ウェブ神学セミナー:第27部
2024年03月31日
/
ありがとうございます
神のみことばを学ぶ学生、教師の皆さん、おはようございます。
今週のレッスンは、神学的主題を扱う一連のセッションの27回目です。
このセッションで何週間も議論してきたテーマは、キリスト論です。
主イエス・キリストの人となり、性質、働きについてです。
イエス・キリストが本当はどのようなお方であったかを分析する授業です。
私たちはよく歌ったり祈ったりします。
「イエスのようになりたい」と。
でも、いざ考えてみると
これはどういう意味でしょうか?
"イエスのようになりたい"
その願いは最も崇高なものですが、私たちがイエスを見習わなければならない点は1つではありません。
もちろん、キリストに倣うことは悪魔的であるという点もあります。
主イエス・キリストの最大の模倣者は悪魔であり、もちろん彼はキリストの完璧な偽物です。
イエス・キリストはユダ族のライオンとして語られ、悪魔はほえたけるライオンとして語られます。
イエス・キリストは王子メシヤ、あるいはクリストスの油注がれた者として語られ、悪魔は油注がれたケルブと呼ばれ、それを覆い、空の力の王子と呼ばれています。
主イエス・キリストが王の王、主の主と呼ばれるように、悪魔はすべての高慢な子らの王と言われます。
旧約聖書におけるイエス・キリストの神示が主の御使いであったように、第二コリント11章には、サタンが光の御使いに変えられるとあります。
そして、神は光であり、悪魔はコリントの信徒への手紙二4章で、この世の神と呼ばれています。
ですから、私たちがキリストのようになることについて語るとき、私たちは常に警戒していなければなりません。
私たちは常に警戒し、キリストを模倣することと決して混同しないように注意しなければなりません。
キリストを模倣すること、キリストを模倣することはサタンの仕業です。
キリストが私たちの模範であることは、第1ペテロ2:21で、行動だけでなく性格においても。
そしてローマ8:29。
御子の姿に造り変えられること。
基本的に彼の性格に合わせているのです。
ローマ人への手紙8章29節を見れば誰でもわかるように、ローマ人への手紙8章29節は現世の適合について言及しているのではありません。
イエス・キリストの再臨のことで、キリストが今持っている肉体をあなたが持つようになる時のことです。
栄光の肉体。
経典を寓意化し、アレキサンドリアの有名な神話学派に従う人々が非常に多いのです。
彼らの私的解釈の方法は、ローマ8章29節のような箇所を取り上げることが多く、現世で今すぐキリストの姿に合わせられると思わせるのです。
これは愚の骨頂です。
フィリピの信徒への手紙3章やヨハネの手紙第一3章にも、このような記述があります。
愛する者たちよ、今、私たちは神の子です。私たちが何になるかは、まだわかりません。しかし、私たちは、主が現れるとき、私たちが主と同じようになることを知っています。なぜなら、私たちは、その方のありのままの姿を見るからです。(第1ヨハネ3:2)
また、フィリピの信徒への手紙の著者は言います。
主は、私たちのみすぼらしいからだを変えて、その栄光あるからだのように造ってくださいます。その働きによって、万物をご自分のために従わせることがおできになるのです。(ピリピ3:21)
さて、キリストの性格について。
まず第一に、イエス・キリストが聖なる方であったということです。
キリストはかつてヨハネによる福音書の中で、ファリサイ派の人々にこう言われました。
彼のうちに不義はありません。(ヨハネ7:18)
彼は罪がないと主張し、私はあえて言う、それはあなた方の偶像のどれもが主張することができるよりも大きなものです。
そうだとしても、どうせ誰も信じないでしょう。
イエス・キリストは聖なる方でした。このことは、キリストの罪のなさについてのレッスンで取り上げました。
イエス・キリストは聖なる方でした。
彼は生まれたときから罪の性質がありませんでした。
さらに、彼は人間にも神にも知られているいかなる罪も犯さず、常に正しく純粋なことを行いました。
彼は誘惑されましたが、体系神学と教義神学におけるペッカビリティの教義では、罪への誘惑という考えは除外されています。
私たちは、罪が入るのは、討論と呼ばれる第三のペッカビリティの状態になってからだと理解しています。
それは、誘惑の対象がその人に提示されたときです。
誘惑の対象について照明が与えられても、これは罪にはなりません。
しかし、第三段階は、犯人が道徳的な結果を考慮した上で、望ましい行動を取るかどうかを議論し始める段階です。
そこから罪が始まるのです。
そしてもちろん。
その人が心に思うように、その人もそうなのです。(箴言23:7)
人があからさまに罪を犯すずっと前に、内心では罪を犯しているのです。
そして、内心でそれを犯すずっと前に、犯すかどうかを議論したり、弄んだりするのです。
使徒言行録3章14節で、ペテロはイエス・キリストをこう呼んでいます。
聖なる者と正義の者。
救い主は、義を愛し、不義を憎むという聖性を示されました。
続くマタイ23章では、不義を憎み、罪と偽善を糾弾したことを示す神殿の清め。
世界がこれまで見たことも聞いたこともないような、最も痛烈な否定的憎悪文学が、主イエス・キリストの口から発せられたのです。
私たちは、ヘイト文学や陰鬱な文学についていつも心配している人々を相手にしています。
これらの人々は、自分の罪を名指しされたことに憤慨しているだけだということを忘れてはなりません。
彼らは自分の罪を帳消しにしたがります。
そして、この神をも恐れぬ、堕落した腐敗した人間の標本を扱うこと。
彼らが罪についての否定的な説教を嫌うのは、彼ら自身が神と御言葉を憎んで否定的だからだということを、私たちは常に覚えておかなければなりません。
すべてを愛する男は悪魔。
聖書には、義を愛し、不義を憎め、とあります。
すべてのことを証明し、良いことを堅く守りなさい。(テサロニケの信徒への手紙第一5章21節)
悪を憎み、善を守りなさい。(ローマ12:9)
聖書はバランスの取れた書物であり、私たちが両極と呼ぶものを認めています。
もちろん、こうした両極端な考え方は、政府を転覆させようとする人々以外には何も考えようとしない、現代の過激主義的な人々の悩みの種です。
つまり、長く座って話をすれば、誰だって鎧に穴が開くものなんです。
主イエス・キリストは不義を憎み、はっきりとした言葉で糾弾されました。
そして、マタイによる福音書23章での彼の否定的で、辛辣な、反社会的で、反人道的な非難は、500メートル離れたレンガの壁の水ぶくれをはがすでしょう。
そのことを知らないのであれば、聖書を読むことをお勧めします。
ガラテヤ3:13によると、イエス・キリストは律法の下で、私たちのためにのろわれたのです。
ローマ人への手紙4章6節によれば、神はイエス・キリストを救い主として受け入れる者に義を付与されます。
主イエス・キリストは、まず第一に聖なる方でした。
第二に、彼は愛情深い性格でした。
救い主の愛は2つの方法で示されました。
まず第一に、御父への愛において。
このことは、御父の御心を行おうとする彼の発言によって完全に明らかです。
彼は、御父の御心を実行するために来られ、御父がそうされることを望まれたので、羊のために命を捨てるという公然の目的を表明されました。
そして、ゲッセマネで大粒の血の汗を流したという事実が、この告白の真正性を明らかにしています。
彼は言いました。
私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように。(ルカ22:42)
救い主の愛は、まず御父に対して、次に人類に対して、2つの形で現れています。
ヨハネによる福音書14章31節で、彼はこう言いました。
しかし、私が父を愛していることを世に知らしめるためです。
ヨハネによる福音書6章38節をご覧ください。
私が天から下ってきたのは、私自身の意志を行うためではありません。私をお遣わしになった方の御心にかなうためです。
ヨハネによる福音書14章31節にも、まったく同じ言葉が記されています。
ヨハネ17:4とヨハネ19:30によれば、イエスは父から与えられた仕事を成し遂げられました。
そして、キリストはヨハネによる福音書3章16節で、世に対する愛を次のように示されました。
神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたからです。それは、彼を信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。
さて、パウロは第二コリント8:9でこう言っています。
私たちの主イエス・キリストの恵みを知っているからです。彼は富んでおられましたが、あなたがたのために貧しくなられました。それは、彼の貧しさによって、あなたがたが富むためです。
その愛の最高の証は、罪人のために自ら死を選んだことです。
ヨハネの福音書15章13節には
人がその友のために命を捨てること、これにまさる愛はない」。
しかし、主イエス・キリストについて読んでください。
私たちはこう読みました。
私たちがまだ無力であったとき、キリストは不敬虔な人々のために死んでくださいました。(ローマ5:6)
読みました。
人がその友のために命を捨てること、これにまさる愛はない」。
しかし、神は私たちへの愛を称賛しておられます。それは、私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださったからです。(ローマ5:8)
そしてイエス・キリストは罪人を愛し、罪人への愛を示されました。
エペソ5:25では、救われた罪人に対する特別な愛を示されました。
キリストは教会を愛されました。
イエスはご自分への特別な愛を持っておられます。
ヨハネによる福音書13章1節にこうあります。
世にいる自分の者たちを愛し、彼らを最後まで愛されました。
しかし、それに加えて、救われていない世界に対して、彼らの罪のために血を流すほどの愛を示されたのです。
ルカによる福音書19章10節で、主イエス・キリストはこう言われました。
人の子は、失われたものを探し、救うために来られたのですから。
マタイによる福音書9章13節で、イエスはご自身の教えであるマタイによる福音書5章44節に従い、敵を愛し、敵のために祈ることを示されました。
ルカによる福音書23章34節の十字架上で彼は言いました。
父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分のしていることを知らないのですから。
イエスは子どもたちを愛しておられます。
聖書はマルコによる福音書10章13節から16節の場面で、このことを見事に表現しています。
私たちが豊かになるために貧しくなり、罪人に対するこの愛を示されたのです。
第2コリント8:9にはこうあります。
私たちの主イエス・キリストの恵みを知っているからです。彼は富んでおられましたが、あなたがたのために貧しくなられました。それは、彼の貧しさによって、あなたがたが富むためです。
あなたの苦しみを分かち合うために、ここに降りてきて、あなたの傷のそばに自分の傷を置いた人がいます。
ここに、あなたの貧しさと重荷を背負うことができるように、あなたの貧しさを背負って降りてきた人がいます。
あなたの誘惑や苦しみを理解することができるように、あなたと同じように肉において誘惑を受けながら下って来られた方がここにおられます。
あなたの悲しみ、あなたの重荷。
そして、これは彼の本性の現れであり、大きな特徴のひとつなのです。
彼の愛。
キリストの人格は聖なるものであり、イエス・キリストは愛に満ちた方でした。
その愛の最高の証明は、私たちのために自ら死んでくださったことです。
イエスは日々の世話と糧によって、日々私たちに愛を示し続けました。
新約聖書の書簡の偉大な約束は、次のようなものです。
私の神は、キリスト・イエスによって、その栄光の富に応じて、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)
そして
私を強くしてくださるキリストによって、私はすべてのことができます。
そして
私たちは、神を愛する者、すなわち、神のご計画に従って召された者には、すべてのことが益となるように共に働くことを知っています。(ローマ8:28)
これらの偉大な約束はすべて、イエス・キリストの愛がカルバリーで終わるのではなく、延々と続くことを示しています。
そして詩篇の作者は言いました。
ああ、人が主のいつくしみと、人の子らに対するみわざをほめたたえるように!(詩篇107:31)。
その慈しみはとこしえまでも続くからです。(詩篇136:26)
主イエス・キリストは聖なる方でした。
主イエス・キリストは愛情深く、魂への愛を持っておられました。
救い主に倣い、キリストのようになりたいのであれば、救い主自身が持っていたような、罪の中にさまよう人々の魂に対する枯れることのない愛を手に入れなさい。
失われた羊を捜すために、良き羊飼いとして来られたのです。
ヨハネの福音書10章16節で、彼はこう言いました。
私には、この羊の群れ以外の羊がいます。彼らも連れて来なければなりません。
彼は大勢の人々を愛しました。
彼は世界、全人類のために死ぬために来たのです。
彼の宣教は、一人一人の魂を開拓するものでした。
ですから、イエス・キリストのためにその魂を導こうとするために、一人の魂と何時間も過ごすことを恐れるべきではないのです。
ルカによる福音書15章4節で、主イエス・キリストは、失われたものを探しに行く心を葬り去りました。
あなたがたのうちのどの人が、百匹の羊を持っています。そのうちの一匹を失っても、九十九匹を荒野に残して行かない者があろうか。そして,見失った羊を見つけるまで,その羊の後を追わない者があろうか」。
イエスはいつも、失われた罪人を見つける喜びに入られました。
たとえば、ルカによる福音書15章5-7節をご覧ください。
そして家に帰ると、友人や隣人を呼び集めます。そして家に帰ると、自分の友だちや近所の人たちを呼び集め、こう言います。迷っていた私の羊を見つけたのですから。あなたがたに告げます。同じように、一人の罪人が悔い改めることは、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
また、ルカによる福音書15章24節では、「放蕩者が家に帰ったとき、彼らは喜び始めました。彼は言いました。
私の息子は死んでいましたが、生き返りました。迷っていたのに、見つかったのです。そして、彼らは陽気に騒ぎ始めました。
さて、もしあなたがキリストのようになりたいと思うなら、こう言ってください。
「私をイエスのようにしてください」。
それなら、魂への愛と個人への愛に適合するように祈ったほうがいいですよ。
自分を拒絶するすべての魂のために、彼は深く悲しんでいました。
ルカ19:41-42では、彼はエルサレムの首の固い住民のために泣きました。
街のことではなく、その街に住む魂、失われた個々の男女のことです。
神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたからです。それは、彼を信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。(ヨハネ3:16)
彼は魂のために重荷を負い、十字架で死ぬ前に最後にしたことは、瀕死の盗人に目を向け、彼を受け入れることでした。
彼は瀕死の泥棒に言いました。
まことに、あなたがたに言います。あなたがたは、きょう、わたしといっしょに楽園にいるのです。(ルカ23:43)
これこそ、魂の勝者、魂を意識する人、あらゆる機会に魂を勝ち取るオポチュニストの完璧な例です。
この種の偉大な人物の一人は、もちろんジョン・ハーパー。
1920年代から30年代にかけて、ムーディー聖書研究所に講演に来たスコットランド人の老説教者。
途中、彼は沈没した船に乗っていました。
そして、大西洋の凍てつくような海で死にかけていた彼は、罪人に向かって聖句を叫びながら浮き沈みしていました。
救命ボートに戻って救助された男性がいました。
ニューヨークに戻ると、彼はこの事件について話しました。
彼は言いました。
「私は暗闇の中にいて、人々は叫び、泣き、祈り、罵っていました。
彼は言いました。
「氷のように冷たい水の中で、しびれました。溺れるのがわかっていました」。
大声で叫びました。助けてくれ助けて!助けて!助けて!助けて!誰か助けて誰か助けて!どうすればいいの?どうしよう?"
目の前の暗闇の中、波の頂上にシルエットが浮かび上がったと。
夜はシルエットしか見えなかったそうです。
そして、スコッチの訛りで大声で叫ぶ声を聞いたのです。
主イエス・キリストを信じなさい。(使徒16:31)
そして、彼はそうしました。
彼は肉体的に安全になっただけでなく、復活した救い主イエス・キリストを信じることによって魂が救われたのです。
ジョン・ハーパーが北大西洋の氷の下に沈む前に最後にしたことは、魂をイエス・キリストに導くことでした。
では、イエス・キリストの性格についてさらにお話ししましょう。
イエス・キリストは慈悲深かったのです。
聖書の最も短い一節にはこうあります。
イエスは泣かれました。(ヨハネ11:35)。
マルコによる福音書6章34節で、イエスの憐れみは群衆に対して示されました。
ヨハネによる福音書6章5節のように、人々の身体的な必要を心配するようになったのです。
イエスは罪人に対する憐れみから、盲人を癒すことを余儀なくされました(マタイ20:34)。
彼は悪霊に取りつかれた人々を憐れみました(マルコ9:22、ルカ4:41)。
彼は貧しいらい病人を憐れみました(マルコ1:40)。
彼は迷える羊たちの羊飼いとなり、運命に翻弄される人々の救い主となりました。
彼は病人をいやし、悪霊を追い出し、言葉と行いにおいて愛しました。
さらにキリストの性格について言えば、彼は祈り好きでした。
福音の前に、救い主の偉大な祈りの生活を垣間見ることができますが、ヘブル5:7ほど強烈なものはありません。
と書いてあるところ。
その肉の時代に、強く叫び、涙を流して祈りと願いをささげたとき。
ルカによる福音書6章12節やマルコによる福音書1章35節を参照。
彼はバプテスマの前、誘惑の前に祈りました。
弟子たちを選ぶ前に
イエスは、御父への祈りを口ずさみながら地上の生涯を送られました。
あなたの御手に、私の霊をゆだねます。(ルカ23:46)。
彼はしばしば、山の中腹のような孤独な場所で、一人きりで祈ろうとしました。
一人で祈ることもあれば、一晩中一人で祈ることもありました(マタイ14:13 ルカ9:28 ルカ22:39)。
ヨハネによる福音書17章9節と20節でシモン・ペテロのために祈ったように。
ルカによる福音書、ルカによる福音書22章31節。
彼はゲッセマネで父の御心に従うことを祈りました(マタイ26:42)。
祈りによって誘惑に打ち勝ったのです。
奇跡を起こし、死を免れました。
そして神を讃えました。
イエス・キリストは柔和でした。
それは、争いに反対する心の態度でした。
柔和さは、他者に対するやさしさと優しさに表れていました。
イエスご自身も、自分は柔和で心が卑しいと言われました(マタイ11:29)。
パウロはコリントの信徒への手紙第一4章21節で、コリントの信徒にこの質問をしました。
それとも、愛と柔和の精神によってですか?
クリスチャンとして、私たちは柔和さを学ぶべきです。
ガラテヤ6:1にはこうあります。
そのような人を、柔和の精神をもって回復させなさい。
主のしもべは、努めず、すべての人にやさしくなければなりません。教えがたく。忍耐強く。自分に逆らう者を柔和に教えなさい。(2テモテ2:24-5)
主イエス・キリストは、傷ついた葦を折らず、煙の出る亜麻を消さないという柔和さを示されました。
彼は心の傷ついた者に優しく接し、背信者の中にある瀕死の火を焚きつけました。
さらに、イエス・キリストは謙遜でした。
彼は謙虚で、心が卑しい。
マタイによる福音書11章29節によると
自薦他薦を問わず。
"私は教養があり、ヘブライ語とギリシャ語の原典を知っているので、私のところに来なさい"
彼は言いました。
私は柔和で、心が卑しいからです。
自分の栄光ではなく、父の栄光を求めたからです(ヨハネ8:50)。
救世主は、プライドに応えるような素晴らしい広告での宣伝を避けました。
イエスの謙遜は、公人や罪人と付き合うことを許しました。
すると、公人も罪人もみな、彼の話を聞こうとして、彼に近づきました。すると、パリサイ人や律法学者たちはつぶやいて言いました。この人は罪人を受け入れ、彼らと一緒に食事をしています。(ルカ15:1-2)
彼はパウロの戒めに従い、身分の高い人を気にかけず、身分の低い人を見下しました。
聖書には、彼はへりくだったと書かれています。
謙虚さについて話していますね。
主は栄光から7つの大きな階段を下り、この地上に降りて来られ、衣と冠をつけた白い馬具の上ではなく、羊飼いの継ぎ目のない衣服、すなわち、上部に穴が開き、両側に腕用の穴が開いた袋を着て現れました。
王座の上に現れるかと思いきや、納屋に現れたのです。
栄光の主、塵に衣を鍛え。
イエス・キリストの謙遜は、法外な告発にも沈黙を守り続けました。
悪口を言われても、再び悪口を言わなかった人。苦しみを受けても、脅しませんでした。しかし、正しくさばきをなさる方に身をゆだねたのです。(第1ペテロ2:23)。
主イエス・キリストの謙遜は、汚れた漁師たちの臭い足を洗いに行くことを許されたのです(ヨハネ13:45)。
パウロは言います。
人の姿になられ、へりくだられました。そして、死に従順になり、十字架の死にさえ従順になりました。(ピリピ2:8)
さて、これを踏まえて。
このような素晴らしい道徳的性格を持った救い主がいるという事実を踏まえて。
聖なる男。
愛にあふれた男。
罪のない人。
思いやりのある人。
魂を愛する男。
祈り深い男。
おとなしかった人。
正直な男。
謙虚だった人。
使徒パウロの戒めに従わない手はありません。
キリスト・イエスにあったこの心を、あなたがたの中にも持たせてください。(ピリピ2:5)
悪魔のような真似をするのではなく、神の力と神の恵みによって再現しましょう。
聖霊の祝福された実り。
愛、喜び、思いやり、柔和、寛容、善意、親切。
そして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの謙遜。
外見だけでなく、内面的にもイエスのようになるために。
それこそが純粋な真実であり、祈りであり、この地球上で生きている、あるいはこれから生きていく男女の最高の野心であり目標なのです。
人生でこれ以上の目標はありません。
あなたが救われ、イエス・キリストを受け入れた後ほど、この人生であなた自身のために定めることのできる高い目標はありません。
あなたの道徳的な性格と精神的な性格を彼に似せて形成するために。
彼は、私たちが彼に身をゆだねるとき、私たちのうちに再びこの品性のある人生を生きたいと切望しています。
パウロはローマ人への手紙6章19節でこう言っています。
今、あなたがたは、義に仕える者を聖にゆだねなさい。
さて、この主イエス・キリストのご性格についての学びから。
私たちの仕事は、謙虚な表情で彼の真似をすることではありません。
結局のところ、オオカミは羊の皮を被っているのです。
そしてもうひとつ、羊の毛皮と柔和な伏し目がちの顔の謙遜。
手首の骨が折れそうな、でも私たちには関係ない牙を剥いた生き物の、唾液を垂らしながらのたうつ顎。
キリストの足跡をたどり、キリストのようになろうと。
もしキリストがここにおられたら......とか、そんな現代的なことはどうでもいいし、キリストがここにおられたらどうするかということにも特に興味はありません。
結局、彼はここにいるんですから。
なぜ死者を中傷するのですか?
彼はここにいます。
私たちは、トマス・ケンピスが聖なる禁欲的な生活を送り、社会から自分を切り離し、自分より少し上になろうとすることで、キリストを模倣したことに特に関心があります。
聖書はコロサイの信徒への手紙3章で、これを意志による礼拝と呼んでいますが、キリストに似ることとはまったく関係がありません。
同じ意味で、イエス・キリストの言葉を引用して回るような、自己中心的で思い上がった態度はやめましょう。
きのうも、きょうも、とこしえまでも、同じです。(ヘブル13:8)
そして、その力と奇跡を偽造しようとするのです。
この人たちはいつも、イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に同じであると引用します。
彼らは誰も水の上を歩こうとしなかったでしょう?
お気づきですか?
使徒的なしるしや奇跡はイスラエルに与えられたものであるにもかかわらず、この時代のものだと主張しようとしていることにお気づきですか?
ユダヤ人はしるしを要求します。(1コリント1:22)
偽者たちは異言や癒しについてはいつも熱く語るのに、水の上を歩こうとはしないことにお気づきですか?
そのことに気づいたことはありますか?
言わせてください。
主イエス・キリストは、水の上を歩くことに何の苦労もなさいませんでした。
シモン・ペテロも、救われた罪人と使徒にすぎません。
イエス・キリストが、昨日も今日も、そしていつまでも、しるしと不思議のうちに同じ力を持っておられるなら、それを公言しているあなた方は誰でも、何の問題もなく水の上を歩くことができるはずです。
使徒言行録2:38を説いているのはシモン・ペテロです。
ですから、キリストのようであること、イエスのようであることと、聖書をめちゃくちゃに読み、自分とは違うものであると公言し、イスラエルのために使徒たちに与えられたカリスマ的なしるしを持っているにもかかわらず、自分にはそれが全くないという偽善的な公言のために出てくることとは、ほとんど関係がないということを、私たちはすぐに学ぶことができるのです。
そんなことはないでしょう
初めて湖に降りて歩き始めたら、そうでないことにすぐに気づくでしょう。
でも、行く前はそうじゃなかったでしょう?
私たちが主イエス・キリストのようになることについて語るとき、それは黙示録2:2や2コリント11章に登場する偽の使徒のことを指しているのではありません。
そうではなく、生まれ変わった信者の中にキリストの心を持つことで、信者の中にイエス・キリストがおられるということです。
あなたがたのうちにおられるキリストは、栄光の望みです。(コロサイ1:27)
主は、よみがえられた救い主の働きを切に必要としている今日のこの世界で、ご自分を喜ばせ、聖霊の実を信者を通して現す人生を、信者から生み出すことができるのです。
これは、私たちがキリストのようであるとか、キリストのようであると言うときに言及されます。
さて、今日のセッションでは、主イエス・キリストのご性格についてじっくりとお話ししました。
次回のレッスンでは、キリストの教えを取り上げます。
次回は、主イエス・キリストの教えについて聖書が語っていることを取り上げます。
そして、この非常に重要なテーマから、キリストの教えだけでなく、キリスト論の見出しの下でキリスト論の議論を終えることになります。
しかし、キリストの命令でもあります。
キリストの奇跡
キリストの死。
キリストの復活。
キリストの昇天。
キリストの執り成し。
キリストの再臨とその結果。
これらは非常に重要なテーマです。
チェックしたいでしょうし、メモも取りたいでしょうから。
もしメモを取っていないのであれば、取っておくことをお勧めします。
参考文献を書き留め、家で個人的に勉強するために保管し、これらのことがそうであるかどうか聖書を調べてください。
あなたの言葉の入り口は光を与え、単純な者に理解を与えます。(詩篇119:130)
来週の同じ時間まで、主の祝福がありますように。