ウェブ神学セミナー:第12部
2023年12月17日
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神様のみことばを学ぶ学生、教師の皆さん、おはようございます。
今、神学セミナーの第12課です。
第12課では、もちろんまだ神学を扱っており、父なる神様について学んでいます。
今回が父なる神様についての最後のセッションになります。
このセッションでは、主を畏れるというテーマについて学びます。
そして、今日のセッションはこの学びの結論で終わり、来週はキリスト論を取り上げます。
次の34レッスンはキリスト論、つまりキリストについて学びます。
その後、気学、つまり聖霊について学びます。
人間学、人間について。
天使論と悪魔論。
そしてもちろん、救済の教理であるソテリオロジーについてのメッセージもあります。
私たちは、カイパー・ダブニー・ハードシェッド・ルイス・ペリー・シェーファーや古典的な神学者であるカルヴァンとオーギュスティーヌの教義神学と体系神学から概略を学んでいます。
もちろん、この放送の違いは、私たちが神のみことばに厳格に忠実であるということです。
そして、これらの神学者たちが神のみことばを堕落させたり、訂正したりしているのに対して、私たちはごく自然に交わり、訂正しているのです。
今週のレッスンは、神様を畏れることについての続きで、神様を畏れる動機について簡単に説明します。
神様を恐れることの結果、そして主を恐れることがなぜ必要なのか。
神様を畏れることは命じられていることであり、主を畏れることについて説明しました。
さて、神様の神聖さは私たちに神様を恐れさせるはずです。
精神科医や精神を病んでいる人たちは、恐れを不健全な動機としていますが、それはその人たち自身が精神的に不健全だからです。
精神科医や恐怖を取り除くことを勧める人たちは、生命保険をかけています。
だから、そもそも偽善的なんです。
ルーズベルトが言っていたように、「恐怖そのもの以外、恐れるものは何もない」のです。
それはむしろ、精神的にバランスを崩しているか、偽善者そのものの話です。
あなた方は生命保険や健康保険に加入しています。赤十字や青十字の衝突責任火災保険、そして社会保障に加入している人もいるでしょう。そうでしょう?
そうでしょう。
だから恐怖が不健康な動機だなんて戯言は、二枚舌の偽善者の言うこと。
何の意味もありません。
恐怖が不健康な動機だとしたら、医者や弁護士の95%は頭が病んでいるのと同じです。
しかし、本当は恐怖はとても健全な動機なのです。
実際、交差点で赤信号になることを恐れるからこそ、生きていられるのです。
宗教の領域に入ると、モダニストやリベラル派は自分が地獄に落ちることを死ぬほど恐れています。
だから地獄をなかったことにしようとしたり、神様を嘘つきにしようとしたりします。
突然、人間を恐れ、死を恐れ、病気を恐れ、貧困を恐れるのはいいが、神様を恐れるのは汚い罪だ、という病的な考えを持つようになるのです。
聖書にはこうあります。
主を恐れることは知恵の初めである」と。
主を恐れることは、信者の宝です。
主を恐れることは命の泉。
主を畏れる心は清く、永遠に続きます。
黙示録15:4にはこうあります。
主よ、あなたを畏れない者があろうか。あなたの御名をあがめよ。あなただけが聖なる方だからです。
多くの人が神様を恐れないのは、彼らの神様が汚れた神様だからです。
庶民の神様は、ある意味クズそのもの。
怖がる必要はありません。
キスをしたり、手を差し伸べたり。あるいは手を差し伸べに来るでしょう
そしてもちろん、これは聖書の神様ではありません。
父なる神についての記述の中で神学的な事柄について述べてきました。
神様は全知全能の全知全能の存在であり、すべてを見通すことができ、すべてを貫き、永遠に自己存在し、無限であり、不変の存在であることを私たちは理解してきました。
そのような神様は恐れられるべき存在です。
神様の偉大さに恐れました。
申命記10:12と10:17にはこうあります。
さて、イスラエルよ、あなたの神、主はあなたに何を求めますか。ただ、あなたの神、主を畏れることです。
あなたの神、主は神々の神様だからです。
私たちの神様は神々の神様です。
だから、木星やゼウスやアポロやミスラやヴィーナスやディアーナやアドニスやアスタルテやすべての子猫のことは心配しないでください。
私たちの神様は神々の神様です。
宇宙飛行士も、空飛ぶ円盤も、エゼキエル書1章にあるようなふりをして降りてくるものも、気にしないでください。
そんなことは気にしないでください。
私たちの神様は神々の神様であり、主の主です。
強大で恐ろしい偉大な神様。
それだけではありません。神様の優しさが、私たちに神様を恐れさせるのです。
とサミュエル。
ただ主を畏れ、真心をもって主に仕えなさい。主があなたがたのために、どれほど偉大なことをしてくださったかを考えなさい。(サムエル記上12章24節)
神のいつくしみは、人を恐れに導きます。もし神様が、そのいつくしみに値しない人に対しても、そのようにいつくしむことがおできになるのなら、間違いありません。
それなら確かに、神には遅かれ早かれ現れるもう一つの面があります。
パウロは言います。
見よ、神様の優しさを。
そして同じ文章で彼はこう言っています。
それゆえ、神のいつくしみと厳しさとを見なさい。(ローマ11:22)
神様の赦しによって、私たちは神様を恐れなければなりません。 とデビッド。
しかし、あなたには赦しがあります。(詩篇130篇4節)
ヨシュアは主の仕事を振り返ってこう言います。
神様がイスラエル国民になさったこれらの不思議な御業は、彼らに神様を恐れさせるはずです。
黙示録にはこう書かれています。
神様を恐れ、栄光をお返ししなさい。その裁きの時が来たからです。(黙示録14:7)
もちろん、これをお聞きの皆さんの多くが神様をまったく恐れていないことは承知しています。
あなた方は男性を恐れている人たちです。
そして、昔から言われていることは本当です。
人が神様を恐れるところでは、人はあまり気にしませんし、人が人を恐れるところでは、人は神様を恐れません。
それがルールです。
神様を恐れなくなったからです。
そして神様を恐れる代わりに、ロシアと中国を恐れるでしょう。
第2次世界大戦のように、彼らはドイツを恐れていました。
アメリカはオレゴン州ほどの大きさもない国を恐れていました。
想像できますか?
ロシアやイギリスと同盟を結んでいる48の州が、1州にも満たない規模の国を恐れているなんて想像できますか?
神様を恐れないところには、人間を恐れるものがあります。
神様を恐れず、人を恐れず。
殉教者たちが火あぶりの刑に処せられて笑い、火あぶりに接吻し、苦しめる者たちや捕らわれた者たちのために祈ることを可能にしたもの。
神様を恐れていたことです。
主を畏れることは必要です。
礼拝には必要なことです。
詩篇5:7。
あなたの恐れの中で、私は礼拝します。
サービスには必要なものです。
詩篇2:11。
恐れて主に仕え、震えて喜びなさい。
それは私たちを罪から守るために必要なことです。
出エジプト記20章20節にはこうあります。
恐れることはありません。神様はあなたがたを証明するために来られたのですから。あなたがたが罪を犯さないように。
救われていない長老、司教、助祭、枢機卿、庶民には決して理解できない、この明白な矛盾に気づいてください。
恐れることはありません。神様はあなたがたを証明するために来られたのです。
救われていない、再生していない宗教指導者は、なぜ恐れることはないと言いながら、恐れるというのでしょうか?
聖書には、完全な愛は恐れを追い払うと書いてあるでしょ?
はい。
ではなぜ、恐れおののきながら、自分の救いを成し遂げなさいと書いてあるのですか?
聖書にはこう書かれています。
神様は私たちに恐れの霊をお与えになりませんでした。しかし、力と、愛と、健全な心とからです。(2テモテ1:7)
では、なぜ彼はこう言うのでしょう。
敬虔と神への畏れをもって、神に仕えなさい。私たちの神様は焼き尽くす火だからです。(ヘブル12:28-29)。
なぜかというと、救われていれば、それはとても簡単なことだからです。
さて、もしあなたのことをよく言う人が大勢いたら。
では、理解するのはかなり難しいですね。
しかし、もしあなたが聖霊の宿る救われた人であり、聖霊によって書かれ、保存された聖書を持っているならば。
とてもシンプルです。
良き父を持つ者は、父を恐れ、同時に父を愛します。
もしそうでなかったら、貧しい父親を持ったか、パンクな子供だったかのどちらかでしょう。
良い父親と良い母親を持った人で、この文章を理解していない人はいません。
親を愛し、同時に親を恐れることができることを理解しているのです。
もしそれが理解できないなら、まともな教育を受けていないのでしょう。
そして、あなたがそれを食べたことがあろうとなかろうと、私を信じてください。
とおっしゃったお父さん神様。
父がその子を憐れむように、主もご自分を恐れる者を憐れんでくださいます。(詩篇103:13)。
母が慰める者のように、わたしもあなたがたを慰めます。(イザヤ66:13)
神様はご両親のような過ちは犯しません。
キリストは言われました。
もし、あなたがたが悪人であっても、自分の子供たちに良い贈り物をする方法を知っているならば。天におられるあなたがたの父は、願い求める者に、どんなに良いものをお与えになることでしょう。(マタイ7:11)。
もし、あなたが正しい教育を受けていないのであれば、私にそれを思い出させないでください。
あなたは今、正しい教育を受けることができます。
でも、そのためにはお父さんに神様が必要でしょう。
良い政治を行うためには、主を畏れることが必要です。
とデビッド。
人を治める者は、神を畏れて治め、公正でなければなりません。(サムエル記下23章3節)
大統領であれ、王であれ、知事であれ、神様を畏れない人は忌むべき存在であり、その職に就く資格はありません。
神様を畏れない人間に、人に指図する権利があるでしょうか?
しかし、票と政治家とインフレと失業を恐れているだけです。
神様を畏れる人は、自分の発言に気をつけます。
神を畏れる人は、神様と神様の言葉をどのように扱うかに注意します。
神を畏れる人は、教会から言われたことをするのではなく、神様から言われたことをします。
神様を敬う人は、宗教指導者に宗教政策を指図させたりはしません。
彼は規則に従うでしょう
神様を敬う人が必要です。
神様を畏れない人は、物事をめちゃくちゃにしますよ。
神様を畏れることは、正義を行うために必要なことです。
神様を畏れることは、クリスチャン生活において聖さを完成させるために必要です。
パウロは言います。
恐れおののきながら、自分自身の救いを実現しなさい。(ピリピ2:12)
今、彼はあなたが救われるために働けるとは言っていません。
それをやり遂げなさい頑張れとは言っていません。
神様が働きかけてくださったものを働かせなさいと。
恐れおののきながら、自分の救いを実現しなさい。あなたがたのうちに働くのは神様だからです。(ピリピ2:12-13)
さて、最後に主を畏れることの結果とは何でしょうか。
救われていない人々がとても恐れ、ノイローゼや精神病になるこの主への恐れ。
そして、世界は彼らでいっぱい。
その結果は?
つまり、聖書にあるように神様を恐れている人は、精神病なのでしょうか?
彼は精神病院の候補者ですか?
主を畏れることの結果とは。
そのことを考えたことはありますか?
神様を畏れる人がもたらす10の結果があります。
その第一は、人が知恵を得ることです。
主を畏れることは知恵の初め。(箴言9:10)
もしあなたが、この世のどんなものよりも、より多くの問題、より多くの筋、より多くの悲しみ、より多くの頭痛、より多くの心痛からあなたを守るものを知りたければ、それは神様を恐れる単純で清らかな忍耐です。
第二に、それは主に喜びをもたらします。
聖書は詩篇147篇11節でこう言っています。
主は御自分を恐れる者、御自分の憐れみを望む者を喜ばれます。
第三に、主の憐れみが神の子の上に増すことを呼びかけました。
聖書にはこうあります。
父がその子を憐れむように、主もご自分を恐れる者を憐れんでくださいます。(詩篇103:13)。
神様から受け入れられるのです。
使徒の働き10章35節で、ペテロはこう言いました。
どの国においても、彼を畏れ、義を行う者は、彼に受け入れられるのです。
このケースは、自分の良心に従った救われていない異邦人でした。
そして、彼は救われておらず、救われるためには福音を聞く必要があったのです。
神様を恐れ、良心に従ったからです。
神様は彼に福音を伝え、宣教師として遣わされました。
そして、コルネリオは福音を信じて生まれ変わりました。
主は、さらなる光を求めるコルネリオの祈りを受け入れ、彼にさらなる真理の光を与えられました。
彼を恐れていたからです。
神様の慈悲をもたらします。
詩篇103編17節にはこうあります。
しかし、主のいつくしみは、主を恐れる者の上に、とこしえからとこしえまであります。
それは祝福をもたらします。
詩篇112篇1節にはこうあります。
主を畏れる者は幸いです。
何か言いたいことは?
聖書にはこうあります。
主を畏れる者は幸いです。
どうですか?
いつも山上の垂訓を引用して、自分には良識があると思い込んでいる人たちがいるようにね。
そして語ること。私は大丈夫、あなたも大丈夫、私たちはみんな大丈夫。
人生は美しい。
どうしていつも、清い心を祝福し、柔和な人を祝福すると言っているのに、"主を畏れる者は幸いである "と読まないのですか?
ちょっとアンバランスじゃない?
山上の垂訓の拍手を引用しておきながら、詩篇112篇1節の拍手を忘れているとは何事ですか。
聖書には書いてありません。
「神様が何でも我慢してくださると思う人は幸いです」。
聖書には書いてありません。
「ポジティブな思考をする人は祝福される」。
聖書には書いてありません。
「いつも美しいことを考えている人は幸いです」。
聖書にはこうあります。
主を畏れる者は幸いです。
主を畏れる結果は、自信をもたらします。
箴言14章26節にはこうあります。
主を畏れることは、強い確信です。
箴言16章6節にはこうあります。
主を畏れることによって、人は悪から離れます。
現代は神様を恐れることが少ないので、悪があふれています。
それだけです。
あなたは世界の問題を一行にまとめています。
テレビドラマを書く人たちは神様を恐れません。
ポルノ雑誌を発行している人たちは神様を恐れていません。
支配している政府高官たちは、自分たちの職を失うことを心配しているのであって、神様が自分たちのことをどう思っているかなど心配していません。
それだけです。
神様を恐れなくなったら、国は滅びます。
主を畏れることによって、人は悪から離れます。
では、誰が悪から離れようとしているのですか?
悪は善であり、善は悪である、すべては相対的なものであり、見方次第である、と言いながら、彼らはそれを続け、国の政府が沈んでいるところを突き進んでいくのです。
そんなこともわからないの?
聖書にはこうあります。
悪しき者は地獄に落ち、神様を忘れた国々はみな地獄に落ちるでしょう。(詩篇9:17)。
聖書にはこうあります。
義は国を高めるが、罪はどの民にとっても非難となる。(箴言14:34)
聖書にはこうあります。
主が家を建てられるのでなければ、それを建てる者の労苦はむなしい。主が町を守ってくださらなければ、見張り番は目を覚ましても無駄です。(詩篇127:1)。
それは家庭だけでなく、国家や教会、学校にも言えることです。
今、私が話しているのはひどいことだと分かっています。
非常に残酷な事実であることは承知していますが、他の伝道者たちから穏やかな改革の中で直接聞いたことがあるはずです。
しかし、伝道師が神様を恐れなくなった国はどうなると思いますか?
それは考えものですね。
悪いことをしたい人たちが集まり、その人たちを恐れ、何が悪いのかを伝えることを恐れている男の話を聞いている国がどうなると思いますか?
神を恐れず、神を恐れるよりも信徒を恐れているからです。
今、その教会が混乱していることを知らないの?
何が問題なのかを推測するのは難しいことではありません。
全然難しくないですよ。
もし説教者たちが神様をあまり恐れないのなら、聖書の一節ごとに聖書を変え、20年の教育を受けているから聖書を変えられるほど賢いと思っているのでしょう。
彼らの信徒はどうすると思いますか?
では、お聞きします。
もし説教者たちが神への畏れをほとんど持っていないのであれば、彼らは神の言葉で和らげることをためらわないでしょう。
どのような信徒が生まれると思いますか?
神様を恐れる正しい信徒?いいえ!
年収が10万ドルもあるから自分は知的だと思い込んでいる人たちを生み出すことになるのです。
主を畏れることは知恵の初めです。
大学教育ではありません。
主を畏れることによって、人は悪から離れるのです。
なぜ息子たちの何人かは、束縛の鎖を捨てて地獄に堕ちないのか分かりますか?
パパに何かされるんじゃないかって、まだ怖がってる子もいるから。
ご存知ですか?
私が今話している人に会いたい人もいるでしょう。
息子はあなたより分別があるんでしょう?
息子さんは、襟を正したり、少なくともごまかしたり、嘘をついたりしなければ、車を取り上げられたり、免許を買ってもらえなくなったり、ガソリン代をもらえなくなったりすることを恐れているのです。
恐怖は健全な動機です。
あなたを恐れていなければ、息子は多くのトラブルに巻き込まれるでしょう。
それなのに、私が話している人の中には神様を恐れない人もいるんですよ。
拘束を解いたら、息子さんが巻き込まれるようなトラブルに巻き込まれるだけですよ。
さて、ここで現代の教育システムの問題が浮かび上がってきます。
そして現代の教育者たちは、行動主義心理学と呼んでいます。
それについてはあまり時間がありません。
でも、長いようで短い。
トレーニングと教育については、基本的に2つの哲学があります。
現代的なものと古いもの。
古い教育システム、それは哲学教育です。
私たちが教育理念と呼ぶものは、子供は手に負えないというものでした。
そして生まれつき悪さをする傾向があり、それを抑えなければなりません。
その教師が人間の堕落や新生や聖書の必要性を信じていたかどうかは、この議論の時点では重要ではありません。
というのも、私たちは教育に対するアプローチについて話しているのであって、教師がクリスチャンでなければならないと言っているわけではないからです。
先生は無神論者かもしれないし、不可知論者かもしれないし、ローマ・カトリックかもしれないし、ユダヤ教徒かもしれません。
宗教的な嗜好の話ではありません。
私が言っているのは、教育に対する2つの基本的な姿勢についてです。
旧体制では、子どもは生まれながらにして悪に傾くのが当然とされていました。
それゆえ、子供は悪から抑制され、防止されるべきであり、正しいことをするよう奨励され、悪いことをしたら罰せられるよう誘導されるべきです。
さて、1920年代から1930年代にかけて生まれ、1950年代から1960年代にかけて花開いた近代的な教育システムとは、簡単に言えばこういうものでした。
人は基本的に善であるという教えです。
今の制度では、子供は基本的に善良であると信じられています。
その拘束を解いて、子供の自然な屈伸を促すべきです。
そして、悪を罰するのではなく、何が善で何が悪なのか、子供が自分で考えるように教えるべきです。
悪は善であり、善は悪であると決めたとしても、それがその子にとってうまくいくのであれば、それでいいのです。
カリキュラムではこれを「価値観の明確化」と呼んでいます。
これは地獄の別の綴り方です。
そして、それは単にあなたが正義の基準を覆し、あなた自身の基準を設定することを意味します。
教養のある人というのは、いつの時代も、ありのままを伝える術を持っているものです。
そして、生来の能力と潜在的な可能性について語り、異質な影響力と自律性の間の壁を越える、意味のある無関係な象徴主義との対話の中で、民族的なコミュニケーションを検証することによって。
そういうゴミを与えることで、何か起こっていないことが起こっていると思わせているのです。
わかりました。
主を畏れることの結果は悪から離れることであり、主を畏れないところには悪から離れることはありません。
人は神様を恐れるところでは悪から離れ、そうでないところでは悪から離れないというのが真実です。
神様を恐れない人がいる町では、あなたの子供も安全ではないでしょう。
もしあなたの町から主を恐れる心が完全に失われてしまったら、あなたの町は安全に暮らせなくなるでしょう。
科学的な法則についての意見を言っているのではありません。
信じられないのなら、神様を恐れない地域に滞在して、自分の身に何が起こるか見てみればいいのです。
たいていの人はもっと分別があるから、引っ越しますよ。
わかりました。
主を畏れることは、クリスチャンの交わりをもたらします。
マラキは言いました。
そこで主を畏れる者たちは、互いによく語り合いました。主はそれを聞かれました。(マラキ3:16)
それは人間に対する恐れに勝るものです。主は言われました。
彼らの恐れを恐れず、恐れないように。万軍の主を聖別し、彼をあなたの恐れとしなさい。(イザヤ8:13)
怖がるのはやめなさい。
神様を恐れなさい。
家族よりも神様を第一に考えてください。
新聞ではなく、神様の言葉を第一に考えましょう。
神様を第一に。
と言うと、彼はこう言いました。
彼をあなたの恐怖にしてください。
意見を恐れたければ、神様があなたのことをどう思っているかを恐れなさい。
ゴシップを恐れたければ、神様が栄光の中であなたについて言われることを恐れてください。
人に従わなかったらどうなるかと恐れるなら、神様に従わなかったらどうされるかと恐れることから始めなさい。
主を恐れることは健全なことであり、清いことであり、良いことであり、永続することです。
それはポジティブなことで、あなたが手にしたものの中で最もポジティブなものです。
なぜなら、ついに祈りが通じたからです。
詩篇145:19にはこうあります。
主は、主を恐れる者たちの願いをかなえてくださいます。主はまた、彼らの叫びを聞き、彼らを救われます。
でも、それだけではありません。
もしあなたがただの肉欲的な人なら、その最たるものが主を恐れる日々を長引かせることです。箴言10章27節
主を畏れることは日を延ばし、悪しき者の年は短くなります。
長寿をもたらします。
これが主を畏れることの11か12の結果です。
それは主に喜びをもたらします。
それは知恵をもたらします。
それは主の憐れみを増大させます。
神様から受け入れられるのです。
神様の慈悲をもたらします。
祝福と自信をもたらします。
悪からの分離。
クリスチャンの交わり
それは人間に対する恐れを取り除くものです。
それは祈りの答えをもたらします。
そして、あなたの寿命を延ばします。
さて、私の親愛なる友人たちよ、これ以上何を望むのですか?
お金のことですね。
まあ、祈りに応えてもらい、長生きして、神の憐れみと知恵の祝福を得れば、神様が意図されたお金をすべて稼ぐことができますよ。
ですから、神様が私たちに神様を恐れることを教えてくださるように祈るべきです。
とデビッド。
主よ、あなたの道を教えてください。私はあなたの真理に歩み、あなたの御名を畏れるように心を合わせます。(詩篇86:11)
主を畏れることは、今日の地球上で最も健全な動機です。
ピリピの信徒への手紙4章に書かれているプラス思考は、生まれ変わった信者の祈りの生活のためのものです。
主を畏れることは、救われた人であれ、失われた人であれ、どんな立場の人であれ。性別も人種も問いません。
わかりました。
私たちは神学、つまり神様を研究する授業に信頼を置いています。
あなたにとって祝福でした。
来週の同じ時間に、キリスト論と呼ばれるものを学びます。
キリスト論は、ごく自然に、子である主イエス・キリストの人とわざを扱います。
さて、来週はキリスト論の最初のレッスンとして、主イエス・キリストの生涯を扱った預言を取り上げます。
聖典によれば、肉において現れた神様。
では、来週の同じ時間まで。
主の祝福がありますように。