ウェブ神学セミナー:第32部
2024年5月5日
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ありがとうございます。
神様のみことばを学ぶ生徒の皆さん、先生方、こんにちは。
このセッションがどこに届いているか、どこから見られているかはわかりません。
このセッションは多言語で提供されており、私たちができる限り世界中に届けることを目標としています。
クリスチャンや、神のみことばを伝えることに関心のある教会による支援です。
これらのセッションは、神のみことばを愛し、神のみことばの伝播に関心を持つクリスチャンによって後援されています。
この目的のために、私たちは資金を募ることはありません。
私たちは学びを行い、これらの事柄をただ主に委ね、神の御言葉を扱うことに全時間を費やしています。
今日の神学セミナーでは、主イエス・キリストの復活という偉大な教理を扱います。
これは、キリスト論、主イエス・キリストの御業を扱うのにふさわしい主題の一つです。
そして、キリストの昇天についてはまだ扱っていません。
キリストの執り成しの御業。
キリストの再臨とその結果。
さて、復活の教理は新約聖書の基礎となる教理です。
復活は新約聖書の中で104回も言及されています。
キリスト教は生きている創始者を持つ唯一の宗教です。
ブッダは死にました。
梵天は死にました。
ムハンマドは死にました。
カール・マルクスは死にました。
もちろん、共産主義も宗教です。
宗教を創始した人で、死んで埋葬されていない人はいません。
そして、彼らの墓は見つけることができ、人々は彼らの骨を作ることができます。
それだけではありません。
カール・マルクスの骨があったとしても、あなたは立派な共産主義者になれるでしょう。
ムハンマドの骨があったとしても、あなたは良いイスラム教徒になれるでしょう。
ブラフマーの骨を持っていたとしても、あなたは良いブラフマンやヒンドゥー教徒になれるでしょう。
ブッダの骨があれば、あなたはまだ良い仏教徒でいられます。
しかし、もしあなたがイエス・キリストの指の骨一本でも持っていたら、あなたは良いクリスチャンにはなれません。
パウロが言ったように
キリストが死者の中からよみがえったと宣べ伝えられるなら、あなたがたの中には、死者の復活はないと言う者がいるのですか。
キリスト教の誇りと栄光は空の墓にあります。
「イエスはよみがえられた」。
そして、この世界が墓場から得た最高のニュース。
天使が言ったところ。
復活されたので、ここにはおられません。(マタイ28:6)。
イエス・キリストは十字架上でこう言われました。
終わったのです。(ヨハネ19:30)
パウロは言います。
キリストがよみがえらなければ、あなたがたの信仰はむなしい。あなたはまだ罪の中にいます。私たちは、すべての人の中で、最も惨めな者です。(1コリント15:17-19)
私たちはまだ罪の中にいます。
道に迷いました
私たちは嘘つきで、神様がキリストを死者の中からよみがえらせたと言う神の偽証人です。
もし彼が死からよみがえらせなかったら、私たちは嘘つきになってしまいます。
イエスは、死んで三日目に死者の中から復活すると言われました(マタイ16:21)。
そして、もし復活が真実なら、イエスは本当に神の子なのです。
そして、これは異教の神話やローマやギリシャの神秘主義的な宗教、バッカスやオルテウスやハデスや冥界やアナニアが出てくるとか、そういう戯言とは何の関係もありません。
私たちが扱っているのは、死からよみがえったという500人の証人がいるケースです。
そして、500人の証人は彼と飲み食いし、彼の体を扱いました。
これこそが、すべての奇跡の成否を決める奇跡なのです。
そして、もしこの、奇跡の中の奇跡が本当なら。
そうすれば、残りのすべてを信じるのはとても簡単です。
イエス・キリストに出会い、個人的な救い主として出会った私たちは、復活を信じることに何の問題もありません。
私たちは、個人的な問題について個人的に対処してくださった個人的な救い主として彼を知っています。
そして今日まで、私は大きな看板を掲げています。
「神様は死んでいません。
神様が死んだのなら、お悔やみ申し上げます。
死んでいない神様を推薦してもいいですか?
受肉し、苦しみ、死に、よみがえった神様を推薦してもいいですか?
さて、復活の証拠。
まず、空の墓。
天使は言いました。
彼はここにいません。
とおっしゃいました。
さあ、主が横たわっておられる所を見なさい。(マタイ28:6)。
彼らは中に入ったが(ルカ24:3)、主イエスの遺体は見つかりませんでした。
マタイによる福音書28章46節に天使たちの証言があります。
読みました。
なぜ、生きている者を死者の中から探し求めるのですか。彼はここにはいませんが、よみがえられたのです(ルカ24:5-6)
復活後、彼に話しかける人々がいます。
ピーター
メアリー
クレオパス
そしてトーマス。
イエス・キリストは、ルカによる福音書24章で、復活の後、食べたり飲んだりし、傷口を友人たちに見せました。
そして、第一コリント15:6によれば、500人がすぐに彼を見ました。
ステファノの殉教の際にも現れました(使徒7:56)。
彼はダマスコ途上でパウロに現れ(使徒9:5)、こう言いました。
主よ、あなたは誰ですか?
主は言われました。
わたしは、あなたがたが迫害しているイエスです。
私たちはまた、彼が生きた救い主であることを証明した何百万もの人々の証言による証拠も持っています。
あるいは、使徒言行録1章3節にあるように、多くの無謬の証拠によって。
ある人は真理だと言いますが、正しいテキストには多くの無謬の証明が書かれています。
この聖句もまた、一部の人々によって干渉されていることがわかります。
そして、このような本文への干渉は、ラオディキア教会の入口を示しているに過ぎません。
神のみことばを守っていたのはフィラデルフィア教会時代です。
そして、すべての教会の中で、フィラデルフィヤ教会だけがみことばを守っていたと言われています。
むかしむかし、二人の弁護士が復活に関するこれらの事柄について調査を依頼されました。
そして、キリストが死者の中からよみがえったとは信じていませんでした。
そして、ある説教者が、まずマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる復活の記録、次にパウロの回心について学ぶよう彼らに挑みました。
そしてこの2人の弁護士は、この2つの案件を3カ月ほど研究するまでに
路上でお互いを避け、最後に再会してお互いを非難したとき。
最終的に、二人とも勉強の中で確信を得て、救い主である主イエス・キリストを受け入れたと告白しました。
二人ともクリスチャンだったしね
復活の証拠はどんな法廷でも通用します。
法律学の法則では、目撃者が証言し、その証言が一致した場合。
そして、その証言が文書化され、その文書化された証言を覆す動かぬ証拠や最終的な証拠が提出されなかった場合。文書化された証言は有効であり、無効にしたり破棄したりすることはできません。
キリストの復活以来、キリストが死からよみがえらなかったという決定的な証拠は何一つ出ていません。
ですから、キリストが死者の中からよみがえったということは、法廷でも証明されています。
さて、キリストの復活については、時折、さまざまな説明が復活します。
最も有名なのは、2~3世紀に遡る、いわゆるスウーン説。
詐欺説。
神話理論。
幽霊説も。
キリストの時代の1、2世紀までさかのぼりますが、時折、報道によってニュースとしてよみがえります。
まず、詐欺説です。
詐欺説では、すべての話はデマだったと教えられています。
意図的な偽者でした。
歴史と聖典は、そんな馬鹿げた説を真っ向から否定しています。
しかし、アレからデマを巨大なデマにすることはできませんし、アレが生み出したものから見れば、意図的な偽者です。
あのようなデマの偽者が、1500万から2000万人の聖人の命を生み出したことがあったでしょうか。
彼らはデマのために死んでいたんですね?
もしそれが単なる幻覚だったなら、棚や火やトングや鞭や車輪や滑車や挟み棒に耐える力を与えてくれたのは何だったのでしょう。
あれは詐欺で、デマでした。
そうでしたっけ?
400万人以上の人々が、死の扉をくぐり、苦痛の極みにあったとき、勝利を叫び、神様を賛美しながら、喜び勇んで出て行ったという臨終の証言はどう説明するのですか?
無神論者や無宗教者、霊能者でさえ、そういう死に方をする人はいません。
TMの擁護者でさえ、なぜそのように外出しないのですか?
次に、いわゆるスーン理論。
イエスは気絶しただけで、兵士たちはイエスを殺さなかったという説。
そして、冷たい墓と香辛料によって、彼は蘇り、生き返ったのです。
そうでしょう?
特に、防腐処理に使われた香辛料には毒があり、彼を死に至らしめたでしょう。
そして、もしイエスが聖書に書かれているように、命がけの鞭打ちをするようなことがあれば。
気絶していた彼が、石を押し戻すだけの力があったと思いますか?
むしろ注目に値すると思いませんか?
幻覚説があります。
弟子たちはイエスに会いたがっていたし、イエスが死からよみがえるだろうと思っていたので、想像の中でイエスを見たと思ったのです。
そんなバカな。
聖句によれば、弟子たちは不信仰に染まっており、彼を見てもほとんど信じようとせず、トマスも彼に触れなければ信じようとしませんでした。
そして、死からよみがえられた後、彼らはユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけた上の部屋にいました。
みんな、彼が死からよみがえったなんて知らなかったんです。
幻覚でしょう。
自分たちも彼に触れたと想像したのでしょう。
彼も一緒に食べたり飲んだりしたと想像していたのでしょう。
500人分のイマジネーションがあるんですね。
見たのは想像だけ?
まず第一に、彼には肉と骨がありました(ルカ24:39)。
それは栄光の体でした(ピリピ3:21)。
それは決して死ぬことのない不滅の体でした(ローマ6:9)。
それは霊的な体でした(1コリント15:44)。
その中には血はなく、栄光を受けた肉と骨でした(1コリント15:40-41)。
ヨハネによる福音書20章19節によれば、この霊体は堅い壁を通り抜ける能力を持っています。
そして、意のままに見えたり見えなかったりする力をお持ちです(ルカ24章)。
そして、クリスチャンが適合させられるこの復活の体(ローマ8:29)は、罪のない完全な33歳の血のない人の体です。
キリストは言われました。
見よ、私の手と足を。私を扱ってご覧なさい。霊には肉も骨もありません。(ルカ24:39)。
パウロは言います。
主は、私たちのみすぼらしいからだを変えて、ご自分の栄光のからだのように造ってくださいます。 ピリピ3:21
自然な体を蒔くのです。
それは霊的な体を育てました。
血と肉は神の国を受け継ぐことはできません。(1コリント15:50)
そして、主イエス・キリストが死からよみがえられたとき、ヨハネによる福音書20章19節にこう書かれています。
そして同じ日の夕方、週の初めの日でした。ユダヤ人を恐れて弟子たちが集まっていた戸が閉ざされると、イエスが来て、真ん中に立たれました。そして、彼らに言われました。あなたがたに平和があるように。
ローマ人への手紙8章29節に、神様は私たちを御子のかたちに造り変えるように定められました。
とジョン。
愛する者よ、今や私たちは神の子です。(女性も含まれます)。私たちが何になるかは、まだわかりません。しかし、私たちは知っています。なぜなら、私たちは、その方のありのままの姿を見るからです。(第1ヨハネ3:2)
私たちの造り変えられた復活の体は、イエス・キリストの体に造り変えられます。
それは、彼が多くの同胞の最初の者となるためです。
聖書に勝るものはありません。
イエスはどのようにして死からよみがえられたのですか?
まず第一に、父の力によってです(使徒2:24)。
キリストご自身の力によって(ヨハネ2:19)。
そして、聖霊の力によって(1ペテロ3:18)。
復活の結果は?
まず第一に、それは神様の存在を証明するものです。
神様がいないのなら、キリストはどうやって死からよみがえったのですか?
生ける神様が復活させてくださったからです。
そこに神様がいるのなら、死者を蘇らせることができるはずです。
もし天国に神様がおられるなら、この地上にいるすべての男女と子供が、この地上で生きた人生について、神様に説明しなければなりません。
そして、その唯一の方法は、その死んだ人が将来の日に死からよみがえることです。
だからアテネの哲学者たちはみな、肉体の復活を否定したのです。
プラトン、ソクラテス、アナクシマンデル、デモテネス、ピタゴラス、その他すべての人々が肉体的復活を否定した理由です。
自分たちの高慢でエゴイスティックな不潔で不道徳な生き方に責任を負わされたくなかったのです。
だから聖書は言ったのです。
神様は賢い者を策略にはめます。(ヨブ記5章13節)
そして
主は、賢い者の考えがむなしいことを知っておられます。(1コリント3:20)
世が知恵によって神を知らなかったとき、信じる者を救うために、説教という愚かさによって神様は喜ばれたのです。
神様がいるなら、裁きがあるはずです。
もし裁きがあるなら、肉体的な復活がなければなりません。
復活はキリストの神性を証明しました。
パウロは言います。
イエス・キリストは、死者の中からの復活によって、力ある神の子であると宣言されました。(ローマ1:4)
復活は、救いが過去形で達成された事実であることを意味します。
イエスは、十字架で死なれたときに救いは完了したと言われましたが、復活はそれを裏付けるものです。
つまり、本当の救いは「する」ものではなく、「される」ものなのです。
そして、天国へ行くふりをして、業によって地獄へ行こうとする人々。
彼らは一度も救われたことがありません。
そして、神様の救いと人間の救いの本当の違いは、とてもシンプルです。
人は自分を正当化しようとするとき、いつも神様がなさったことを否定しながら、自分を正当化するために業を行います。
聖書的な救いでは、自分が何をしているかではなく、キリストが何をしてくださったかを受け入れるのです。
クリスチャンは救われるために働くのではありません。
クリスチャンは救われるために働くのではありません。
クリスチャンが働くのは、救われているからです。
復活は、すべての人がよみがえることを保証しています。
正しい者は永遠の命へ。
不義を行う者は、怒れる審判に直面し、断罪されます。
復活は、イエスが次の約束を果たすための準備です。
わたしはまた来ます。(ヨハネ14:2、14:28)
そして最後に、復活の力(ピリピ3:10)は、クリスチャンが今味わうことのできる経験です。
それは、復活された主イエス・キリストが私たちのからだの中で新たに命を全うされることによって、私たちにもたらされる新しい命の中で生きるということです。
パウロが言うなら
私たちがこの宝を土の器に納めているのは、その力のすばらしさが私たちのものではなく、神によるものであるためです。(2コリント4:7)
そして、復活はあらゆることに関係しています。
キリストの再臨
キリストの神性の証明。
救いの仕上げ。
そして、クリスチャンが神様の目にかなう生き方をする力と生き方。
聖書にはこう書かれています。
恐れおののきながら、自分自身の救いを実現しなさい。(ピリピ2:12)
それは、救われるために働くこととは何の関係もないと、いつも注意深く伝えています。
次の節にはこうあります。
神様が、あなたがたのうちに、御心に適うように、また御心に適うように働いてくださるからです。
生まれながらにして救われた神の子は、聖霊が宿る土の器です。
復活したキリストを象徴し、栄光を与えるために来られる聖霊。
キリストを証しすること。
そして、キリスト教に来るべきものを示すために。
クリスチャンを慰め、復活の命に力を与えるため。
だまされないでください。
アダムとエバを創造した神様が、イエス・キリストとして受肉されたのです。
彼は、遺伝暗号や遺伝暗号に含まれる数式、染色体のリボソーム、核タンパク質の材料に含まれるアミノ酸や酵素について、あなたの先生に教えた最後の3000人の博士よりも詳しいのです。
そして神様がその体を復活させるためにしなければならないことは、原子を再構成して組み立てることだけです。
問題ありません。
1,500億個の雪の結晶の中から1つ1つ違う雪を作ることができる神様が、独善的な人間の体を組み立てるのに苦労すると思いますか?
問題ありません。
復活は、聖書的キリスト教が成り立つか否かの基盤です。
だから何世紀にもわたって、キリストの遺体や遺体の一部を見つけようとしてきたのです。
あるいは、エルサレムに行って、十字架で死んだかもしれない犯罪者の骨を見つけようとして、もしその骨がイエス・キリストの骨だったらと考えるバカがいるかもしれないと期待して。
復活はキリスト教の証拠のジブラルタルです。
それは不誠実な不可知論と無神論のワーテルローです。
そして、すべてはその教義にかかっているのです。
キリストが死からよみがえったのなら、無神論も共産主義も不可知論も不貞も何の価値もありません。
もしキリストが死からよみがえらなかったら、私たちは生まれながらにして信仰を持つことになります。
私たちはこの地球上で最大の嘘つきです。
キリストが死からよみがえらなかったとしても、あなたが共産主義者であろうと、無神論者であろうと、社会主義者であろうと、プロテスタントであろうと、ユダヤ教徒であろうと、道教徒であろうと、仏教徒であろうと、何の違いもありません。
人はみな自分の神様であり、どんな神様も虫に食われるでしょう。
もう一度言います。
キリストが死からよみがえらなかったのなら、誰の意見も同じです。
キリストが死からよみがえらなかったら、どんな宗教も他の宗教と同じです。
そして、すべての人は自分自身の神であり、自分自身の権威の基準と自分自身のルールを持っています。
適者生存の法則。
弱肉強食。
それだけです。
死からよみがえったか、よみがえらなかったか。
墓の力を打ち砕くのですから、復活はより大きな力です。
レーニン・マルクス・エンゲルス・ダーウィン・ハクスレー・ワイスコフや毛沢東が教えたことで、彼らが埋葬された後、地面の穴から抜け出すことができたものは何もありません。
今日、私たちは誇らしげにこう言います。
死よ、その刺はどこに?墓よ、あなたの勝利はどこにあるのですか。(1コリント15:55)
私たちは復活した救い主に仕えています。
彼は今日も世界にいます。
人が何と言おうと、私は彼が生きていることを知っています。
私は彼の慈悲の手を見ます。
歓声が聞こえます。
そして、私が彼を必要としているとき、彼はいつも近くにいるのです。
勝利は、勝利するイエス・キリストを戦闘的な教会の長として前進する私たちのものです。
負けるわけにはいきません。
私たちは勝ち組です。
私たちは一時的なこの人生で失うかもしれません。
でも、これからのことは別です。
外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされるからです。
私たちの今の軽い苦しみは、私たちのために、はるかにまさる永遠の栄光の重みをもたらすからです。 私たちは、見えるものを見ているのではありません。 見えるものは一時的なものだからです。 しかし、見えないものを見ているのです。(2コリント4:17)
今の苦しみは、私たちのうちに現される栄光に比べるに値しません。
ですから、堅く、動じない者でありなさい。主の御業にいつも満ちあふれなさい。それは、あなたがたの労苦が主にあって無駄でないことを知っているからです。(1コリント15:58)
このセッションでは、主イエス・キリストの復活という偉大なテーマを取り上げました。
そして、キリスト論に関する私たちのコラムのひとつ。
キリスト論の次の小見出しでは、キリストの昇天について学び、この問題を扱う節をまとめます。
ヨハネ14.
ヨハネ16.
ヨハネ6章と20章
詩篇68篇
詩篇110篇
使徒言行録1章
ルカ24.
そのほかにもたくさんの箇所があります。
来週の神学セミナー・オブ・ウェブのセッションにぜひご参加ください。
詳細な聖典研究を取り上げるところ。
主イエス・キリストの昇天という偉大な主題について。
それまでは、主の祝福とごきげんよう。