出し、人の意志によって新たに生まれる、といったことではありません。
また、お母さんとお父さんが子供を持つと決めたからというものでもありません。
ご覧の通り、三つの要素は除外されます。
あなたの新生は、肉体的な誕生でもなければ、精神から生まれる瞑想的な誕生でもなく、また誰かがあなたを産むと決めたことによるものでもありません。
それは神によるものです。あなたは神から生まれたのです。
さて、新しい誕生は自分の意志で引き起こせるものではないことにご留意ください。
人の意志によるものではなく、神によるものです。
しかし、12節にあるように、あなたがイエス・キリストを受け入れるまでは、神はあなたに新生を与えることを望まれません。
さて、新生はあなたの意志によるものではありません。
あなたがたは、自分の意志で新生を得ようとはできません。
あなたにできることをお伝えしましょう。イエス・キリストを受け入れることです。
そうすれば、神はあなたに新生を与えてくださいます。
それは肉体的な自然の誕生ではありませんが、霊とは対照的に、血によるものでもありません。
それは霊的な誕生であり、血によるものではなく、肉体的な血によるものでも、肉の意志によるものでもありません。
人は、意志の力を行使してあぐらをかくことで、新たな誕生を生み出すことはできませんし、それは人の意志によるものでもありません。
それは、お母さんとお父さんが子供を持つことを決めて、あなたを子供として産んだような、そのような「誕生」ではありません。
その誕生は神によるものです。
では、14節です。
そして、御言葉は肉となり、私たちの間に住まわれました。
御言葉は人の姿をとってこの世に来られ、私たちの間に住まわれました。
そして、私たちは、御父の独り子としての栄光、すなわち、恵みと真理に満ちたその栄光を目の当たりにしました。
それがヨハネの証しです。
「私たちは見た」とは、彼と彼の仲間たちを指しています。
ヨハネは彼について証しをし、「私が話していたのは、この方でした。私の後に来られる方は、私よりも優先される方です。
それは、時間的な順序ではなく、尊厳における順位のことなのです。
「私の後に来る方」――ここが「時」です。
私よりも優先される方です。彼は彼よりも上におられ、彼よりも先におられます。
なぜなら、その方は、時間的にも、また威厳においても、私よりも先におられたからです。
そして、その満ち満ちた豊かさから――これは著者の解説ですが――その満ち満ちた豊かさから、私たちは皆、受け取ったのです。
私たちは、すでに救われている者です。
14節にご注目ください。私たちは、救われた者として、その栄光を仰ぎ見ました。
16節、「私たちは皆、それを受け取りました」。
16節は、誰かを対象としているのではなく、キリストを受け入れ、新たに生まれ変わった人を対象としています。
そして、その満ち満ちた豊かさから、私たちは皆、恵みを恵みとして受けました。
つまり、キリストに与えられたあらゆる恵みが、私たちにも与えられているのです。
そして、キリストに与えられたそれぞれの恵みに対して、私たちも一つの恵みを受け取ります。
さて、「恵み」という言葉は、非常に幅広い意味を持つ言葉です。
カルヴァンは、聖書の中で「主権的な恵み」しか見出せなかったのですが、それは恵みをかなり狭い範囲に限定してしまうものです。
パウロは、お金を捧げる能力を「恵み」として述べています。
パウロはコリントの信徒への手紙第二で、「私がそこへ行ったとき、あなたがたの中にもこの恵みを完成させるつもりです」と述べており、寛大になることについて語っています。
聖書が、恵みから落ちた人について語っているガラテヤ人への手紙第4章では、それは救われるチャンスであり、彼らはそれを拒絶してしまったのです。
聖書が「人は恵みによって救われる」と述べている箇所では、神が恵みによっていくつかのことを見逃してくださらない限り、人は救われることができない、と語っているのです。
ですから、恵みにはいくつかの意味があります。
また、恵みとは、単に神があなたを救う手段であるだけでなく、ある人々が陥る状態であり、またある人々が保っている状態でもあります。
しかし、恵みとは、神が時折あなたに与えてくださるものでもあります。
例えば、「私たちは、憐れみと、何を得るために、大胆に恵みの御座に近づこう」とあります。そして何でしょうか?「必要な時に助けてくださる恵み」です。
さて、そこには尽きることのない供給があり、あなたは絶えずそこへ行き、それを受け取り続けなければなりません。
あなたが救われているのは、恵みによるものではありません。
あなたはすでに救われています。
それは、あなたが日々直面するさまざまな困難を乗り越えるために必要な恵みなのです。
すぐに口に出せるように覚えておくべき、お気に入りの祈りの一つは、「主よ、私に恵みをお与えください、恵みをお与えください」というものです。
日中は、その恵みが必要になるでしょう。「主よ、私に恵みをお与えください。恵みをお与えください。」
きっと必要になるでしょう。
ですから、現代社会において、一日を乗り切るには恵みが必要だと、私は感じています。
さて、ヨハネによる福音書第1章、えーと、16節です。
そして、私たちはその満ち満ちた豊かさから、みな受けました。
パウロはこう言っています。
「神の満ち満ちた豊かさが、すべて、この方の中に体として宿っており、私たちは、この方によって完全なものとなっているのです。
ですから、私たちは彼の満ち満ちた豊かさから受け取ったのです。
おそらく、あなたはその恩恵をまだ十分に活用しておらず、神がキリストに与えられたすべての恵みをまだ受け入れていないのかもしれません。
しかし、その牧師の言うことが正しければ、神はイエス・キリストに与えたすべてのものを、霊的な形であなたにも与えてくださっているのです。
17節
律法はモーセによって与えられましたが、恵みと真理はイエス・キリストによってもたらされたのです。
さて、誰かがこの件を切り離してしまったようです。
法律の下で恩赦が適用されない場合について、区別をつけようとする人々もいますが、それは事実ではありません。
これはあくまで比較に過ぎません。
絶対的な境界線というわけではありません。
確かに、律法はモーセによってもたらされ、恵みはキリストによってもたらされたとあります。
律法はモーセによって与えられました。
しかし、恵みと真理。
なぜでしょうか? 律法が真実であったことはご存知でしょう。
そこに明確な境界線を引くことはできません。
しかし、恵みと真理。これは、律法が真実ではないと言っているわけではありません。
ローマ人への手紙第7章の12節をご覧ください。
パウロが律法について語っています。
ローマ人への手紙第7章12節です。
それゆえ、律法は聖なるものであり、戒めもまた聖く、正しく、良いものです。
お分かりでしょうか?
律法は嘘ではありません。
そこで、彼は対比して、ヨハネによる福音書1章17節でこう述べています。
「律法はモーセによって与えられましたが、恵みと真理はイエス・キリストによってもたらされたのです」。
これは、律法がモーセによって与えられたのと同じような比較ですが、それが最終的なものではなかったのです。
完全な真理という意味での最終的なものは、イエス・キリストによってもたらされたのです。
そして、イエス・キリストによる恵みは、律法の下での恵みとは少し異なります。
これが対比となる点です。
彼は、律法の下に恵みがないと言っているわけではありません。
律法の下にも恵みがあることは、誰もが知っています。
イスラエルの民がエジプトから出て、エリコの町を七回巡ったとき、律法の中にも恵みが見出せます。
彼らはその町を七回巡りました。
そして七日目に、彼らは七回巡りました。
それは安息日の違反です。
主はそれを大目に見てくださいました。
私は、ディスペンセーション主義の教えにおいて、どの時代においても恵みが現れないなどとは決して教えておりません。
私は、エデンの園においても、あなたは恵みの下にありますが、救いは行いに基づいていると教えてきました。
律法以前の時代には、あなたは恵みのみに基づいていました。
律法の下では、信仰と行いに基づいています。
この時代においては、恵みに基づいています。
大患難の時代には、信仰と行いに基づくものです。
そして、千年王国においては、行いに基づくものです。
しかし、恵みはそのまま通じています。
もし主が恵み深くなさくなければ、どのような制度によってでも、誰が救われることができるでしょうか?
ですから、私は恵みを否定するわけではありません。
ただ、主は時として、少し違ったやり方で物事をなさるのだと言っているだけです。
律法はモーセによって与えられましたが、恵みと真理はイエス・キリストによってもたらされたのです。
さて、これは重要な聖句ですので、ぜひ印をつけておいてください。
これまで、だれも神を見たことがありません。
これこそが神の御心なのです。
出エジプト記の時代、人々は神を見ましたが、もちろん、それは主の御使いでした。
神の御霊という意味において、これまで誰も神を見たことはありません。
父の懐におられる独り子こそが、神を明らかにされたのです。
ヨハネがこれを記した時点では、キリストはすでに死からよみがえっておられました。
エホバの証人たちは、この聖句を次のように書き換えました。「いかなる時も、神を見た者は一人もいません。父の懐におられる独り子である神が、神を明らかにされたのです。」
そして、それがラッセル牧師とラザフォード判事の公式な教えであり、すなわちエホバの証人の「二つの神」という教えなのです。
さて、よく注意してご覧ください。
「いかなる時も、だれも神(これが一人の神)を見たことがありません。父の懐におられる独り子なる神(これがもう一人の神です)が、この神を明らかにされました。」
これが何人の神になるかお分かりでしょうか? 2人です。
数えてみてください。一つ。二つ。
聖書の権威に直面すると、中にはこのように正気を失ってしまう人もいます。
人間には、誤りのない聖書の誤りのない権威に直面した際、あたかも自分が神であるかのように振る舞おうとすると、一時的に狂気じみた状態になり、正気を失ってしまうという特徴があります。
そして、一時的に正気を失っているか、錯覚に陥っていない限り、聖書のその節をそのような解釈で読むことを推奨することはできません。
私は、その人物が家族を養うことや、通りを車で運転することに関しては、正気を失っているとは言っていません。
私が言ったのは、聖書の権威に直面したとき、そうした男性たちの中には一時的に正気を失ってしまう人もいる、ということです。
それが真実です。
18.
これまで、だれも神を見たことはありません。父の懐におられる独り子、すなわち神ご自身が、神を明らかにされたのです。
人々は、「キリストの神性を信じないのですか?」と言います。はい、信じます。
「キリストが肉となって現れた神であると信じませんか?」はい、信じています。
しかし、私は二人の神を信じてはいません。
聖書を信じる者なら、誰も二つの神を信じることはありません。
コリントの信徒への手紙第一、第8章を開いてください。
私たちは、ただひとりの神を信じています。
私たちは、神がキリストとして肉体に現れたと信じていますが、それは神の現れの一つに過ぎません。
コリントの信徒への手紙第一 第8章4節。
したがって、偶像に捧げられたものを食べるということに関しては、偶像はこの世において何ものでもなく、神はただひとりおられることを、私たちは知っています。
6節です。
しかし、私たちにとっては、すべてのものの源である父なる神がただひとりおられ、私たちは神の中にいます。また、すべてのものの源である主イエス・キリストがただひとりおられ、私たちはキリストによって生かされています。
神は二人いるわけではありません。
わかりました。ヨハネによる福音書 1章18節。
これまで、だれも神を見たことがありません。父の懐におられる独り子、その方が神を明らかにしてくださいました。
「明らかにする」とは、その事柄を、皆さんが見たり聞いたりできる場所に持ち出すことです。
明らかにするとは、それを明確にすることです。
お分かりのように、「明らかにする」あるいは「明確にする」とは、何かを目に見えるように引き出すことを意味します。
そして、これがヨハネの記録です。ユダヤ人たちがエルサレムから祭司やレビ人を遣わして、彼に「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はそれを認め、否定はせず、「私はキリストではありません」と告白しました。
これは彼の召しを否定しているわけではなく、彼は自分ではないものを装ったわけでもありません。
彼は「私はキリストではありません」と告白したのです。
彼は「私はキリストではありません」と率直に告白しました。
すると、彼らは彼に尋ねました。「では、どうなのですか。あなたはエリヤですか。」彼は、「私はそうではありません」と言いました。「あなたはあの預言者ですか。」彼は、「いいえ」と答えました。
申命記18章15節を書き留めてください。
モーセは、自分のような預言者が現れると語りました。
そこが問題なのです。
「あなたは、その預言者ですか?」
すると、彼は「いいえ」と答えました。
すると、彼らは彼に言いました。「あなたは一体どなたなのですか。私たちを遣わした者たちに答えを伝えなければなりません。ご自身について、どうお考えですか。」
すると彼は言いました。「私は最大の教会の牧師であり、毎年3000人の魂に洗礼を授けており、不動産も所有しています。そして昨年は、礼拝出席者数を2000人にするよう尽力しました。そして、その目標を大幅に上回りました。」
もちろん、そんなことはありません。
この国のどの説教者よりも、洗礼者ヨハネの方が多くの人々に洗礼を授けたに違いありません。
しかし、彼が洗礼を授けた人数について自慢しているのを、あなたが聞いたことはなかったでしょう。
しかし、彼はこう言いました。
「あなた自身について、どうお考えですか?」と彼は尋ねました。
さて、ここに彼の自認があります。
「わたしは、荒野で叫ぶ者の声です。」
彼が自らを何者だと公言したかといえば、ただ「声」に過ぎませんでした。
そして、実際、説教者とはそれだけの存在なのです。
彼はただ、荒野で叫ぶ者の声に過ぎないのです。
それが説教者というものです。
彼はただの声に過ぎません。
もし神様があなたを通して何かをなさるとしても、それは神様ご自身によるものであって、あなた自身によるものではありません。
そして、もしあなたが御霊の実を結ぶことがあったとしても、それは聖霊があなたを通して実を結ばせてくださるものであり、あなた自身によるものではありません。
時折、あなたが邪魔をしてしまうこともあるでしょう。
そして、あなたがその邪魔から身を引けば、主は何かを成し遂げてくださるでしょう。
「わたしは荒野で叫ぶ者の声です。預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにしなさい』」。そして、遣わされた者たちはパリサイ人でした。彼らはイエスに尋ねて言いました。「もしあなたがキリストでも、エリヤでも、その預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
彼らは、メシアが現れたとき、その方が誰かに洗礼を授けることを期待していたのです。
なぜそう考えたのでしょうか。コリントの信徒への手紙第一10章をご覧ください。
コリントの信徒への手紙第一10章2節です。
彼らは、モーセが「主は、わたしのような預言者を立てられる」と語ったことを知っていました。
さて、もしその方がモーセのような預言者であるならば、その方はバプテスマを授けなければならないはずです。
コリントの信徒への手紙第一 10章2節。
そして、彼らは皆、雲と海の中で、モーセに倣ってバプテスマを受けました。
ですから、彼らは、もしメシアが現れてモーセのようであるならば、何らかの洗礼が行われることになるだろうと知っていたのです。
さて、25節です。
そして、彼らは彼に尋ねて言いました。「もしあなたが、そのキリストでも、エリヤでも、その預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか。
さて、なぜ彼らはエリヤがバプテスマを授けることを期待していたのでしょうか。
まあ、それは少し事情が異なりますが、エリヤがかつてヨルダン川へ下り、そのマントで川面を叩き、水の中を通り抜けて戻ってきて、彼と共にバプテスマに埋もれたことを覚えているでしょう。
そして、エリヤはそのマントを手に取り、すぐにその水の中へ戻り、再び水から上がりました。彼もまた、バプテスマによって水に葬られたのです。
それは紅海を、水の下を通り抜けることです。
ヨルダン川を渡る際、ユダヤ人たちは水中に沈み、ヨルダン川を渡り、水中に沈みました。
エリヤも、ヨルダン川を渡り、水の下を通り抜けました。
エリシャの場合、それが描かれるたびに、それは「葬り」を表しています。
ノアの時代にも、それは埋葬でした。
彼らは皆、水の下に葬られています。
さて、エリシャがエリヤからそのマントを受け取ったとき、彼はシリアの隊長にこう言いました。「ヨルダン川へ下りて、そのヨルダン川に七度身を浸しなさい。」
ですから、人々はキリストが現れるのを待っているのです。あるいは、モーセやエリヤのような預言者を待っているのです。
彼らは、その方に洗礼を授けてもらうことを期待していたのです。
26
ヨハネは彼らに答えて言いました。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中には、あなたがたが知らない方がおられます。その方こそ、私の後に来られる方で、私よりも優先される方であり、私はその方の靴のひもを解く資格さえありません。」これらの出来事は、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダン川向こうのベタバラで起こりました。 翌日、ヨハネはイエスが自分の方へ来られるのを見て、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊です。
そして、「罪」という単数形に注目してください。
「世の罪」に注目してください。
「罪」ではなく、「その罪」、すなわち「世の罪」です。
主は、その罪を取り除き、背負って行かれるのです。
世の罪とは、不信仰と拒絶、神に対する反逆のことです。
主はそれを取り除いてくださいます。
あなたの中にある「性質の罪」とは、古い性質、すなわち主に対する反逆のことです。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。これこそ、私が「私の後に来る方は、私よりも先におられる方です。なぜなら、その方は私よりも先におられたからです。私はその方を知りませんでした。しかし、その方がイスラエルに現されるため、私は水でバプテスマを授けるために来たのです」と言った方です。
「しかし、私は彼を知りませんでした。」これは、もし彼がただ現れただけでは、私は彼を認識できなかっただろう、という意味です。
さて、ここで一旦立ち止まり、31節を非常に注意深く見ていきましょう。
洗礼者ヨハネは、キリストにあって死に、葬られ、復活した罪人の死、埋葬、そして復活を象徴する洗礼を施したわけではありません。
31節、ヨハネはイエス・キリストをイスラエルに現すためにバプテスマを授けたのです。
彼がそう言ったのです。
31節をご覧ください。
しかし、イエスがイスラエルに明らかにされるために、私は水でバプテスマを授けているのです。
ですから、ヨハネの水による洗礼は、厳密に言えば、ユダヤ人に対する旧約聖書の洗礼であり、イスラエルにユダヤ人のメシアを明らかにするためのものでした。
そして、それは確かにあなたの救いとは何の関係もありません。なぜなら、使徒行伝第19章で、パウロはある改宗者たちに出会い、「あなたがたは、信じた後、聖霊を受けましたか」と尋ねたからです。すると彼らは、「聖霊などというものを聞いたことがありません」と答えました。そこでパウロは彼らに、「では、どのような洗礼を受けたのですか」と尋ねました。すると彼らは、「ヨハネの洗礼です」と答えました。
この点、お分かりになりますか?
つまり、ヨハネによる福音書第1章やマタイによる福音書第3章に記されているヨハネの洗礼のことです。
厳密に言えば、ここで少し厳密に考えてみましょう。
それは良い例かもしれません。その点については疑いの余地はありません。
しかし、厳密に言えば、それは十字架の死後の水のバプテスマではありません。
これまで、ヨハネの洗礼について解説してきましたが、それはヨハネの洗礼と『使徒行伝』に記されている洗礼との違いをお示しするためです。
さて、使徒行伝については後ほど取り上げますが、使徒行伝第2章38節は、イスラエルに対するヨハネの洗礼の続きとなっています。
しかし、『使徒行伝』第7章以降、公式のサンヘドリン、つまり国家がステパノの御国に関するメッセージを拒絶したことで、状況は変化します。
ご存知のように、状況が変わったのは、パウロが召され、パウロが使徒行伝全体を通じて改宗者に洗礼を授けているからです。
しかし、パウロの働きは主にイスラエルに向けられたものではないため、彼がイスラエルにキリストを現すために洗礼を授けているわけではありません。
それでも、彼は『使徒行伝』全体を通して「バプテスマ」という言葉を使い続けています。
実際、彼は聖霊との関係においてもこの言葉を使い続けています。もし私たちにその区別を理解させたいのであれば、これは彼にとって見落としだったと言えるでしょう。
ですから、私は、水による洗礼は今や、あなたの救いの象徴であり、キリストの死、埋葬、そして復活を表すために、信者が水に浸されることであると教えています。なぜなら、それが、キリストの死、埋葬、そして復活を表すために彼が用いている言葉だからです。
ローマ人への手紙第6章です。そこでは「バプテスマ」と呼ばれています。
ですから、パウロのバプテスマと、使徒行伝第7章以降およびそれ以前のバプテスマとの間には区別がありますが、使徒行伝第2章38節とヨハネのバプテスマは非常によく似ています。
それらは互いにほぼ連続していると言えます。
32節です。
そして、ヨハネは次のように証ししました。「私は、聖霊が鳩のように天から降りてきて、その方の上に留まるのを見ました。」
聖霊の御業について言及する場合、その御人格ではなく、聖霊を「それ」と呼ぶことは全く問題がないことにご注目ください。
聖書に反対する人々のうち、ある人物はこう言います。「ローマ人への手紙第8章で、なぜ『御霊ご自身が、私たちの証しする御霊と共におられる』と書かれているのでしょうか?」
そうですね、本来なら「彼自身」であるべきだったことはわかっています。
実のところ、本来は「ご自身」であるべきではありませんでした。
「それ自身」であるべきだったのです。
実際、ギリシャ語を学んでいる方なら、おそらくすでに中性名詞に出くわしていることでしょう。
第三変化の「numatas」は中性名詞です。
これは男性名詞ではなく、中性名詞です。
さて、このことは、他のあらゆる事柄と同様に、ある人が真理を見出したことに由来しています。
真理を見つけ、その真理を手にしたなら、その真理を得られたことを神に感謝し、その真理を心に留めておいてください。しかし、そこで止まってはいけません。探し続けてください。
私は、牧師としての召命や、牧師という職務とは何か、牧師に任命されることの意味を本当に突き止めたいのであれば、と、1年目の若い牧師たちにこう伝えています。
神があなたを牧師として召されたのであれば、神はあなたに、残りの生涯を通じて真理を探し求め、それを手に入れたらすぐに広めるよう召されたのだ、と伝えています。
それこそが牧会なのです。牧会とは、生きている限り、いつでも、どこでも、真理を見つけられる場所ならどこでも、真理を探し求めることなのです。
そして、ある事柄についての真理を見つけたら、すぐにそれを世に広めてください。
それこそが、牧会なのです。
それが説教です。それこそが説教なのです。
そしてその過程で、神の御言葉から真理を得たとき、その真理だけで止まったり、聖書全体をその真理に合わせようとしたりしないよう、細心の注意を払わなければなりません。
そうしてしまうと、異端になってしまうからです。
さて、カルヴァンは「予定説」という一つの真理を掴みました。
そして、それを十分に掘り下げる前に、彼は四つの異端を説いていました。
真理を一つ得たら、それには注意を払わなければなりません。
聖書全体をその真理に合わせようとすると、問題が生じてしまいます。
さて、バプテスト派は真理を掴みました。彼らは、聖霊が「それ」ではなく「人」であることを見出したのです。
そしてバプテスト派の人々は、「ちょっと待ってください。ちょっと待ってください。それは『人』なのです」と言いました。そして、その通りです。
しかし、その点については注意しなければなりません。
もし聖書全体を、その一つの真理に合わせるよう無理に縛り付けようとすれば、問題が生じます。
例えば、聖書を開いて、ルカによる福音書第1章をご覧ください。
ここをご覧ください。ルカによる福音書第1章35節です。
ここでは、イエス・キリストが「もの」と呼ばれています。
ここをご覧ください。ルカによる福音書1章35節です。
すると、天使は答えて彼女に言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、あなたから生まれる聖なる御子は、神の子と呼ばれるのです。」
「聖なるもの」。これはイエス様を指しています。
というのも、これはイエスの受胎、すなわち「種」を指しているからです。
そして、「種」という言葉は中性名詞です。
もう一つ見てみましょう。
創世記3章15節です。
聖書には間違いなどありません。
間違いを犯しているのは、聖書を改ざんしようとする人々です。
創世記3章15節。
「わたしは、あなたと女との間に、また、あなたの子孫と彼女の子孫との間に敵意を置く。その子はあなたの頭を砕き、あなたは彼のかかとを砕くであろう」。
「それ」とは、一体何を指しているのでしょうか。イエス・キリストです。
「その者」はあなたの頭を砕くでしょう。
さて、ヨハネの福音書に戻りましょう。
ヨハネによる福音書 1章32節。
ヨハネは証しして、こう言いました。「私は、御霊が鳩のように天から降りてきて、その方の上に留まるのを見ました。」
まず第一に、御霊の形や姿、そして御霊の油注ぎについて語る場合、それは「それ」となります。
さて、聖霊という「人」について話す場合、その「人」は男性形の「彼」となります。
そして、私はその方を知りませんでした。
彼は、キリストを直接見たことはありませんでした。
しかし、私を遣わして水でバプテスマを授けるようにされた方。
それは父なる神です。
その方が私にこう言われました。「あなたが、御霊が降りてきて、その人の上に留まるのを見たら、その人こそ、聖霊でバプテスマを授ける方です。そして、私はそれを見て、この方が神の子であることを証ししました。翌日、ヨハネと彼の弟子二人がまたそこに立っていました。そして、歩いてくるイエスを見て、ヨハネは言いました。「見よ、神の小羊だ!」
29節で、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。
これは翌日、改めて述べられた言葉、「見よ、神の小羊」です。
しかし、彼が「小羊」と言ったのは、小羊が犠牲だからです。
つまり、もし彼が他に何も言わなかったとしても、その言葉を聞いたファリサイ派の人々は憤慨したのです。
つまり、「見よ、神の小羊」と。
それはどういう意味なのでしょうか?
「神の小羊」。
私はある男性を指さして、「ほら、あそこに『神の小羊』がいるよ」と言いました。
二本足で歩いている男性がいました。
私は、「あそこに子羊がいるよ」と言いました。
「ほら、神の子羊が通り過ぎていますよ」と。
パリサイ人たちはそれを快く思いませんでした。彼らは「子羊」が何を意味するかを知っていたからです。
「子羊」とは、罪の贖いだったのです。
それは、神がアダムとエバを楽園から追い出された時のことでした。
アベルが捧げ物を捧げた時でした。
ノアが箱舟から出た時でした。
そして、アブラハムがイサクを山の頂上へ連れて行った時でもありました。
彼らは「子羊」とは何かを知っていました。
神の小羊です。
そして、二人の弟子はイエスの言葉を聞き、イエスに従いました。すると、イエスは振り返って、彼らが後をついてくるのを見て、こうお尋ねになりました。「何を求めておられるのですか。」彼らはイエスに言いました。「ラビ(つまり、訳せば『先生』という意味です)、どこにお住まいですか。」イエスは彼らに言われました。「来て、見てごらんなさい。」
もし誰かがあなたに「どこに住んでおられますか?」と尋ねてきたら、
「キリストの中にいます」と答えてください。それは良い答えです。
それは、証しを始めるのに良い方法です。
「ええ、私は二つの場所に住んでいます。この近所と、キリストの中に住んでいるのです」と言ってください。
イエスは彼らに、「来て、見てごらんなさい」と言われました。彼らは行って、イエスが住まわれているところを見て、その日はイエスと一緒に過ごしました。
それがどこだったかは書かれていません。
おそらくオリーブ山の上だったのではないでしょうか。
屋外だったのかもしれません。
ヨハネの話を聞いて彼に従った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟であるアンデレでした。
こうして、三人は皆、漁師でした。
ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、そしてペテロです。
彼が最初に選んだ4人は、皆、漁師でした。
彼が最初に選んだのはこの4人です。
イエスは、大学教育を受けたラビたちとは、5分たりとも時間を無駄にしませんでした。
彼は4人の商業漁師を選びました。
それが、彼が最初に選んだグループです。
4人の漁師です。
そして、彼が4人の漁師を選んだのは、漁師が水中の魚を捕まえて水から引き上げるからです。
そして彼は、「わたしについてきなさい。そうすれば、あなた方を人の漁師にしてあげましょう」と言いました。
つまり、人々は水中にいるので、あなた方は彼らを引き上げなければなりません。
水の中から引き上げ、陸に上げなければなりません。
彼らは海の底にいます。
だからこそ、彼らは「高価な真珠」と呼ばれているのです。真珠採り師が潜って、あなたたちを水から引き上げなければなりません。
そして、あなた方の何人かは水辺へと向かいます。
そうすると、反対側に着地することになります。
だからこそ、主は漁師たちを選ばれたのです。
41.
彼はまず、自分の兄弟であるシモンを見つけ、彼にこう言いました。「私たちはメシアを見つけました。これは、訳すと『キリスト』という意味です。
これは「油を注がれた者」という意味です。
この注記にご注目ください。
もし、すべての弟子が27年間、毎年1人ずつ人をキリストに導いたとしたら、64億人の改宗者がいたことになります。
もしすべてのクリスチャンが毎年一人ずつ他の人をキリストに導き、その一人ひとりが27年間でさらに一人ずつ他の人をキリストに導いたとしたら、改宗者は64億人になっていたでしょう。
全世界が改宗していたことでしょう。
もしすべてのクリスチャンが毎年一人ずつ人をキリストへと導けば、全世界が改宗することになります。
これが何を示しているか、お分かりでしょうか?
それは、誰かがキリストのもとへ人を導いていないということを示しています。
誰かが、他の誰かが10万人をキリストに導いてくれることを当てにしている一方で、残りの人々はただ座って何もしないでいるのです。
42節です。
そして、彼はその人をイエスのところへ連れて行きました。イエスは彼をご覧になり、「あなたはヨナの子シモンですね」とおっしゃいました。
イエスは彼の名前を挙げて、その人物を特定されました。
「あなたはケファと呼ばれることになるでしょう」。
イエスは彼に新しい名前を与えられました。
これは、訳すと「岩」という意味です。
この「ケファ」という言葉は、ペテロを意味します。
そして、アラム語では「ケファス」です。
ギリシャ語では「ペトロス」となります。
そこから「ペテロ」という言葉が由来しています。
「あなたはヨナの子シモンです。あなたはケファと呼ばれることになります。これは『石』という意味です。」その翌日、イエスはガリラヤへ出かけて行き、フィリポを見つけ、彼に「わたしについてきなさい」と言われました。さて、フィリポはベツサイダ出身でした。
ここはパレスチナ北部に位置しています。
さて、フィリポは、アンデレとペテロの出身地であるベツサイダの人でした。フィリポはナタナエルを見つけました。
これこそが、人々をキリストに導く方法です。
ある人が別の人に伝え、その人がまた別の人を連れてくるのです。
これらはすべて、一人ひとりの働きによるものです。
アンデレはペテロのところへ行き、彼を連れてきました。
フィリポはナタナエルを連れてきました。
フィリポはナタナエルを見つけ、彼にこう言いました。「モーセの律法や預言者たちが記していた、ヨセフの息子、ナザレのイエスという方を見つけました。
そして、その方がナザレのイエスであると告げました。
そして、彼をヨセフの息子であると特定しました。
ですから、ヨセフが彼の父親であるということは、その地域では周知の事実でした。
もちろん、それが周知の事実であるのは、マリアがベツレヘムで戸籍登録をした際、ヨセフをイエスの父として登録していたからです。
キリストが神殿におられ、パリサイ人たちがそこへやって来たとき、マリアが入ってきて、「あなたのお父様と私が、あなたを心配して探し回っていたことをご存じないのですか」と言いました。
すると、キリストは母を正して、「お母さん、それは間違いです。私は父の務めを果たしているのです」とおっしゃいました。
このことについて、じっくり考えたことはありますか?
つまり、彼は「私は父の務めを果たしているのです」とおっしゃったのです。
さて、ヨセフは大工でした。
もしキリストが「父の務め」に従事していたのであり、その父がヨセフだったとしたら、なぜエルサレムの神殿で神学論争をしていたのでしょうか?
この点、お気づきでしょうか?
自分の母親を否定しているような話ですよね。
実の母親が「あなたのお父さんと私」と言ったのに、彼は「それは間違いです」と答えたのです。
父親を間違えています。
私の父の務めを見てください。
ルカによる福音書第2章33節について、「『彼の父と母』に改めるべきだ」と言い出す人たちがいるとき、まさにそのように答えるべきなのです。
「ヨセフと母」の代わりに「父と母」と言っても、まったく問題ありません。
というのも、その少し後にマリアが「あなたのお父さんと私は、悲しみを抱えて探していた」と言ったからです。
ルカによる福音書2章33節において、これはマリアがキリストの窮状を隠そうとしているわけではありません。
それは、聖霊なる神が医師を通して語り、キリストの誕生の経緯を伝えているのです。
そして、ルカが「父と母」と書くことは決してなかったでしょう。
ルカは「ヨセフと彼の母」と記しました。
しかし、マリアが語るとき、彼女はキリストを庇っているのです。
そして、その際でさえ、主は彼女を正しておられます。
では、46節です。
ナタナエルは彼に言いました。「ナザレから、何か良いものが生まれることがあるでしょうか?」
ここに懐疑論者がいます。
ナザレには、何か評判があったに違いありません。
47.
イエスはナタナエルが自分の方へやって来るのを見て、彼についてこう言われました。「見よ、この人はまことにイスラエル人であり、その心には偽りがない。」
イエスはナタナエルの人柄を見抜かれたのです。
さて、「偽りがない」とは、策略や狡猾さがないことを意味します。
ある人々は、一目見ただけでその人柄がわかるものです。
この世の中には、第一印象が単に悪いだけでなく、100回会ってもその印象が変わらないような人々もいます。
彼らには気品がありません。
洗練さもありません。
彼らは野蛮です。
そして、悪意のない人とは、人を騙そうとするような策略を持たず、あなたをだまそうと企む心を持たない人のことです。
ナタナエルはまさにそんな人なのです。
彼は本当にそういう人なのです。
ナタナエルは彼に言いました。「どうして私のことをご存知なのですか?
彼は傲慢なのではなく、自分がどのような人間であるかをよく知っているのです。
そして、主がどうして一瞬で自分の心を見抜き、そのような評価を下すことができたのかを知りたかったのです。
イエスは答えて、彼にこう言われました。「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがイチジクの木の下にいたとき、私はあなたを見ていました。
聖書にそんな目まぐるしいことを書くなんて。
聖書には、時々、とんでもないことが書かれているものですよね?
そんなことは考えないでおきましょう。
道で一人の男が近づいてきて、「ねえ、あなたには悪意がないね」と言いました。
どうして私のことをご存知なのですか?
「いちじくの木の下にいるあなたを見ましたよ」
まあ、大したことじゃないですね。
つまり、あのようなことをそこに書くなんて、紙の無駄使いではないですか?
聖書は素晴らしい本です。
そして、主が何か意図をお持ちでない限り、聖書にそのようなことが書かれることは決してありません。
そして、主はこの地を見下ろしておられます。
主がこれまでに見てこられたすべてのことを、立ち止まって考えたことはありますか?
いやあ、本を書くと言えば。
もし主が見たことをすべて書き留めたとしたら、一体どんな本になるでしょうか?
その本を読み終えるのに、どれほどの時間がかかるか、お分かりになりますか?
つまり、もし主があなたの人生だけを取り上げて、そのすべてを詳細に書き記し、さらにその道中で出会ったすべての人々についても語られたとしたら?
そして、他のすべての人についても同じことをされたとしたら。
さて、ここに、主が「ここから始まり、ここで終わる」とおっしゃった本があります。
この本には、159879350485795ページ分に相当する内容を盛り込むことができます。
しかし、私はそれを1200ページに凝縮するつもりです。
そして、必要なことはすべて、その1200ページの中に収まるでしょう。
それに、かつてイチジクの木の下で出会ったある人物についての話も必要なんです。
すごいことではありませんか?
「選り好み」なんておっしゃいますが、それは奇妙ですね。
さて、イチジクの木はどのようなものの型を表しているのでしょうか?
それはイスラエルの象徴です。
また、園における独善の象徴でもあります。
それはイスラエルの型です。
さて、この場面をご覧ください。
ナタナエルは答えて、彼に言いました。「ラビ、あなたは神の子であり、イスラエルの王です。」
さて、これが何を指しているかは、私たちも承知しております。
「イスラエルの王」とは、再臨を指しています。
ですから、ここには再臨について書かれている部分があるのです。
そのイチジクの木が花を咲かせるのを見る世代こそが、再臨を目撃する世代なのです。
そして、そのイチジクの木が花を咲かせると、実をつけ始めます。
ですから、ここには何か意味があるのです。
ナタナエルは、キリストの再臨と何らかのつながりを持っています。
そして彼は、偽りのないイスラエル人の典型です。
彼は、大患難の時代に救われるユダヤ人の型なのです。
ここに、改宗しつつあるユダヤ人がいます。彼はこう言います。
「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは彼に答えて言われました。「『いちじくの木の下であなたを見た』と私が言ったから、あなたは信じたのですか。これよりもさらに大きなことを、あなたは見るでしょう。」すると彼はイエスに言いました。「まことに、まことに、あなたに申し上げます。これから、天が開き、神の御使いたちが人の子の上を行き来するのを見るでしょう。」
再臨。
さて、これを創世記に登場するヤコブの幻と比較してみてください。そこでは、天へと続く梯子と、上り下りする神の御使いたちが見えました。
これは、創世記第28章でヤコブが夢を見ていた場面と一致しています。
そして、創世記28章12節でヤコブが夢を見ている場面には、次のように記されています。
「彼は夢を見て、見よ、地上に立てられた梯子があり、その頂は天にまで達しており、見よ、神の御使いたちがその梯子を昇り降りしている。」
千年王国において、主がエルサレムの御座におられるとき、エルサレムから第三の天へ、あるいは地上のエルサレムから天にある新しいエルサレムへと通じる通路が開かれ、天使たちがその通路を往復し、天と地の間を行き来しているように見えます。
そのような様子のようです。
