ウェブ神学セミナー:第8部
2023年11月19日
/
今日は三位一体を扱います。
ウェブの神学セミナーシリーズ第8回目。
私たちは神の言葉から始めます。
父なる神についての学問は、正しくは神学あるいは神についての学問と呼ばれます。
そして、三位一体の研究からキリストの研究へと移っていきます。
今週のレッスンでは、三位一体が一体となって行動することを扱います。
つまり、聖書では父親が息子から独立して行動するのではなく、息子、父親、聖霊が一緒に行動することが非常に多いのです。
そして、順序はあっても、その現れ方の程度は様々です。
この3つは不可分なのです。
このことは、天地創造における父と子と聖霊の働きについて語る際にも指摘しました。
創世記1章3節。ヨハネによる福音書1章1節、創世記1章2節。
そして神様はおっしゃいました。すると光がありました。(創世記1:3)
初めに言があり、言は神とともにあり、言は神でありました。(ヨハネ1:1)
地には形がなく、空虚であり、深淵の面には闇がありました。そして、神様の霊が水の面を動いていました。
私たちは、受肉において、聖霊と父と子が共に行動されたことをお話ししました。
さて、ルカ3:26 ルカ2:11 ルカ1:35。
もちろん、肉体をもって顕現された神様が人の子となり、人の母から人の名を授かったことは理解していますが。
贖罪に積極的な3人。
ヘブライ人への手紙第9章14節では、父と子と聖霊がカルバリの御業に関してすべて言及されています。
もちろん、贖罪を行うのは息子自身ですが。
さて、これらの事柄について言えば、三位一体は救いにおいて統一として機能します。
聖書の中でこのことを完璧に表しているのは、父親が息子を家に迎え入れる場面です。
聖書にはこうあります。
神様は、私たちを愛する者に受け入れてくださいました。(エペソ1:6)
そしてキリストは言われました。
わたしによらなければ、だれも父のもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)
ですから、遠い国から帰ってきた放蕩息子は、帰ってきたときに父親に歓迎され、受け入れられる少年の美しい姿なのです。
ルカによる福音書15章22節にある、罪人を迎えた父親が彼の服を着せ、お祝いをしたことに注目してください。
これは罪人の和解の完璧な絵です。
聖書にはこうあります。
神様が、罪を知らない方を、私たちのために罪とされたのです。(2コリント5:21)
聖書には、私たちは愛する者に受け入れられると書かれています。
父は、息子を受け入れた罪人を歓迎し、受け入れます。
このことは、聖書がクリスを受け入れるとき、その人は養子になるように定められていると言っていることからも明らかです。
そして、人がキリストを受け入れるとき、彼はその子の姿に造り変えられるように定められます。
この二つの働き。キリストの像の確認と養子縁組は、罪人がイエス・キリストを受け入れたときに始まります。
彼は父に受け入れられ、家族の一員となり、その最終的な行き先は、まさに神ご自身の息子に適合することなのです。
救いにおいても、息子は積極的です。
ルカによる福音書15章4節では、失われた羊を救うために、失われた羊を探しに行かれます。
彼は言いました。
人の子は、失われたものを捜して救うために来られたのです。(ルカ19:10)
失われた羊の譬えはその典型です。
羊が山で迷子になったとき。
羊飼いは外に出て羊を見つけます。
そして彼は言いました。
主はご自分のところに来られましたが、ご自分のところはお受けになりませんでした。しかし、彼を受け入れた者には、神の子となる力をお与えになりました。(ヨハネ1:11-12)
ですから、息子は救いに積極的であり、このことはさらに明らかです。
聖霊は、新しく改宗した人が救われたときに印を押されました。
エペソ人への手紙1章13節にこうあります。
信じてから、約束の聖なる御霊で封印されたのです。
イエス・キリストを信じるとき、聖霊によって結び固められます。
さらに、エペソ書にはこう書かれています。
あなたがたは、神の聖なる霊を悲しませてはなりません。(エペソ4:30)
贖罪の日に
さらに、コリントの信徒への手紙第一の6章にこうあります。
私たちは、聖霊がこの働きに積極的であることを読み、生まれ変わった罪人はキリストの血によって聖別されるだけでなく、神様の霊によって聖別されると言います。
だから三位一体の神様は一致団結して働きます。
そして、聖霊も父も子も、すべてが救いに積極的なのです。
それだけではありません。
父なる神様、子なる神様、そして聖霊様は、交わりの中で活動されています。
父なる神様は、私たちが交わりのために神様のもとに来るよう招いてくださっています。
エペソ人への手紙2章18節に
この方によって、私たちはともに、ひとつの御霊によって御父に近づくことができるからです。
しかし、これは息子が私たちの和解者であるという理由によるものです。
第二コリント5:19。
神様はキリストにあって、世をご自分と和解させてくださいました。彼らの罪を彼らに負わせず、和解の言葉を私たちに託されました。
そして、この結合と交わりに影響を与えるのは聖霊です。
エペソ人への手紙2章18節
この方によって、私たちはともに、ひとつの御霊によって御父に近づくことができるからです。
聖霊ご自身が私たちのために執り成しをしてくださることを読むと、父と子と霊が祈りにおいて連動し、共に行動していることがわかります。
父なる神様は、その願いを受け止めてくださる方です。
父親への依頼ですが、息子の名前で行っています。
わたしの名によって、あなたがたが父に求めるものは何でも、父はそれをあなたがたにお与えになります。(ヨハネ16:23)。
そして、私たちの願いを指示し、私たちの祈りを導き、導いてくださるのは聖霊です。
ですから、三位一体の教義はローマや異教の教義ではまったくありません。
三位一体の教義は聖書の事実です。
そして、この事実を曲解することから生じる2つの愚かな冒涜は、まず、イエス・キリストを小神とする3つの別々の神様がいると主張する人々によって作られました。
そして2つ目の冒涜は、私たちが所有性への冒涜、あるいはモダリズムと呼んでいるものです。
父なる神様はイエス・キリストだと教えています。
イエス・キリストは息子の名前です。
さて、神の言葉を曲解する人々が訴える聖句は数多くあります。
もちろん、神様から認められるために勉強しているわけでもない素人や学生にとっては、すべてが理屈に合っているように見えます。
例えば
もし私が、父なる神様のお名前がイエス・キリストであることを証明したかったら。
イザヤ書9章とヨハネによる福音書14章をお読みください。
イエス・キリストはこう言われました。わたしを見た者は、父を見たのです。
嘘を証明しようとするには、いいバッフルですね。
それから、イザヤ書9章を読んで、キリストの名は永遠の父であることを示そうと思います。
聖書の2節や3節を抜き出して、聖書を2節や3節に一致させようとする人が、このような窮地に陥るのです。
すべての異端者はこのように行動します。
結局のところ、聖書はあなたが自分の教義を証明するために曲解した2、3節を証明するために書かれているのではありません。
聖書は神様の言葉です。
そして、聖書は表紙から表紙まで、父と子と聖霊が一体となって働いていることをはっきりと示しています。
そして、私たちがこのことを証明するために使う聖句は、文脈から抜き出した2節や3節ではないことにお気づきでしょうか。
しかし、節に次ぐ節、節に次ぐ節で、それが現れる文脈の中で。
例えば、主イエス・キリストはこう言われました。
私を見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)
父なる神様が肉体をもってお出ましになることをおっしゃっているのです。
父なる神様が霊の中におられるように、誰かが父なる神様を見たことがあるなどとは一言も言っていません。
聖書にはこうあります。
父なる神の懐におられるひとり子を、神は宣言されたのです。(ヨハネ1:18)
そしてまた、こうも書かれています。
だれも近づくことのできない光の中に住まわれ、だれも見たことがなく、見ることもできない方。(1テモテ6:16)
ですから、この聖句を根拠に建てられた小さな小さな教派の曲解は、それゆえ聖書全体がこの聖句に規制されるべきであると教えています。
もちろん、教義上の教えはすべて教派の教えだと言う教派間のグループとは問題があります。
聖典は主に教理を教えるために書かれたもので、このことは第二テモテ3:16からも明らかです。
聖書はすべて神様の霊感によって与えられたもので、教理に役立つものです。(2テモテ3:16-17)
聖書が書かれた最初の目的は、健全な教理のためであり、聖書は、終わりの日には、彼らは耳がかゆい教師たちを集め、健全な教理に耐えられないと告げています。
さて、健全な教義では、父と子と聖霊は、創造において、受肉において、贖いにおいて、救いにおいて、交わりにおいて、祈りにおいて、共に働くものとして語られるそうです。
何節ですか?
18試合連続、そしてまだまだ続きます。
聖書が息子キリストを永遠の父と呼ぶべきだと言うのは、単に息子がそう呼ばれるべきであると言っているに過ぎません。
父なる神への称号がイエス・キリストに向けられていることはありません。
イエス・キリストは肉体をもって現れた神様ですから。
しかし、エホバという言葉は、旧約聖書で父なる神に対して用いられた名前です。
そしてもちろん、エホバ神は三位一体の一員であり、造られた神様でも、神様とは別の存在でもないことも知っています。
イエス・キリストは地上生活ではエホバと呼ばれることはありませんでしたが、イエス・キリストと呼ばれています。
そして、彼がグループに対して "I am "と言い、自分自身にエホバの名前 "I am "を適用するとき。
自分が三位一体の一員であり、神様と対等であることを。
彼はエホバと対等です。
実のところ、主の中の主、王の中の王という称号は、ヨハネの黙示録に登場するエホバの中のエホバなのです。
しかし、それはもちろん、父であるエホバ神様が息子として現れることから始まったのです。
そして、2つの異なる神様が登場することはありません。
三位一体が混濁し、境界線を見失うことはありません。
それは完全な謎であり、救われていない人間には理解できない謎なのです。
だから、3つの創造神や2つの創造神を教える人はみんなそうです。
この人たちは、神様の言葉を理解できない、救われていない人たちです。
聖書にはこうあります。
しかし、生まれながらの人は、神のみ霊のものを受けません。霊的に見分けることができないからです。(1コリント2:14)
わかりました。
三位一体は統一と栄光のうちに行動します。
父なる神様は、やがて永遠の王国をお受けになるのです。
そして終わりが来ます。彼がすべての支配と権威と権力を捨て去ったときです。(1コリント15:24)
息子は、私たちの下劣な体を彼のような体に変えてくださる方です。
だれが、私たちのみすぼらしいからだを変えて、その栄光のからだのように造ってくださるのでしょうか。(ピリピ3:21)
そして、聖霊が招きを与えるのです。
そして、御霊と花嫁は、「来なさい。(黙示録22:17)
父なる神様は、栄光の中で私たちの新しい名前を記録してくださいました。
むしろ喜びなさい。あなたがたの名は天に記されているのですから。(ルカ10:20)
息子はその尊い血によって私たちの罪を清めてくださいます。
この方にあって、私たちはその血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。(エペソ1:7)
そして、聖霊は新生という変容した奇跡を行います。
イエス は 彼に 答えて 言われた, 「まことに, あなたがたに告げます, 人は 生まれ変わらないかぎり, 神の国を 見ることはできません.ニコデモが言った, 「年をとってから, 人はどうして 生まれるのですか.水と御霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉から生まれたものは肉であり、御霊から生まれたものは霊です。(ヨハネ3:3-6)
3つとも再生で使えるように。
では、参考文献をいくつか書いてください。
神様の属性についてお話しします。
まず第一に、その永遠性、全知全能、全存在という伝えがたい属性。
それから、彼の伝達可能な属性、彼の真理、彼の博愛、彼の交わり、彼の神聖さについて話そうと思います。
しかし、父なる神様、子なる神様、そして聖霊様が、三者三様でありながら、すべて同じ属性を持っておられることを示す聖句をお教えしましょう。
準備はいいですか?
まず神様の永遠について。
父なる神様は永遠だと言われています。
山々が生まれる前から、あるいは、あなたが地と世界を造られる前から。とこしえからとこしえまで、あなたは神様です。(詩篇90:2)
息子は永遠だと言われています。
私はアルファであり、オメガである。今あるもの、かつてあったもの、そしてこれから来るもの。全能者。(黙示録1:8)
聖霊は永遠であると言われています。
永遠の御霊によって、ご自分を汚れのない者として神様にささげられたキリストの血は、どんなに重いことでしょう。(ヘブル9:14)
次に、神様の全知全能を取り上げます。
父なる神様。
終わりの時に啓示される救いのために、信仰によって神様の力によって保たれている人たちです。(第一ペテロ1:5)
息子です。
そして、主は私に言われました。わたしの恵みは、あなたがたに十分です。(第二コリント12:9)
聖霊。
神の御霊の力による、力強いしるしと不思議をとおして。それで、私は、エルサレムからイリュリクムに至るまで、キリストの福音を完全に宣べ伝えました。(ローマ15:19)
次に、神様の全知全能について説明します。
父なる神様。
わたしは心を探り、手綱を試み、すべての人にその道に従って、またその行いの実に従って与えるためである。(エレミヤ17:10)
息子です。
わたしは手綱と心を探り、あなたがたの一人一人に、あなたがたのわざにしたがって与える者です。(黙示録2:23)
聖霊。
人の霊がその人のうちにいるのでなければ、いったい誰が人のことを知ることができましょうか。神のことも、神の霊以外には、だれも知らないのです。(第一コリント2:11)
私たちは今、神様の遍在、つまり神様はどこにでも一度にいらっしゃるという事実を扱います。
その巨大さ、遍在。
父なる神様。
主は言われました。わたしは天と地を満たしているではないか、と主は言われました。(エレミヤ23:24)。
息子です。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその真ん中にいるからです。(マタイ18:20)
聖霊。
あなたの霊から、私はどこへ行こうか?あなたの御前から、私はどこへ逃げましょうか。(詩篇139:7)
次に、神の属性としての神聖さについて説明します。神様は聖なるお方です。
父なる神様。
主よ、あなたを恐れず、あなたの御名をあがめずにはおれない者があろうか。あなただけが聖なる方だからです。(黙示録15:4)。
息子です。
しかし、あなたがたは、聖なる方と正しい方を否定したのです。(使徒3:14)。
聖霊。
彼は主の目の前に偉大な者となり、ぶどう酒も強い酒も飲みません。そして、その母の胎内から聖なる霊に満たされるのです。(ルカ1:15)
私たちは今、神様の真実さ、あるいは正直さを扱います。
父なる神様。
イエスは教えながら、神殿で叫んで言われました。あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。わたしをお遣わしになった方は、あなたがたの知らない真実な方です。(ヨハネ7:28)
息子です。
聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っておられる方は、これらのことを言われました。(黙示録3:7)
聖霊。
御霊は真理だからです。(第一ヨハネ5:6)
私たちはこれから、神様のいつくしみ、親切、寛容を扱います。
父なる神様。
神のいつくしみがあなたがたを悔い改めに導くことを知らないで、神のいつくしみと寛容と寛容の富を軽んじているのですか。(ローマ2:4)
息子です。
夫たちよ、妻を愛しなさい。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように。(エペソ5:25)
聖霊。
あなたはまた、彼らを指導するために、あなたの良い霊をお与えになりました。(ネヘミヤ9:20)
私たちは今、神との交わりと共にあります。
神様が人と交わり、人と心を通わせること。
父なる神様と息子。
私たちが見聞きしたことを、あなたがたに告げます。私たちの交わりは、父と、その御子イエス・キリストとにあります。(第一ヨハネ1:3)
聖霊。
主イエス・キリストの恵みと神様の愛。そして、聖なる霊の交わりが、皆さんと共にありますように。(第二コリント13:14)
これで、息子が神であり、聖霊も父と同様に神であることが証明されました。
3つの別々の神様でなくても。
彼らは一体として行動していますが、父なる神と同じ属性が息子と聖霊にも与えられており、同じ称号ではありません。
例えば、父なる神は主であり神様ですが。
息子は主であり神様です。
そして聖霊は主であり神様です。
タイトルは適用されません。
父は慰め主とも真理の霊とも呼ばれません。
父は、キリストの霊のパラクリートとも聖霊とも呼ばれません。
息子はエホバ・ジレとは呼ばれません。
エホバ・ニッシともエホバ・ラファとも呼ばれず、ジャーとも呼ばれません。
子が聖霊と呼ばれることも、子が慰め主と呼ばれることもありません。
彼らは一つの神格の中で、それぞれの別個の区別を絶対的に維持しています。
どの教会もそんなことは言っていません。神様がそうおっしゃったのです。
イエス・キリストに記述されているのと同じ属性が父にも当てはまり、その逆もまた然りですが、父は別個の区別を維持しています。
父親は決してキリストとは呼ばれません。
父親は決してイエス・キリストとは呼ばれません。
そして、父親は決してイエスとは呼ばれません。
父なるイエス、子なるイエス、聖霊なるイエスをイエスにしようとする人々は、神のみことばを学ぼうともせず、信じようともしません。
そして、父なる神とイエス・キリストを別の神としようとする人々も同じ船に乗っているのです。
ボートの反対側で、ボートは沈んでいます。
三位一体は、あなたが栄光のうちに主にお会いするまで、謎のままです。
しかし、だからといって信じてはいけないということではありません。
理解できないということではありません。
それは神様の言葉です。みことばの教えであり、みことばに書かれていることです。
父なる神の永遠性、全知全能、聖性、真理、憐れみ、交わりを表す属性は、イエス・キリストと聖霊に帰属します。
また、イエス・キリストの永遠性、全能性、全知性、全存在、聖性、真理、憐れみ、交わりの属性は、父なる神にも帰属します。
イエス・キリストがバプテスマを受けたとき、彼は水の中から息子として上がり、鳩の姿をした聖霊が天から下ってきて、上の父が言われました。
これはわたしの愛する子。(マタイ3:17)
さて、結論です。
私たちは、個人には肉体と魂と霊があるように、父と子と聖霊の神様は三位一体の神格のメンバーであると理解しています。
個人の身体は、見ることのできる主イエス・キリストの息子の絵です。
個人の魂は、見ることも感じることも聞くこともできない父なる神様の絵です。
そして個々の霊は、人間が神にかたどって造られた聖霊の型なのです。
今、あなたは誰かがこれを手に入れるかもしれないと考えています。
もし私が皆さんの前に立って、私を見た者はペテロを見たと言えば、皆さんは私を信じるでしょう。
でも、もし私が振り返って、ペテロを見た人は一人もいないと言ったら、矛盾していると思うでしょう。
そうでしょう?
しかし、問題の真実は、キリストがこう言われたことなのです。
私を見た者は、父を見たのです。
そして振り返ってこう言うんです。
神様を見たことのある人はいません。
彼は真実を語っており、矛盾はあなたの頭の中にあるのです。
この地球上で私の写真を撮ったり、一緒に食事をしたことのある人は誰もいないでしょう。
私の魂の感覚において、ピーターに会ったことのある人はいません。
私の魂にとって、私の中にある私の肉体の形は目に見えません。
しかし、私を見た者はペテロを見たのです。
なぜかって?私の体を見たでしょう?
私の魂は誰も見たことがありませんが、私の体を見た人は私を見たことになります。
もうお分かりですね。
それが三位一体を理解する秘訣だからです。
もし人が神にかたどって造られたのなら、神の像は三位一体の像でなければなりません。
それを避ける方法はありません。
今なら言えます。
私の肉体はビルであり、魂はビルであり、精神はビルです。
そうかもしれませんね。
父なる神様には当てはまりません。
神様の体はイエス・キリストです。
聖書にはこうあります。
主は、前もって知っておられた者を、御子のかたちに造り変えるように定められました。(ローマ8:29)
神のみからだは、イエス・キリストです。
聖書には、イエス・キリストは神様の似姿であると書かれています。
神のかたちであるキリスト。(第二コリント4:4)
ですから、この地上に現れた神様は主イエス・キリストです。
彼の最初の称号である主は、主でもある父なる神様と一致します。
彼の2つ目の肩書きは、イエスという人間特有のものです。
そして3つ目のタイトルは、クリストスやメシアが油を注がれた聖霊の働きを示しています。
ですから、私たちは主イエス・キリストの名前そのものに三位一体を見るのです。
彼のファーストネームである "Lord "は、彼が父なる神様と同等であることを示しています。
イエスというセカンドネームは、彼が人間の男であること、人間の女から生まれた人間の子であること、神様の息子であることを示しています。
そして3つ目のタイトルは、イスラエルに油を注がれたメシアとして、聖霊によって誕生したことを示しています。
決して同じではありませんが、対等です。
神様の言葉で人々が荒れるのはそこなんです。
聖書の教義は平等ですが、別々です。
これが三位一体に関する聖書の基本教義です。
それでも十分でないのなら、それは聖書の基本的な教義です。
あなたが死ぬと、あなたの魂は肉体を離れます。
とジェームス。
霊のない肉体は死んでいます。(ヤコブ2:26)
パウロはこう言っています。
私の旅立ちの時は近づいています。(2テモテ4:6)
そして創世記35章には、ラケルが死んだとき、彼女の魂は旅立った、と書かれています。
したがって、それらを区別することなく同じものだと教え、さまざまな不一致を気にすることなく無差別に混ぜ合わせ、統合することは、人生哲学、宇宙哲学、そして真理に対する聖書的なアプローチではありません。
三位一体に対する聖書のアプローチは、別々の区別を持つ平等なものです。
そしてその限りにおいて、それは他の何に対しても聖書のアプローチなのです。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つなのです。(ガラテヤ3:28)
対等です。
しかし、両者は明らかに別個の物理的な創造物です。
聖書は三位一体の神格を教えています。
あなたの魂に代表される父なる神様で構成されています。
あなたの体に代表される息子。
そして、あなたの霊に代表される聖霊。
聖霊は父と子から生じます。
息子は父によって再生され、生まれ、生み出されます。
父なる神、創造主、旧約聖書のエホバは、神の子としてこの肉体に現れ、イエス・キリストとしてその肉体に現れました。
この方のうちに、神の全存在が肉体的に宿っています。(コロサイ2:9)
クリスチャンが信じるべきことを信じるとき、神様は光栄に思われ、祝福されます。
ですから、この偉大な神様を礼拝しましょう。
私たちよりも優れているこの方。
この偉大なものはアルファでありオメガであり、始まりであり終わりです。
3つの異なる方法で自らを現すことができる全能者。
宇宙を支える永遠の精神として。
栄光に輝く永遠の霊として、すべての被造物を支え、支え、人のすべての思いを知っておられます。
私たちが苦しむように苦しむことができ、私たちが誘惑されるように誘惑され、私たちが死ぬように死ぬことができ、私たちが血を流すように血を流すことができます。
そして、地面の穴に葬られ、兄弟たちと同じようにされることが、すべてにおいて彼にふさわしいことでした。誘惑を受け、苦しみを受け、人として死ぬためです。そして、神様の恵みによって、すべての人のために死に直面し、罪人の身代わりとなって、私たち哀れな罪人を救ってくださったのです。
そして、汚れた堕落した暗黒の体、つまり聖なる霊の神殿である器に神の風の息吹を吹き込み、その神殿を清め、一掃し、掃除することができるのも神様なのです。
そして、その人を再生させ、新しい命と新生を与え、キリストの体に入れ、主イエス・キリストの姿に適合させるために、その人の永遠の行き先を確かなものにするのです。
すべての真理を教え導いてくださる神様の聖霊とともに、ご自身を現すことのできる方。
聖なる神々が聖霊に動かされるままに語った神の言葉を、誰が霊感したのでしょうか。
神様である御自身が息を吹き込まれ、守ってこられた聖句を、今日も私たちに与えてくださっているのです。
聖霊は、私たちをすべての真理へと導き、来るべきものを示してくださいます。
キリストを賛美し、聖霊のことではなく、イエス・キリストご自身のことを語る聖霊。
あの方を拝みましょう。
三位一体の神様に感謝しましょう。
父と子と聖霊。
救われている私たちのために、彼らが個人的にしてくださったことのために。そして、キリストの体が捕らえられ、大艱難が始まった後、この世界が崩壊し、恐怖の巣窟となるのを防ぐために、彼らが今、この世界で行っていることです。
では、来週の同じ時間まで。
神様があなたを祝福し、みことばに留まらせ、みことばを熱心に学ぶ者としてくださいますように。
さて、次回のレッスンは来週、神様のお名前について学びます。神様の父性。そして神の沈黙と呼ばれるもの、それは人を信仰によって生かすものです。
来週の同じ時間まで。
主の祝福がありますように。