ウェブ神学セミナー:第19部
2024年02月04日
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神のみことばを学ぶ学生、教師の皆さん、おはようございます。
このウェブ神学セミナー。
第19回を迎えます。
神のみことばの偉大な教理を扱います。
ご存知のように、これらの聖句は、主に人々を良い気分にさせるために書かれたものではありません。
もちろんです。この聖句には、否定的な意味以外では、反キリストの一国政府の下に皆を集めるなどということは書かれていません。
聖句が書かれた目的は、健全な教理を教えるためです。
今、私たちは、すべての聖句は、教義のためだけでなく、矯正のための戒めと義の教えのためにも有益であることを理解しています。
聖書の中には、私たちの献身に役立つ貴重な霊的教訓を教えるものがたくさんあります。
もちろん、私たちが聖書を読むのは、神が私たちに語りかけておられるのです。
しかし、すべての聖句は神の霊感によって与えられました(2テモテ3:16)。そして、すべての聖句は神の霊感によって与えられ、まず第一に教理のために有益でした。
鈍い人が自分の教義を正しく理解しない限り。
信心生活も霊的生活も大したものにはなりません。
というのも、結局のところ、健全な教理とは、神が御言葉の中でおっしゃったとおりに、また、神がおっしゃるつもりでおっしゃったとおりに、真理を適切な順序で並べて教えることだからです。
このような理由から、これらのセッションでは、私たちは聖書のテキストの一語一句を変更したり、変更したりすることはありません。
私たちは、人間ではなく、神の権威によって与えられた書物に従っているのです。
実のところ、科学的に洗脳されたり、神学的に洗脳されたりすることなく、明確に聖書的であるために。
神の言葉を守っていたのは、黙示録3章に出てくるフィラデルフィア教会だけです。
ですから、誰も持っておらず、誰も見たことがなく、誰も見つけることができないような、原本や口頭による霊感を受けた全体的な霊感を受けた何かについて、多くの無駄話をするつもりはありません。
御言葉を守った教会は使徒教会ではなかったと言われています。
それは1500年から1900年までの開かれた扉の教会でした。
これが私たちの目指す教会です。
私たちが使っている聖書の教会、プロテスタント宗教改革の教会です。
私たちはここで絶対的な真理を扱い、絶対的に啓示された真理という事柄に関して、聖書が自分自身について何を語っているかを見つけようとしているのです。
神の伝達可能な属性と伝達不可能な属性のレッスンでこのことを話しました。
第1回から第6回までの神学の授業でお話ししました。
そして、神は被造物に自らを伝えようと努力されることを当然のこととしています。
そこで、神が人間としてこの地上に現れるという問題に行き着きます。
そして、これはもちろん、宇宙からの神々の偽物の神々や戦車金に対抗して、神によって与えられた絶対的な啓示です。
宇宙飛行士、黄昏のUFO研究家、土星から来た人々、レムリア人、海の底を弄ぶビューロー、堕落した科学者たちが、宇宙空間にいる生命体とコンタクトを取ろうとして、毎年250億ドルもの税金を浪費しているのです。
生命はすでに現れて戻っているのに。
このレッスンでは、キリスト論、つまり肉体を持った神がこの地上に来られたことを扱う教義についてお話しします。
救い主として、また、私たちと同じようにあらゆる点で誘惑を受けながらも罪のない者として、ご自身を現されたのです。
前回のレッスンでは、主イエス・キリストの神性について述べました。
キリストの処女懐胎。
そして、キリストの生涯に関する預言についてかなり詳しく説明しましたが、この預言は再現不可能な数学的現象を示しています。
アインシュタインや他の人が知っている数学の本には載っていません。
聖書には、一人の人間について生前に預言された500の予言の数学的現象が示されており、そのうちの48の予言は、キリストが初めてここに現れたときにすでに実現したのです。
そして、その人が生まれる400年前から1000年前までに預言された48の預言が一人の人間について実現する統計的確率は、10の157乗分の1ということになります。
ご存知のように、宇宙にはそんなに多くの電子はありません。
ですから、科学的根拠に基づいて聖書を否定するには理由が必要なのです。
また、聖書が伝説や神話であるという理由で、絶対的な真理の権威ある書物であることを否定することは、私たちが反対の証拠を示している以上、言い訳にはなりません。
数学の統計的証明によって、聖書は数学者たちが再現できないような驚異的な数学的成果を示しているのです。
では、論理実証主義者や論理経験主義者、そしてアインシュタインの信奉者たちのように、自分の言っていることの半分も理解できないような人たちのことを、私たちが特に気にする必要はあるのでしょうか?
大学レベル以上の教育を20年受けたからと言って、自分は知的だと思い込んでいる人の話を聞いて時間を無駄にする必要があるでしょうか?
考えすぎですよ、兄弟。
ここには、彼が再現できない現象を示す本があり、彼を教えた男も再現できません。
聖典以外のどんな経典でも再現できない現象。
経典、ヴェーダ、シャスタ、プラーナ、バガヴァッド・ギーター、トリピタカ、そしてムハンマドや孔子の著作でさえも近似することができないのです。
ですから、聖書にはあることが書かれていて、学者や科学者が別のことを言うのであれば、私たちは教養のある人たちがどこにいるのかを知っているのです。
彼らは聖書を書いた人たちであり、それ以外の人たちは待つか、追いつこうとすればいいのです。
このセッションでは、キリストの神性に反対する議論について話しています。
簡単に言うと、21の議論があります。
異教徒、懐疑主義者、無神論者、無宗教者、共産主義者、社会主義者が、イエス・キリストを、ムハンマドやブッダ、毛沢東、レオ・ゼドン、あるいは、彼の生涯に様々なことを教えたが、いずれにせよ何の意味もなかった他の教師のような宗教的な教師として分類しようとする21の議論があります。
つまり、これらの教師は誰も歴史的な推測をする勇気がなかったということです。
そして、キリストは、そのうちの500個がまだ実現しておらず、今世紀に成就するものが20個と30個もあるほど、多くのことをなさったのです。
結局のところ、立ち上がって宗教や神や霊的なことについて語り始める人は、神と接触していなければ、神が知っていることを知ることはできません。
そして、もしそこに神がいるのなら、神は確実に未来を知っているのです。
ケイシーやマドレーン・マーレー・オヘア、ジーン・ディクソン、マザー・シプトン、ノストラダムスのような似非予言者がしばしば現れるのはこのためです。
聖書には、まだ起こっていないこと、そしてこれから起こることについて、500もの詳細な予言が記されています。
現代の科学者や道化師たちが提示する最初の論拠は、キリストは肉と骨を持っていたから神ではない、霊である神には肉も骨もない、というものです。
キリストはルカ24:39でこう言っています。
霊魂には肉も骨もありません。
ヨハネによる福音書4章24節にはこうあります。
神は霊です。
さて、人としてのイエス・キリストには肉も骨もありました。
しかし、神としての彼は霊であり、聖霊の化身でした。
この反論は、救い主の二重性の問題から生じます。
目に見えない神が目に見えるようになるためには、肉と骨にならなければなりません。
つまり、イエス・キリストは二重人格なのです。
1テモテ2:5にはこうあります。
神と人との間には、キリスト・イエスというひとりの仲介者がいます。
そして同時に、テモテへの手紙第一3章16節にはこうあります。
神は肉において現れました。
ですから、このような理由で彼が神のものであるはずがないという議論は無駄です。
人間を救うためには、彼が神でなければならないからです。
しかし、人を救うためには、その人が人でなければなりません。
ですから、古い信条で言われていたように、神は2つの性質を持つ人として来られたのです。
"とても神はとても神であり、とても人はとても人である"
キリストには始まりがあり、神には始まりがないからです。
詩篇90篇2節とヨハネによる福音書8章42節に注目してください。
山々が生まれる前から、また、あなたが地と世界を造られる前から、あなたはとこしえからとこしえまで神です。(詩篇90:2)
イエスは彼らに言われました。もし神があなたがたの父なら、わたしを愛するでしょう。わたしは神から出て来たのです。(ヨハネ8:42)
しかし、人としてのイエス・キリストは、聖霊によって受胎するために始まりがなければなりませんでした。 そして同時に、神としてのイエスには始まりも終わりもありません。
ヨハネ1:18、コロサイ1:17、イザヤ9:6によれば。
人は神を見たことがありません。父の懐におられるひとり子。彼は宣言しました。
彼は万物の先にあり、彼によって万物は成り立ちます。
私たちのために子が生まれ、私たちのために子が与えられたからです。その名は、"すばらしい"、"助言者"、"力ある神"、"永遠の父"、"平和の君 "と呼ばれます」。
ここでも二重性を扱っています。
神格の一員であるキリストは、永遠からの存在でした。
そして、父と一体であり、父と同格である永遠の父と呼ばれるのです。
しかし、人となるためには、自分を空っぽにしなければなりませんでした(フィリピの信徒への手紙2章)。
それが謙虚な姿勢です。
神のかたちをして神と等しくなることは、強盗にあらず。ご自分を無価値な者とし、しもべのかたちをとられました。彼は人に似せて造られそして、人の姿になられて、へりくだられました。そして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順となられたのです。(ピリピ2:6-8)
ですから、キリスト・イエスという人には始まりがあったのです。
今日、わたしはあなたを生みました。(詩篇2:7)
みことばであるキリストには始まりがなく、御父と永遠に共存していました。
その3。
キリストは創造された存在であり、神には始まりがないのだから、神であるはずがないと言う人もいます。
黙示録3:14は、ラッセル牧師とラザフォード判事(エホバの証人)の信奉者たちが、イエス・キリストが神が創造した最初の神であることを証明するために使っています。
でももちろん、そんなことはまったくありません。
主イエス・キリストは、神が創造されたすべてのものの始まりでした。
属格はしばしば、救われていない人々にひどい思いをさせます。
黙示録3:14はコロサイ1:15で解釈されています。
また、ラオディキアの教会の御使いに書き送ります。忠実で真実な証人であるアーメンは、これらのことを言いました。神の創造の始まり。
目に見えない神のかたちであり、すべての被造物の長子。
そして、聖書が神の創造の始まりについて語るとき、そこでの神という言葉は目的語ではなく主格の主語です。
救われていない人々は、学識がなく不安定であるため、しばしば聖句を自分の破滅のために鵜呑みにします。
とおっしゃいますね。
「教義を正しく理解するためには、文法の専門家でなければならないのですか?
いいえ、そんなことはありません。
コロサイの信徒への手紙1章を読めば、黙示録3章14節を正しく理解できたはずです。
しかし、聖書を信じると公言する救われていないキリスト拒否の聖書拒否の人々、キリストを生みの神とするためにキリストの神性を攻撃しようとする人々。彼らは聖書を読むことができません。
だから、黙示録3章14節まで来ると
彼らはイエス・キリストを神の創造の始まりとし、神を創造行為の対象とします。
もちろん、彼はそうではありません。
聖書が神を畏れることについて語るとき、その文章では神が目的語になっていることにお気づきでしょうか。
しかし、私たちが神の愛について語るとき、神が私たちを愛しているということだけではありません。
神が彼を愛しているという話です。
とジョン。
もし世を愛する者があれば、父の愛はその人のうちにありません。(第1ヨハネ2:15)
彼は神を愛していません。
神がその対象であることもあれば、主体であることもあります。
神の真理とは、神が主語である神が啓示した真理、あるいは神が客体である神についての真理のことです。
ヨハネの黙示録』3章14節。
神が造られた被造物は、神が主体です。
主イエス・キリストは、神がなさったすべてのことの始まりでした。
そして、その単純なひねりが、自分は地獄の亡者ではないと思って地獄から抜け出そうとした多くの男たちを地獄に突き落としたのです。
全国的なグループがあって、世界中に雑誌を送っています。
そして彼は、文字通りの灼熱地獄ではなく、地獄など存在しないと人々に信じ込ませることで、世界で最も裕福な男の一人となったのです。
そして、イエス・キリストを神が創造した最初の神とすることで、ヨハネの黙示録3章14節からこのナンセンスを取り上げたのです。
最近、神を冒涜するような戯言が多いですね。
ホセア11:9に「神は人ではない」とあるからです。
民数記23章にもあるように。
エゼキエル書28章2節によれば、人間は神ではありません。
しかし、ホセアは、もし神がそのように望まれるなら、肉体と肉体という人間の形をとることができないとは言っていません。
そしてまた、人は神ではありませんが(エゼキエル28:2)、神にとって難しすぎることはありません(エレミヤ32:17)。
彼が望めば、肉において顕現することができ、彼は望んだのです。
ヘブル人への手紙の10章には、家の体が私を準備したと書かれています。
イエスはご自分のために体を用意され、神の子としてこの地上に顕現されました。
これはわたしの愛する子。(マタイ3:17)
キリストの神性に対する第五の反論。
マタイによる福音書27章46節とヨハネによる福音書20章17節で、キリストが神を父と呼んだので、キリストが神でないとしたら。
イエスは神と呼ばれる人間を父としていますが、ヘブル1:8では神はイエスを神と呼んでいます。
三位一体について、人々がいかに混乱しているかがお分かりいただけたと思いますし、以前のセッションで神学の適切な議論にかなりの時間を費やした理由もお分かりいただけたと思います。
私たちは、三位一体と神格の問題について議論し、このテーマを扱ったすべての節に多くの時間を費やしました。
前にも言いましたが。
前回のセッションを読んだり聞いたりしたことがない人も多いでしょうから、ぜひチェックしてみてください。
これらはすべて私たちのウェブサイトに掲載されています。
三位一体の議論は、聖書信者であるとか、失われた長老であるとか、失われた先生であるとか、そういうことを言う救われていない人々の間では、とても普遍的なものです。
それに関するすべての教えを受け、それに関するすべての聖句を受けた後に、その多くの人たちが。
何も聞いていない、何も見ていないふりをする酔っぱらい。
三位一体についてのレッスンでは、三位一体が「創造において」「受肉において」「贖いにおいて」「救いにおいて」「交わりにおいて」「祈りにおいて」「栄光において」「再生において」一致して行動したことを証明する箇所を挙げました。
私たちは三位一体と、御子と同義でもある父なる神の属性を挙げました。
その永遠性 全能性 全知全能性 聖性 真理 博愛と交わり。
これらのセッションは、しっかりとした聖書の聖典の教えを2部構成で行いました。
しかし、ヘブル人への手紙1章8節では、神ご自身が御子イエスを神と呼んでいます。
しかし、御子にはこう言われました。神よ、あなたの御座はとこしえにあります。
ですから、ヘブル人への手紙1章8節は、市場に出回っているほとんどすべての現代聖書で変更されているのです。
いわゆる原理主義者が勧める聖書も含めて。
今日のキリスト教の大学やキリスト教の専門学校は、完全な背教に陥っており、神性は他の聖句に表されているというお粗末なアリバイのもとに、主イエス・キリストの神性を攻撃する聖書を推薦しています。
さて、あなたがこのような問題を注意深く研究したことがあるかどうかはわかりません。
しかし、今日、キリスト教学校やキリスト教大学、聖書学院で起こっていることは、聖書学院や大学が2つのバージョンの聖書を推奨しているということです。
この2つのバージョンが矛盾する場合、学校や大学が自らを最終的な権威とすることができるのです。
二つの聖書の間の仲裁者。
そのためには、今日のキリスト教の大学、つまりすべての大学が必要です。
主要なものは、彼らが何かを公言しているかどうかにかかわらず。
彼らがしていることは、キリストの神性を支持する節があったり、キリストの神性を攻撃する節があったりする、悪い聖書翻訳を勧めているのです。
今、偽善的な機関が言ういい加減なアリバイは、これらの聖書のどこかに信仰の教義の基本が書かれているから、そこにある最高の聖書と同じように良いものだというものです。
そして、良識のある人なら誰でも、どんな聖書にも信仰の基本が書かれていることをよく知っています。
実のところ、福音の小冊子にも載っています。
だから何?
福音の小冊子が聖書であるということではありません。ある箇所やバージョンに信仰の根本があるからといって、それが聖書であるとは限りません。
また、同じ聖書はヘブル人への手紙1章8節でキリストの神性を攻撃しています。
彼らはカメレオンであり、コウモリです。鳥と一緒に飛び、ネズミと一緒に走ります。
6つ目の反論。
父なる神がキリストを地上に遣わされたのだから、キリストが神であるはずがないと人々は言います(ヨハネ8:42)。
イエスは彼らに言われました。もし神があなたがたの父なら、わたしを愛するでしょう。わたしは神から出て来たのです。神がわたしを遣わされたのです。
しかし、父が息子を地上に送ったからといって、全能の神である父の立場が弱まるわけではありません。
第一に、イエスは自ら望んで来られたのです(ヘブル10章)。
そして第二に、キリストはルカ19:10でその神性を明らかにしています。
人の子は、失われたものを探し、救うために来られたのですから。
また、ガラテヤ4:4とテモテ1:15によれば、これは全能の神である彼の立場を弱めるものではありません。
神は女から造られた御子を遣わされ
キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られました
実のところ、この地上において、イエス・キリストご自身が神の属性を顕現されたのです。
このことについては、前回のレッスンで、キリストの創造力(ヨハネ1:1-3)や元素を支配する力(ルカ8:24、マルコ4:39)についてお話ししました。
それから彼は立ち上がり、風と水の荒れ狂うのを戒めました。すると、それらはやみ、静まりました。
そして起き上がって、風を叱られました。そして海に言われました。静まれ。すると風は止み、大凪になりました。
そして、人間としてこの地上で、神にだけ礼拝を捧げ(ヨハネ9:38)、一方で悪魔には、神以外には誰も礼拝を捧げるべきではないと言いました(ルカ4:8)。
そして彼は言いました。主よ、信じます。と。(ヨハネ9:38)
イエス・キリストが悪魔に告げた後、人にひれ伏して自分を崇拝させ、その崇拝を受け入れたという事実。
あなたがたは、あなたがたの神、主を礼拝し、主にのみ仕えなさい。(ルカ4:8)
それは、イエス・キリストがこの地上に遣わされたかもしれないにもかかわらず、この地上にいることを示しています。
全能の神が肉体をもって現れたのです。
7つ目の反論。
キリストは肉を持って現れたので、神ではありえないということです(第1ヨハネ4:2-3)。
イエスの肉には骨と血があるのですから、彼は単なる人間であり、それ以上ではありません。
でも、それではうまくいきません。
神は、単に受肉の目的のために、肉骨と血を身にまとわれたのです。
ヘブル人への手紙2章によれば、神は永遠の霊であるため、私たちの贖い主となるためには、私たちの人間性を受け継がなければなりませんでした。
あるいは、彼が私たちを救えなかったか。
もし彼がただの神なら、どうやって私たちを救えるのでしょうか?
私たちは神ではなく、罪人です。
8つ目の反論。
コリントの信徒への手紙第一11章3節によれば、神はキリストの頭であるため、キリストは神ではありえません。
しかし、三位一体においては、一人が会長であることが必要です。
だからといって、彼が他の2人よりも偉大だということではありません。
父と子と聖霊は平等です。
しかし、管理上、神父は執行管理者として働きます。
このことについては、三位一体のあり方についてのレッスンでかなり取り上げました。
9つ目の反論。
ヨハネによる福音書8:40とテモテへの手紙第一2:5では、キリストは人と呼ばれているのですから、神であるはずがありません。
しかし、イエスは真の神であると同時に、真の人であり、2つの性質が混じり合うことなく、1つのお方でした。
彼の名前そのものがそれを示しています。
エマニュエル、それは私たちとともにおられる神という意味です。私たちとともにおられる神、エマニュエル。
つまり、苦しみ、血を流し、死に、人間が経験することを経験するために、彼はすべての人間でなければならなかったのです。
そして、罪の完全な贖いをするためには、すべての神でなければなりませんでした。
彼は神人です。
彼は、あなたが聞いたこともないような素晴らしいスーパーマンです。
キリストが神であり得ない第10の理由は、キリストが神の子であるからです。
私たちクリスチャンが神の子と呼ばれるように。
しかし、改心することによって、私たちは神の子となるのです。
イエス・キリストは神の独り子であり(ヨハネ3:16)、それは唯一無二の特別な立場です。
神の御子は御父に等しく(ピリピ2:6)、聖人は共同相続人としてキリストと共に相続人となるだけです。
平易な言葉で言えば、旧約聖書には神の子が存在する可能性があり、それは天使です。
神の子としての企業国家、イスラエル国家(出エジプト記4章)が存在し得るのです。
新約聖書では、新しい誕生によって神の子となることができます。
しかし、彼を受け入れた者は多く、彼らには神の子となる力が与えられました。すなわち、その名を信じる者にです。(ヨハネ1:12)
しかし、このことは、神の独り子であると言われている主イエス・キリストが持っている公式で独特な立場を、決して覆すものではありません。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)
彼は神の独り子です。
時々、"only "という単語が抜かれるんです。
最も一般的な削除は "begotten"。
彼はこの地上で肉体的に聖霊によって生まれた唯一の人です。
生まれ変わったら、神の霊によって新しく生まれ、神の子となるのです。
でも、覚えておいてください。
生まれ変わったとき、肉には何も起こっていません。
あなたの肉はまだ地面の穴に入って腐っています。
キリストは言われました。
肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊です。
そして、イエス・キリストが神の子として持っている唯一無二の立場は、前にも後にも、聖霊によって懐胎された人は誰もいないということです。
今、あなたがたが新生したのは、聖霊によって新生したのです。
そして、聖霊はあなたに新しい誕生を与え、キリストの体においてバプテスマを授け、主イエス・キリストの霊的な体に入れました。
でも、それはあなたの霊が生まれ変わったのです。
御霊から生まれたものは霊です。
あなたの人生においても、私の人生においても、あなたの肉体が聖なる聖霊によって宿ったことは一度もありません。
ユニークな作戦ですね。
祝福された神の御子である主イエス・キリストご自身のために確保された特別な地位。
その間に
あなたは霊的にも肉体的にも神の子ですが、地面の穴に向かっています。
そして死ねば、腐って堕落するのです。
主イエス・キリストの遺体が墓に安置されていたとき、シモン・ペテロがこう言ったことは、理解しがたいことですが、注目に値します。
あなたは、私のたましいを地獄に置き去りにされず、あなたの聖なる者に腐敗を見させられないからです。(使徒2:27)
彼の魂は地獄に残されず、彼の肉は腐敗を見ませんでした。(使徒2:31)
彼は聖霊によって肉体が生まれた唯一の人でした。
そしてこのことは、後にも先にも誰も経験したことのないユニークで特別な立場に彼を置くことになります。
そして、イエス・キリストを私たちと同じ神の子として分類し、誰もがその中に神性の輝きを持ち、彼のような神の子となることができるというのです。
あるいは、息子であることを示すことによって、私たちが息子であることを自覚するのを助けるだけだと言うのは、不条理の極みであり、救われていない罪人の野蛮な想像力によって生み出された、最も卑猥で冒涜的なナンセンスです。
イエス・キリストは神の独り子です。
次回は、キリストの神性に対して提起された21の異論について続け、キリストの神性に対するこれらの異論に聖書がどのように答えているかを紹介します。
それまでは、主の祝福とごきげんよう。