ウェブ神学セミナー:第11部
2023年12月10日
/
神様の言葉を学ぶ生徒の皆さん、先生方、おはようございます。
今週の学びは「主を畏れる」というもので、父なる神様について学ぶとても大切な学びです。
この最初のシリーズでは、父なる神様についてお話ししてきました。
神学とは神様を知る学問です。
キリスト論は息子についての教えを扱います。
そして、気学は聖霊に関する教義的な教えを扱います。
これまでの回で、私たちは神の存在と神の人格についてお話ししてきました。
神の伝達不可能な属性と伝達可能な属性について話しました。
バランスのとれた存在としての神様についてお話しました。
クリスチャンには三位一体に関するすべての文献を紹介しました。
キリスト教徒に神の名前のリストを与えました。
そして、神様の父性と沈黙について話しました。
さて、神学についての最後のレッスンでは、父なる神様について学びます。
主を畏れることについて話し合います。
そして来週からは、キリスト論、すなわち聖書の子についての教義的教えについて、34回の放送を開始します。
もちろん、神様はお一人でありながら、三位一体であられるということは、2週間前の三位一体についてのレッスンで徹底的に取り上げました。
さて、今日のレッスンは、主を畏れることについて扱います。
このテーマは過去400~500年間、人々の興味をそそるものでした。
神様の言葉を信じるなら、恐れには間違った種類と正しい種類があるようです。
聖書の貴重なメッセージのひとつに「恐れるな」という言葉があります。
この「恐れるな」という表現は50回ほど使われています。
例えば、創世記15:1で主は「恐れるな」と言われます。
創世記26:24で主は「恐れるな」と言われます。
ルカ2:10 ルカ12:32 使徒27:24 黙示録1:17。
また、主が誰かに「恐れるな」と言われるバリエーションもあります。
ヨハネ6:20のように。
私です。
しかし、救われていない人が持つべき恐怖と、救われた人が持つべき恐怖があります。
慰められ、恐れることはないと書き続けている同じ使徒が、あるとき言いました。
恐れおののきながら、自分の救いを実現しなさい。(ピリピ2:12-13)
ヨハネの第一の手紙にはこうあります。
完全な愛は恐れを追い出します。恐れる者は、愛において完全ではありません。(第1ヨハネ4:18)
ヨハネの発言の背景には、救いを失うことを心配するクリスチャンがいることを忘れてはなりません。
クリスチャンが決して気にしてはならない恐れがあるとすれば、ヘブル人への手紙3章6節と10節、あるいはペテロ第二の手紙や行伝の文脈から引用された言葉で異端者を動揺させることでしょう。
神様の民がやってはいけないことがあるとすれば。
救いを疑い、地獄に落ちることを心配する必要はないのです。
ヨハネがその手紙の中で
彼がそうであるように、この世の私たちもそうなのです。(第1ヨハネ4:17)
生まれ変わった神の子は、愛される者として受け入れられており、恐れるべきことはたくさんあるかもしれませんが、地獄に落ちることはその一つではありません。
そして、このことが神のみことばの中でいかに明確に示されていたかに注目してください。
ヨハネの手紙第一4章17節と18節に、このことがどのように書かれているかに注目してください。
ここに、私たちの愛が完全なものとなり、裁きの日に大胆さを持つことができるのです。彼がそうであるように(現在形)、私たちもこの世にいるからです。愛には恐れがありません。しかし、完全な愛は恐れを追い出します。恐れる者は、愛において完全ではありません。
現在、TMや超越論的ユニタリアン、仏教徒、半仏教徒、似非ヒンズー教徒は、恐怖は不健康な動機であり、否定的なものであることを証明するために、これらの聖句を取り上げています。
ですから、神様と接することは、どのようなことであっても許されることではありません。
そしてもちろん、これは神様を嘘つきにすることによってもたらされる間違った教えです。
聖書にはこうあります。
主を畏れることは知恵の初め。(箴言9:10)
聖書はヨブ記28章28節でこう言っています。
主を畏れること、それは知恵です。
第二サムエル記23章3節にはこうあります。
人を治める者は、神を畏れ治める正しい者でなければなりません。
そして、このヨハネの手紙第一の一節を曲解する人々の際立った特徴は、愛ばかりを教え、恐れを知らないことです。
ローマ人への手紙3章18節に、彼らの際立った特徴はこう書かれています。
彼らの目の前には神様を恐れる気持ちはありません。
つまり、ある種の恐れは非常に健全であるというのが、神のみことばの教義的な教えなのです。
救われた人、救われていない人。
神様を恐れている救われていない人は、神様に打ちのめされるようなチャンスは掴みません。
主を畏れる救われた人は、自分の証や宣教を台無しにしたり、自分の人生を短くしてしまったり、自分の有用性を減らしてしまうようなチャンスは掴みません。
パウロが生まれ変わった神様の子供に言うとき。
恐れおののきながら、自分自身の救いを実現しなさい。(ピリピ2:12)
彼はこう付け加えました。
あなたがたのうちに働くのは神様だからです。(ピリピ2:13)
生まれ変わった信者には聖霊が宿っており、彼をキリストのようにし、神様が望んでおられる姿にしようとされています。
クリスチャンは自分の救いをやり遂げた方がいいのです。努力しなさいとは言っていません。
それは神様が信者の体の中で働いているからです。
今、この偉大な教義、主を畏れることは、信者がしっかりと身につけるべきことであり、絶対に確信すべきことなのです。
神様を恐れない人たちは、なぜかいつも救いを失うことを心配しているから。
そして、この一般的な表現は今でも変わりません。
神を恐れる者は人を恐れず、人を恐れる者は神様を恐れないと。
あの伝道師をぶちのめしてやる、自分が本物の無神論者だと見せつけてやる、と言って走り回る大きないじめっ子を見つけたら。もう一人は、こんな風に私に話すことはできません。
そういう男を見つけたら、相手が何だかわかりますか?
あなたは、男性にどう思われるかを気にして、男性の前で見栄を張ろうとしている男性を相手にしているのです。
彼は臆病者です。
言わせてください。
主を畏れる者は、男たちに悩まされることはありません。
一般性は本当です。
神を恐れる者は人を恐れず、人を恐れる者は神様を恐れません。
男性に見せびらかすことばかり気にしている人たちが、どこにいるんですか?
自分たちがいかにタフか、いかに賢いかを示すために。
彼らは神様を恐れず、男の評価を恐れている人たちです。
主を畏れること、神様を畏れることは、箴言14章26節から27節にあり、箴言全体を通して教えられています。
神の神聖さと義に直面したとき、人は恐れなければならないという意味です。
スコフィールド・ノートによれば、それは悪を憎む敬虔な信頼を意味するとのこと。
でも、もちろんそういう意味では全くありません。
聖書には、神様を敬うことと恐れることはまったく別のことだと書かれています。
新約聖書には、このようにはっきりと書かれています。
ヘブル人への手紙12章28節
それによって私たちは、敬虔と神への畏れをもって、神にふさわしく仕えることができるのです。
主は申命記4章10節でこう言われました。
わたしに民を集めなさい。そして、彼らが地上に住む間、わたしを恐れることを学ぶために、わたしの言葉を彼らに聞かせよう』」。
主を恐れることの本質的な点は、神様がおっしゃることに注意を払うほど神様を恐れるということです。
申命記6章13節にはこうあります。
あなたはあなたの神、主を畏れ、主に仕えなさい。
コヘレトの書の賢者は言いました。
すべての結論に耳を傾けましょう。神様を畏れ、その戒めを守りなさい。(伝道者の書12章13節)
この世界の何が問題なのか、一言でお知りになりたければ、私がお答えしましょう。
そして、少年非行、親との対立の欠如。学校での不服従や規律の欠如。あらゆる政府機関やユネスコの活動。
一言で言えば準備はいいですか?
つまり、インフレや税金、誰にとっても平等な時間など、この世界の何が問題なのかを明確にしたいのです。
それは何ですか?
簡単なことです。
世界は神様を恐れなくなりました。
1840年から1930年にかけて、救われていない人たちが、神様が自分たちに罰や怒りや懲らしめを与えることを心配していました。
今、主を知り、主が愛する者を知っているクリスチャンは、主が懲らしめます。
私たちが神様を恐れなくなると、神様が家を掃除してくださるのです。
飢えた人々を養うために大麦やトウモロコシや小麦を栽培し、それをのどに流し込んで、牛乳の価格を2倍にしたところで、その税金を2倍にすることを拒否することはできません。
そんなことをしても逃げられないでしょう。
私が話している誰も、それをやって逃げようとはしません。
逃げ切れると思っているだけでしょう。
人々は水を飲むように酒を飲み続け、麻薬をばらまき、その使用を正当化しようと考えているだけです。
各国は、そうすれば逃げ切れると思っているだけ。
彼らは何もせずに逃げるつもりはありませんよ。
その聖書にはこう書いてあります。
悪しき者は地獄に落ち、神様を忘れた国々はみな地獄に落ちるでしょう。(詩篇9:17)。
義は国を高めるが、罪はどの民にとっても非難となる。(箴言14:34)
今、あなたが恐れてはいけないことがあります。
偶像や他の神様を恐れてはいけません。
第二列王記17:38にはこうあります。
わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れず、他の神様を恐れてはなりません。
貧困や病気、教育の欠如を心配することはありません。
異教徒を恐れてはいけません。
平和と安全保障の繁栄。
人間を恐れてはいけません。
サムエルに告白したサウルの過ちは「私は民を恐れている」。
だからヘロデは洗礼者ヨハネの首を切り落としたのです。
箴言29章25節にはこうあります。
人間への恐れは罠をもたらします。
人の顔を恐れてはいけません。
とピーター。
私たちは人よりも神に従うべきです。(使徒5:29)
地上の災難を恐れてはいけないのです。
私たちはイエスを仰ぎ見るように言われています。
キリストは言われました。
肉体は殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません。むしろ、魂も肉体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)。
異教徒であるローマ人に恐怖を感じることはありません。
異教徒の無神論者を恐れる必要はありません。
私たちは賢明でなければなりません。
私たちは、こうした事柄や運動の危険性や弊害を知り、それらに抗議すべきです。
でも怖い?あなたの人生には関係ありません!
聖書にはこうあります。
主は言われました。わたしは決してあなたがたを離れず、見捨てません。(ヘブル13:5)。
ですから、私たちは大胆に言うことができます。
主はわたしの助け主、わたしは人がわたしになさることを恐れません。(ヘブル13:6)
真の信者は将来の罰を恐れません。
地獄に落ちる心配はありません。
それは、裁きの日に、私たちが大胆になるためです。(第1ヨハネ4:17)
完全な愛は恐れを追い出します。(第1ヨハネ4:18)
私たちは恐れを恐れてはいけないのです。
つまり、どこかの大統領が立ち上がって、"恐れるべき唯一のものは恐怖そのものである "と言うということです。
バカバカしい。
罪に対する神様の裁きを恐れた方がいいですよ。
救われていない人間なら、自分の神聖さを信じるのではなく、神様の神聖さを恐れた方がいいですよ。
身も心も地獄に落とすことができる者を恐れるがよい」。
怖いのは恐怖心だけ私の足を引っ張る気?
シモン・ペテロは信者についてこう言っています。
主があなたがたを顧みてくださるからです。(1ペテロ5:7)
残る恐怖はただ一つ、主なる神様ご自身に対する聖なる恐怖だけです。
誰かが言いました。あなたはこの人たちを動揺させ、神様を恐れるように教え、神への恐れを植え付けているのです」。
神様を恐れることは、人生で最も健全な恐れです。
車の事故が怖いという人もいるでしょう。
自賠責保険の衝突保険に加入しているのですね。
イエスですか、ノーですか?
病気になるのが怖い人もいるんじゃないの?
実は、皆さんの中には年を取ることを恐れている人がいます。
ガンを恐れている人もいるでしょう。
白血病を恐れている人もいるでしょう。
昇給を恐れている人もいるでしょう。
解雇されることを恐れている人もいるでしょう。
イエスかノーか?
しかし、どうして主を恐れることを見逃してしまったのですか?
恐怖は不健全な動機であり、持つべきでないものだと、どうして私に言えるのでしょうか。
星々を宇宙に投げ出した聖なるお方を恐れないと言うのですか?
銀河や星雲や星団を創造した人。
あなたの体を作り、生きるための命と息を与え、今日まであなたを養ってくださった方。
そしてあなたがたを幾千回も慈しみ、あらゆる災難や悩みから救い出して下さいました。
怖くないんですか?
でも、ガンは怖いでしょう?
申命記13章4節にこうあります。
あなたがたは、あなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守りなさい。そしてその御声に従い、彼に仕えなさい。
シモン・ペテロは第一ペテロ2:17でクリスチャンにこう言っています。
すべての人を敬いなさい。兄弟愛を愛しなさい。神様を畏れなさい。王を敬え
とデビッド。
主を畏れる者よ、主をほめたたえよ。主をあがめ、主を畏れなさい。(詩篇22:23)。
使徒言行録9章31節には、恵みの下にある新約聖書のクリスチャンについてこう書かれています。
彼らは主を恐れて歩み、増えました。
コルネリウスは神様を恐れる人であったと言われています(使徒10:2)。
神を畏れる敬虔な人。
また、コリントの信徒への手紙第二7章1節には、神様を畏れることは、慎み深く生きることを教えているとあります。
私たちは、神様を畏れ、肉と霊のあらゆる汚れから身を清め、聖さを完成させましょう。
神様を恐れない人はクリスチャンではありませんし、神様を恐れない人は良識がありません。
それ以外では、彼は非常に高学歴の宗教家かもしれません。
さて、主を畏れるとは具体的にどのようなことでしょうか。
まあ、定義によればね。間違いのないように、この参考文献を書き留めておいてください。
あなたは神のみことばに立ち返り、主を畏れるとはどういうことかを他の人に示すことができます。
聖霊が主を畏れることを定義し、それが何であるかを教えているのです。
さて、パウロは当時の欺かれたクリスチャンたちにこう言っていました。
彼は言いました。
もし、自分を預言者、あるいは霊的な者だと思う者があれば、その人は、私があなたがたに書いていることが主の戒めであることを認めなさい。(1コリント14:37)
そして、今日のセッションでの私の発言について、もしどなたかが私の頭の中で話しているだけだと思われるなら、こう申し上げておきます。
私の個人的な解釈を教えたり、どこかの宗派の教えを教えたり。
理解してほしいのです。これから引用する聖句は、今議論しているテーマについて与えられた聖霊による定義です。
その1。
箴言8:13。
主を畏れることは...
詩篇111篇10節
主を畏れることは...
イザヤ書33章6節
主を畏れることは...
箴言14:27。
主を畏れることは...
主を畏れるとは?
では、また戻って完成させます。
私は自分の考えを言うつもりはありません。
聖書の教えを語るつもりはありません。
このセッションでの私たちの仕事は、聖書が自分自身について何を語っているかをお伝えすることです。
そして、「主を畏れる」という表現について議論しているのですから、これは聖書的な表現です。
ヨブ記28章28節
主を畏れること、それは知恵です。
私たちは、聖書が言う主を畏れるとは何かを見ていきます。
準備はいいですか?
わかりました。
その1。主を恐れるとは、悪を憎むことです。
箴言8:13。
主を畏れるとは、悪を憎むことです。
悪と善が同じであるとか、善が悪であるとか、悪が善であると考えるなら。
あるいは、悪など存在しないと考える人たちも、法律は見方次第です。
何が問題かわかりますか?
目の前に神様への恐れはありません。
善と悪の区別がつかないなら、どうやって悪を憎むの?
主を畏れるとは、悪を憎むことです。
それが聖霊の定義です。
その2。
詩篇111篇10節
主を畏れることは知恵の初めです。
知恵は大学教育から始まるものではありません。
知恵は高校教育から始まるものではありません。
知恵は古典文学の大きな棚から始まるのではありません。
知恵は物理学の専攻から始まるものではありません。
知恵はアインシュタインの相対性理論を理解することから始まるのではありません。
主を畏れることは知恵の初めです。
そして言わせてください。
神様を恐れる方法を学ぶまでは、何も学んでいないのです。
人が賢くなり始める時とは、神様を恐れることを学び始める時です。
その3。
箴言15:16。
主を畏れることは、大きな財宝とそれに伴う苦労にまさるものではありません。
イザヤ書33章6節
主を畏れる心は彼の宝。
主を恐れることは、銀や金よりも価値があることです。 なぜなら、銀や金では逃れられないようなトラブルからあなたを守ることができるからです。
パウロが新約聖書のクリスチャンにこう言ったとき。
神様は侮られません。人が蒔くものは何でも、その人もまた刈り取るからです。(ガラテヤ6:7)
神様を恐れなければ、人は何でもできるということを警告しているのです。
お金で解決できないこと。
私の親友の一人は、救われる前に15年間ハイウェイのパトロールをしていて、パトロールを辞めて牧師になりました。
つい3週間前、彼が私に言ったことはご存じでしょう。
彼は言いました。ハイウェイのパトロール隊員として、あるルートを担当していたときのことです。
私のあるルートでは、15年以内に5人の自殺未遂者に遭遇しました。
テープも、一酸化炭素も、全部。
そして彼は言いました。兄さん、僕が何に感動したかわかるかな?
何だと?
彼は言いました。兄さん、あの5台は全部高級車でしたよ。
年収4万ドル以下の男なんて、一人もいなかったんですよ。
あのかわいそうな人たちの何がいけなかったのか、わかりますか?
宝物なんて持っていませんでしたよ。
箴言15:16には、主を畏れることは信者の宝であるとあります。
主を畏れることは、大きな財宝と悩みよりも、少ないほうがよい。
4番。
箴言14:27。
主を畏れることは命の泉です。
哀れなポンセ・デ・レオンは若さの泉を探しに南米に行き、沼地で首を折り、黄熱病にかかり、ハエや蚊に悩まされ、ガジュマルの木やヒノキの根っこやガムの切り株に覆われ、永遠に生きられる泉を見つけようとして、すべてを経験しました。
主を畏れることは命の泉です。
詩篇19:9にはこうあります。
主を畏れる心は清い。
トラブルに巻き込まれず、聖なるものとなります。
歩き方にも気をつけないと。
主を畏れる心は清らかです。
ダビデは詩篇19:9でこう言っています。
ダビデが主を畏れるべきであったなら。
バテシバを妻として迎え、その夫を殺すことはなかったでしょう。
ダビデがどうしてトラブルに巻き込まれたか知っていますか?神様を恐れなかったからです。
主を恐れることは否定的なことではなく、破壊的なことでもなく、損害を与えることでもありません。
罪悪感を抱くこともありません。
主を畏れる心は清く、永遠に続きます。
詩篇19:9
もっとわかりやすく言えば、精神科医や精神科医がそれについてどう考えているかは重要ではなく、議論とは関係ないということです。
神様を恐れない人は、人を恐れます。
そして最後に、パウロは言いました。
敬虔と神への畏れをもって、立派に神様に仕えることができるように、恵みをいただきましょう。(ヘブル12:28)
主を畏れることは神様を畏れることです。
尊敬と恐怖は違います。
主を畏れることは神様を畏れること。
では、私たちは主を恐れることについて何を知っているのでしょうか?
私たちは、人々が否定的なことをいくら話してもわかっています。
この人たちがどんなに罪の意識について語り、人々を動揺させ、邪魔をしようとも。
彼らがしているのは、聖霊の確信の働きを攻撃することだけです。
聖霊がこの世におられるのは、人々がキリストを信じていないために罪を犯していることを確信させるためです。
キリストを信じなければ、天国には行けません。
ですから、主を恐れることは、聖霊によって罪人にもたらされる否定的な確信なのです。
そして、神様を畏れることをやめさせようとする男の話を聞くとき、あなたは、聖霊の確信の働きを覆すことに人生を捧げている、雇われたプロフェッショナルを相手にしているのです。
聖書が教えているのですから。
主を畏れることは悪を憎むこと。
主を畏れることは知恵。
主を畏れる心は宝です。
主を畏れる心は命の泉。
主を畏れる心は清い。
主を畏れる心は永遠に続きます。
主を恐れることは、神であって、神でないものではありません。
ですから、神様を恐れない人は、悪を憎みません。彼は賢くない、彼は破産している、彼は永遠に生きられない、彼は汚れている、彼は不敬虔である」。
箴言8:13 詩篇111:10 箴言15:16 箴言14:27 詩篇19:9、ヘブル12:28によれば。
賢明な人には一言で十分です。
もしあなたが賢くないなら、忘れないでください。
主を畏れることは知恵の初め。(箴言9:10)。
そして、あなたが今日から神様を第一に、人を第二に考えることができますように。
人を恐れることは、罠をもたらします。(箴言29:25)
魂も肉体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)
もしあなたが救われているなら、決して恐れる必要のないことが一つあることを覚えておいてください。
裁きの日や地獄に行くことを恐れる必要はありません。
あなたは、あなたに心を留めている人を、完全に平安のうちに保ちます。(イザヤ26:3)
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。(ヘブル13:8)
そして、主が来られる時まで、あなたがたに罪のないようにしてくださいます。
そして、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの全霊と魂とからだが罪のないままで保たれるように、神様に祈ります。(1テサロニケ5:23)
主の祝福がありますように。