ウェブ神学セミナー:第24部
2024年03月10日
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神のみことばを学ぶ生徒の皆さん、教師の皆さん、おはようございます。
今日も数分間、私たちと一緒に神の御言葉から学ぶ時間を取ってくださることを願っています。
ウェブの神学セミナーで真剣に聖書を学びましょう。
ここ数週間の私たちのレッスンは、キリスト論、主イエス・キリストの生涯と業についての研究でした。
このようなセッションはまだたくさんあります。
これらのテーマに関して、全部で
主イエス・キリストの御業に特化した34のレッスンがあります。
私たちはイエス・キリストの生涯の預言について論じてきました。
キリストの処女懐胎、キリストの神性についても論じてきました。
また、キリストの神性に反対する様々な人々が持ち出す議論についても時間を割いて議論してきました。
御子と御父の関係についても述べてきました。
さて、今日のレッスンとその前のセッションは、イエス・キリストの人間性を扱う祝福となります。
主イエス・キリストは肉において顕現された神であるだけでなく、何よりも、この地上では主として人間でした。
主イエス・キリストには人間の名前があり、人間の祖先がいます。
主イエス・キリストは肉体を持っておられ、人間の成長法則に従う体を持っておられました。
それは神にはまったく当てはまりません。
真理を学ぼうとする神の言葉を学ぶ者にとって、これらの事柄を把握し、徹底的に理解することは不可欠です。
というのも、今日のキリスト教には、教義についてまったく論じなかったり、教義上の問題が出てきてもそれを避けたりすることを良しとするものがあるからです。
このようなことは、生まれながらにして神の子である者が見習うべきことではありません。
主イエス・キリストを信じる真の信仰者。
クリスチャン信者、すなわち神の御言葉に生きる人は、すべての聖句が神の霊感によって与えられたものであり、第一に、教理のために有益であることを知っています。
今日、人々が神のみことばの教義的な問題を避けようとするのは、真理に対する愛の欠如を特徴とする現代に生きているからです。
実のところ、現代のクリスチャンは真理を恐れているのです。
ある人が言いました。
「あなたがその聖書に反対しているのは、それがあなたに反対していると知っているからだ」と。
そして、現代のクリスチャンは、もし神の御言葉に多くの時間を費やすなら、自分が信じるように教えられてきたことに反することを発見するのではないかという恐ろしい疑いを抱いているのです。
というのも、今日、多くの偽教師や偽説教者が、聖書の中に入ってそうでないことを教えようと、これとまったく同じ仕掛けを使っているからです。
ですから、むしろ慌ただしい状況なのですね。
あなたはこう言います。
「ブラザー。このような相反する声や、さまざまなことがある中で、私はどのようにして知ることができるのでしょうか?"
とても簡単なことです。
ある人があなたに聖句を示したら、それを開いてください。
その聖句を開いて読みなさい。
そして第一に、その聖句が正しく引用されているかどうかを見てください。
"天の王国 "と書くべきところを "神の王国 "と書いてあったり、"神の王国 "と書くべきところを "天の王国 "と書いてあったりします。
非常に興味深い言い換えです。
そして2つ目。
なによりも、その人がその聖句をその文脈に即して引用しているかどうかを見てください。
古代の犠牲者はまだ善良で神聖です。
常に善です。
文脈のない文章は口実です。
そして、それは滅びゆく真理です。
偽りの教義を教える方法は、単にそれが現れる文脈から節を取り出すことです。
そうすることによって、その聖句が言っていないことを言わせるのです。
最近、このようなことが絶えず行われています。
さて、私たちはキリストの人間性について話してきました。
前回のセッションに参加されなかった方で、この資料を手にされた方がいらっしゃらない限り、参考文献を書き留めて、勉強するのに適切な参考文献があることを確認してください。
さて、これからお話しする参考文献は、キリストの人間性について扱ったものです。
これらは、前回のセッションで、キリストの人間性についての事柄を説明しました。
まず、イエス・キリストが人間の名前を与えられたことを述べました。
マタイ1:21
1テモテ2:5
ルカ19:10
使徒言行録7:56
次に、イエス・キリストには人間の祖先がおられたことに注目しました。
ルカ2:7
ガラテヤ4:4
使徒13:23
マタイ1:1-16
ヘブル7:14
私たちは、イエス・キリストが肉体的な性質を持っていたことを再確認しました。
ヨハネ1:14
ヘブル2:14
1ヨハネ4:3
そして最後に、主イエス・キリストは普通の人間と同じように、人間の成長の法則に従われたことを述べました。
彼は成長しました(ルカ2:40)。
質問をされました(ルカ 2:46)。
知恵が増し(ルカ2:52)。
従順を学びました(ヘブル5:8)。
苦しみを受けました(ヘブル2:18)。
大工として働かれました(マルコ6:3)。
記録された年月の間、人間として成長されました(ルカ3:23)。
そして誘惑されました(マタイ4:1-11)。
これがキリストの人間性を示す聖書の証拠です。
前にも述べましたし、これからも折に触れて述べますが、その人の教義をチェックする方法は、その聖句を読んで、その人が真実を語っているかどうかを確かめることです。
そして何よりも、その箇所、つまり文脈をよく観察してください。
文脈のない文章は口実です。
昔からそうでしたし、地獄が凍りつくまでそうでしょう。
そして、最近の素晴らしいスタイルは、それがどこから来たのか、何を扱っているのかを相手に伝えることなく、単に一節を引用することです。
ですから、これらのセッションでは、お経をお渡ししたいと思います。
聖句を入手し、聖句を書き留める時間を与えてください。
そして何よりも、これらの参考文献を見て、自分の目で確認していただきたいのです。
そして、ベレヤ人のように、これらのことがそうであるかどうかを確かめるために、毎日聖句を調べなさい。
キリストの人間性についてのレッスンを続けます。
私たちは、彼が人間の祖先を持っていたという事実を議論してきました。
肉体的な性質を持っていたこと。
彼は人間の名前を与えられ、人間の成長法則に従ったのです。
私たちは今、最も重要な事実に直面しています。
イエス・キリストが普通の人間の本能によって動かされたという事実。
そして、これらの点では、神の属性との間に何の関連性も見いだせません。
全知全能の全知全能の神、その絶対無限の永遠性と不変性は、確かに私たちがこれから読もうとしていることとは何の共通点もありませんでした。
まず、彼は空腹でした。
マタイによる福音書4章2節にはこうあります。
彼は四十日四十夜断食したとき、その後、空腹を覚えました。
マタイによる福音書21章18節。
さて、朝になって街に戻ると、彼はお腹が空いていました。
神様はお腹を空かせません。
主は旧約聖書の頃、いけにえを捧げる旧約聖書の聖徒たちにこう言われました。
千の丘の牛は私のもの。もし私が飢えていたとしても、あなたには言いません。(詩篇50:10-12)
イエスは渇きました。
ヨハネの福音書4章7節に
サマリアの女が水を汲みに来ました。イエスは彼女に言われました。わたしに飲ませてください。
ヨハネによる福音書19章28節で、彼は十字架上でこう叫びました。
喉が渇きます。
神は喉が渇くと思いますか?
まあ、イエスはそうでした。
彼は疲れました。
ヨハネの福音書4章6節で、聖書はこう言っています。
ヤコブの井戸がありました。そこでイエスは、旅に疲れ果てて、井戸の上に座っておられました。
神が疲れると思いますか?
イザヤ書では、彼は疲れないと言っています。
彼の力を探し出すことはできません。
主は人のように疲れません。
イエスは疲れて、休むために座りました。
彼は普通の人間の本能に動かされたのです。
彼は眠りました。
マタイによる福音書8章24節にはこうあります。
そして見よ。海には大嵐が起こり、船は波に覆われました。しかし、彼は眠っていました。
神は眠っていると思いますか?
イエスはそうされました。
キリストが人間であったことを証明する証拠を集め、膨大な量の証拠を作り出せば、私たちがどこへ向かおうとしているのか、おわかりいただけるでしょう。
救われていないリベラル派は皆、瀕死の人が息を吸うようにそれをつかんで言います。
「彼は自分が信じ、教えたことのために死んでいった偉大な人物です。彼の教えに従えば、彼が自分自身を救ったように、私たちも自分自身を救うことができるのです」。
嘘です。
彼は神の子であり、肉において顕現された神でした。
そして、キリストの神性を扱った聖句を出すと、どこかのJWはそれを掴んでこう言うのです。
「彼は創造された神ですが、父なる神よりは劣ります。なぜなら、神は疲れないし、神は渇かないし、神は飢えないからです。ですから、イエス・キリストはそれ以下の神であった、あるいは、イエスはすべて神であり、実際には人間にならなかったのです。本当の人間ではなかったのです。"
もし盲人が盲人を導くなら、両方とも溝に落ちるでしょう。(マタイ15:14)。
彼は人の子であり、神の子でした。
彼は男として愛しました。
マルコによる福音書10章21節とヨハネによる福音書11章36節をお読みください。
イエスは彼をご覧になり、愛されました。
するとユダヤ人たちは言いました!
彼には思いやりがありました。
マタイによる福音書9章36節に
群衆が気を失っているのを見て、憐れみの心を起こされたのです。
彼はあるとき言いました。
エルサレム、エルサレム。鶏がその翼の下に鶏を集めるように、わたしは何度あなたがたの子供たちを集めたことでしょう。(マタイ23:37)。
それが思いやりであり、人間の感情です。
それは人間の感情です。
人が怒ったり悲しんだりするように。
マルコによる福音書3章4節には
そして、彼らに言われました。安息日に善を行うことは律法にかなっているのか、それとも悪を行うことは律法にかなっているのか。命を救うべきか、殺すべきか。しかし、彼らは黙っていました。
聖書によれば、彼は彼らの心の固さを憂い、怒りをもって彼を見回したとあります。
ヨハネによる福音書2章16節では、神殿を清められたときに、義の憤りが示されました。
彼は敬虔な信頼を示しました。
ヘブル人への手紙5章7節にはこうあります。
その肉の時代に、自分を死から救うことのできる方に、強く叫び、涙を流して祈りと願いをささげ、恐れていたことを聞き入れられた方。
ヨハネによる福音書11章33節で、彼は人としてうめき声をあげました。
ですから、イエスは、彼女が泣いているのを見て、また、彼女といっしょに来ていたユダヤ人たちも泣いているのを見て、霊的にうめき、悩まれました。
ヨハネによる福音書11章35節で、彼は人として泣きました。
イエスは泣かれました。
ルカによる福音書19章41節で、イエスはエルサレムの町のことで泣かれました。
そして、近くに来て、その町を見て泣かれました。
また、ヘブル5:7には、彼が祈りを捧げたことが書かれています。
強く泣きながら。
これで、聖書信者が無宗教者や無神論者から常に嫌がらせを受けている大きな問題が解決しました。
なぜ聖書は神を擬人化、擬人表現と呼ばれるもので語り続けるのか、それが問題なのです。
だからこそ聖書は、神が悲しみ、悔い改め、嘆くことを考え続けているのです。
聖書が神の目と香りを語り続ける理由。
ほら、あれ?
旧約聖書では、神は匂いを嗅ぐと書かれていますが、神に鼻はありません。
神には目がない?
ええ、でも彼はそうです。
全知全能の神が、33年間、人間の性質に自らを限定して下って来られた時、全知全能の神は、キリスト・イエスというお方の中に現れました。
彼らはまだそれを理解していないし、これから理解するつもりもないでしょう。
しかし、なぜこのようなことになったのでしょうか?
多くの人が彼について理解できないことがありました。
彼らは、神が神であるにもかかわらず、どうして自分には人間の属性があると語ることができるのか理解できませんでした。
自然人は、神の御霊のものを受けません。(1コリント2:14)
そして、その自然人が修士号を持っていようが、博士号を持っていようが、高校1年生だろうが、溝掘り職人だろうが。
彼はそれを理解しようとしていません。
20年間のセミナー教育を受けて、抵抗できない恵み、無条件の選び、限定的贖罪、全き堕落について語るから、彼らは知的なのだと考えている人たちがいるのです。
ご存知でしたか?
聖書にはこうあります。
神の愚かさは人よりも賢い。(1コリント1:25)
その赤ん坊の腕には全知全能の全能の神の永遠不変の力が宿っていたのに。
まだ解明されていないし、これからもされることはないでしょう。
マタイによる福音書14章23節
群衆を追い払われると、祈るために離れた山に登られました。
神が祈らなければならないなんて言わないでください。
聖書の中で、彼が祈っている章があります。(ヨハネ17章)
父への祈り、全章。
イエスは肉体も魂も霊も持っておられました。
ヨハネ1:14 ヘブル2:14 マタイ26:12参照)。
遺体は葬られました(ルカ23:52-56)。
イエスには魂がありました。
マタイによる福音書26章38節で、彼は自分の魂が非常に悲しんでいると言いました。
使徒言行録2章27節使徒言行録2章31節によれば、イエスの魂は死の楽園に行き、地獄を下りました。
ルカによる福音書23章43節によれば、イエスは人間の霊を持っていました。
ルカによる福音書23章46節を読むと、霊は死に際して御父のもとに戻りました。
父よ、あなたの御手に私の霊を委ねます。
三位一体、三部作。
三位一体の体であり、神の三位一体(父と子と聖霊)の一員であっただけでなく、人間として肉体と魂と霊を持っていました。
テサロニケの信徒への手紙第一5章23節から24節にあるように。
私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊魂と肉体のすべてが罪なく保たれますように。あなたがたを召された方は忠実であり、また、その方は必ずそれを成し遂げてくださいます。
それだけではありません。
イエス・キリストが人間であったことの顕著な証拠は、彼が死んだという事実です。
神は死ぬことができません。
もし父なる神が死んだら、宇宙は消滅するでしょう。
聖書には、万物は御力の言葉によって一つに結ばれていると書かれています。
そして、この方が万物の前におられ、この方によって万物が成り立っているのです。(コロサイ1:17)
彼は宇宙を支え、いつか言ったのです。
彼らは皆、衣服のように古びていきます。あなたがたは、衣服のように、それらをたたみ、着せ替えるのです。(ヘブル1:11-12)。
生物学的な生命の組み合わせは死です。
人は死ぬために生まれてきたのです。
哲学者たちはこう言いました。
「哲学を正しく学ぶ者は、死以外には何も学ばない」。
そして人間が望むのは、裁きのない死を手に入れること。
人間は、物質宇宙のエネルギー的な力と一体化するような、霊的な噴出状態に蒸発するような死を望んでいるのです。
彼は罪の裁きの後に続く死を望んでいません。
聖書にはこうあります。
人は一度死ぬように定められていますが、この後には裁きがあります。(ヘブル9:27)。
聖書にはこうあります。
ですから、私たちは一人一人、神に対して自分のことを説明しなければなりません。(ローマ14:12)
聖書にはこうあります。
主が来られるまで。主は、暗やみの隠れたものを明るみに出し、心の計らいを明らかにされます。そうすれば、すべての人は神をほめたたえることができるでしょう。(1コリント4:5)
聖書にはこうあります。
神はすべての業を、すべての秘め事とともに裁きに入れられるからです。それが善であろうと、悪であろうと。(伝道者の書12:14)
パウロは言います。
神が、私の福音に従って、イエス・キリストによって人の秘密を裁かれる日に。(ローマ2:16)
あなたは死ぬために生まれてきたのです。
そして聖書の死では、裁きに直面します。
イエス・キリストは死にました。
ヘブル人への手紙9章27節にこうあります。
人は一度死ぬように定められています。
だからイエスは約束を守りました。
彼はすべての人に定められたルールを守りました。
エリヤやエノクのような例外があるのは事実ですが、それはルールを証明する例外です。
亡くなりました。
イエスはカルバリの十字架で十字架刑による死を迎えました。
ルカによる福音書23章33節にこうあります。
彼らがカルバリと呼ばれる場所に来るとそこで十字架につけられたのは、悪人たちでした。ひとりは右手に、もうひとりは左手に。
そして私たちは、死の苦しみのために天使よりも少し低くされたイエスを見ます。
神の恵みにより、栄光と誉れの栄冠を。
彼が死を味わうのは、選民のためではありません。
限定的な贖罪ではなく、死を味わうべきです。
彼はすべての人のために死を味わうべきです。
イエスはこの地上のすべての罪人のために死ぬためにこの地上に来られたのであり、死はイエスの人間性の主要な証明でした。
彼が選民のためだけに死んだという兆候はまったくありません。
また、ヘブル2章9節を、キリストが「多くの人の身代金として自分の命を与えるために来た」と言われたことに照らして解釈する人たちは、テモテへの手紙第一2章で、キリストが「すべての人の身代金として自分の命を与えるために来た」と言われていることを全く無視しています。
それは、神の恵みによって、すべての人のために死を味わうためです。(ヘブル2:9)
すべての人のために、ご自分を身代金としてお与えになった方です。(1テモテ2:6)
大勢がすべてではないかもしれませんが、すべてが大勢です。
主は選民のためだけに死なれたのではなく、すべての人のために死に臨まれたのです。
さて、キリストの人間性についての研究の論理的な結論、そして途方もない結論を持ってきましょう。
私たちは、イエスが復活した後も肉体を持っていると結論づけます。
上がってきたとき、彼は言いました。
見よ、私の手と足を。私を扱ってご覧なさい。霊には肉も骨もありません。(ルカ24:39)。
ヨハネによる福音書20章27節で、トマスにこう言われました。
指をここに伸ばして、私の手をご覧ください。
そして、ずっと後の使徒言行録7:55-56では、(殉教した)ステファノが神の右に立っています。
しかし、聖霊に満たされていた彼はそして、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見ました。そして言いました。見よ、私は天が開かれるのを見ます。人の子が神の右に立っておられるのを。
つまり、イエスは人間であり、2つの点を除いては私たちと同じ人間だったのです。
第一に、彼は罪深い性質を持っていませんでした。
そして第二に、彼は罪がありませんでした。
彼は一つも罪を犯さなかったからです。
人間の弱さに関しては、彼も私たちと同じように疲れました。
私たちと同じように喉が渇き、私たちと同じようにお腹が空いたのです。
彼は肉体を維持するために、あなたと同じように食べなければなりませんでした。
彼は成長し、普通の人と同じように成長しました。
彼は人間であり、このことは神の言葉を信じる者であれば、疑いの余地なく証明されています。
もう1度、参考文献を説明しますので、書き留めておいてください。
私の言葉を鵜呑みにせず、ひとつひとつチェックしてください。
彼は飢えていました。(マタイ4:2)
彼は渇きました。(ヨハネ4:7)
彼は疲れました。(ヨハネ4:6)
彼は眠りました。(マタイ8:24)
彼は怒っていました。
彼はうめき声をあげました。(ヨハネ11:33)
彼は泣きました。(ヨハネ11:35)
彼は祈りました。(マタイ14:23)。
体を持っておられました。(ヨハネ1:14 ヘブル2:14)
彼には魂がありました。(マタイ26:38)。
彼には霊がありました。(ルカ23:46)。
そして何よりも、死なれたのです。(ルカ23:33 ヘブル2:9)
そして、ヨハネによる福音書20:27と使徒言行録7:55-56によれば、彼はまだ肉体を持っています。
さて、これでイエス・キリストの人間性についてのセッションは終わりです。
その事実は、神の御言葉の中で議論の余地なく確立されています。
そして、すべての問題は再び単純にこう解決されるのです。
神の言葉を信じるか、信じないか。
そうでなくても、あなたには自由意志があります。
そうすれば、あなたには自由意志があります。
しかし、聖書に書かれていることに疑問はありません。
聖書はイエス・キリストを人であると同時に神として、肉において顕現された神として紹介しています。
それがキリストの人間性に関する聖書の教えです。
そして、誰がどう考えようと、他のことは教えていません。
あるいは、誰がそうだと教えたのか、あるいはそうではないと教えたのか。
それは、この最も重要なテーマ、主イエス・キリストの人間性に関して書かれていることです。
さて、次の2つのセッションでは、キリスト論の非常に重要なテーマを取り上げます。
私たちは、キリストの罪のなさという非常に重要なテーマを取り上げます。
そしてこれは、主イエス・キリストの人格と御業を扱う、本来のキリスト論の研究に属するものです。
次の2つのレッスンでは、キリストの罪のなさに関する聖書の証言と聖書の教え、そしてこの非常に重要なテーマについて聖書が語っていることを取り上げます。
それまでは、主の祝福とごきげんよう。