ウェブ神学セミナー:第36部
2024年6月2日
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神様のみことばを学ぶ皆さん、教師の皆さん、ごきげんよう。
これは、偉大な教理を扱う一連の神学セッションの36番目のレッスンです。
御子と御父との関係。
キリストの人間性
キリストの罪のなさ
キリストの人格的な教え、命令、奇跡。
キリストの死
復活。
そして昇天。
そして今、キリストの再臨を扱う36課に来ます。
第36課と第37課、第38課と第39課。
これらのレッスンはすべて、この偉大な主題を扱います。
主イエス・キリストの再臨です。
さて、これはとても広大なテーマです。
4回ではとても終わりません。
そこで、この4つのセッションについて、最も簡潔なタイプのスキャニングを行います。
結局のところ、キリストの再臨は両約聖書の主要テーマです。
聖書には500以上の節があり、直接的に、あるいは間接的にこのテーマを扱っています。
そして、30分の4回のセッションで、このテーマを十分にカバーすることは不可能でしょう。
しかし、時間の許す限り、できる限りカバーしたいと思います。
キリストの再臨についての最初のセッションは、ウェブの神学セミナーの36番目のレッスンです。
さて。
再臨とは、イエスが魂を受け取りに来られることだと教える人もいます。
しかし、それは全世界に見える公の啓示ではありません。
聖書には次のように書かれています。
見よ、すべての目は彼を見るでしょう。(黙示録1:7)。
彼に会うときはいつも、誰かが死ぬときではないんです。
イエス・キリストの再臨を主の天使の到来と取り違えている人々。
あるいは、救われた魂を天国へ送り届ける天使たちが、聖書の勉強に少し戸惑っているのかもしれません。
イエス・キリストは言われました。
わたしは再び来て、あなたがたをわたしのもとに迎え入れます。(ヨハネ14:3)
そして、これはイエス・キリストの再臨を指しているのではありません。
もし主イエス・キリストが、死んだすべてのクリスチャンを迎えるために起きて降りてこなければならないとしたら、1日に5000回くらい起きていることになります。
使徒言行録1章10節から11節には、前回のレッスンで学んだ昇天のことが書かれています。
彼が上って行かれる間、彼らがじっと天の方を見ていると、見よ、白い衣を着た二人の男が彼らのそばに立っていました。そして、こう言いました。ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見上げているのですか。このイエスは、あなたがたのところから天に上げられます。あなたがたは、イエスが天に上って行かれるのを見たのです。
そして、再臨についても書かれています。
まず個人的なこととして。
セカンドボディ
目に見えて3番目。
そしてパワーで4位。
これは、イエス・キリストが個人的に来られず、肉体的にも来られなかったエルサレムの滅亡ではありえません。
クリスチャンの死に際してキリストが再臨することはありえません。
目に見える形で来るわけでもなく、力を持って来るわけでもありません。
イエス・キリストの再臨をキリスト者の死に限定しようとする現代の試み。
あるいはペンテコステの霊の到来。
エルサレム滅亡とか、そういうアポクリファ的なナンセンスな話。
それは、この地球を征服するために彼が戻ってくるということを、この人たちが信じていないからです。
そしてもちろん、聖書は彼の主な使命が世界政府を転覆させることだと明確に教えています。
国際銀行家、イルミナティ、権力者たち。
この世の王は、再臨のとき、私たちの主とそのキリストの王となります。
そして、これは異邦人支配の打倒です。
目に見える形で、力強く。
救い主が最初に来られたのは、屈辱の中でした。
そうです。
最初に来られたとき、彼は子羊でした。
再臨の時はライオン。
最初の来臨のとき、彼らは彼の頭にいばらの冠をかぶせました。
再臨の際には、王の中の王であり、多くの冠を持つ主の主です。
最初の来日では、唾を吐きかけられ、顔をひっぱたかれました。
最初に来られたのは屈辱の中でした。
しかし、彼の2番目は目に見え、力をもって栄光をもたらすでしょう。
今です。
イエス・キリストの再臨に関しては、大きく分けて3つの見解があります。
その第一は、千年王国以後の見解と呼ばれるものです。
黙示録20章に登場する千年を意味する「ミル・アノム」から。
ポスト・ミレニアルとは千年後のこと。
つまり、再臨は千年王国時代に先行するのではなく、その後に起こると説いているのです。
このシステムによれば、人は自分の力で王国をもたらすのです。
彼らが世界を平和の千年という状態に整えたとき、イエスが戻って来られるのです。
すべての共産主義者はポストミレニアルです。
すべての無神論者はポスト千年王国です。
すべての無宗教者はポスト・ミレニアルです。
本当です。
無神論者、無宗教者、共産主義者は、キリストの再臨をまったく無視しています。
しかし、これらの人々は皆、人間の人間に対する非人間性を終わらせることで、地球をより住みやすい場所にすると教えています。
完全な王国がもたらされるまで、拷問し、投獄し、訴訟し、仲間から盗み、嘘をつくことによって。
これはヘーゲル・エンゲルス・カール・マルクス・スターリン・レーニン・トロツキー・カストロ毛沢東の教えです。
そして、あなたが住んでいる大学の教授の80%。
ポスト・ミレニアルと呼ばれています。
それは、人類が教育を通じて自らの努力をすることで、あらゆる区別を平準化し、この地上に完璧な平和の支配をもたらすことができるという進化論に他なりません。
すべての区別を平準化し、共通分母にするのであれば、最終的には天国を地獄のように、地獄を天国のようにしなければなりません。
さて、ここで気が重くなることがあります。
対立するものを取り除き、現実に向かいたいのであれば、その行き着く先は明らかに、天国には地獄があり、地獄には天国があるということです。
あるいは、聖書にあるように。
悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ者に災いあれ。(イザヤ5:20)
これは、18世紀から19世紀にかけて大流行したポスト千年王国説です。
小麦 聖書が宣教され、多くの改宗者が出たので、迷信深い宗教家たちは王国が来ると思っていました。
第二の見解は、アミレニアル(千年王国)的見解と呼ばれています。
もちろん "a "は、この言葉に対する矛盾を意味しています。
有神論者は神様を信じています。
無神論者は神様を信じていません。
不可知論者は知る者であり、不可知論者は知らない者です。
千年王国とは、千年の統治を信じる人のこと。
a "すなわち千年王国は存在しないと信じる人。
彼は1000年という文字通りの期間を信じていません。
しかし、キリストが来られれば、最後の審判ですべてがすぐに終わると信じています。
長老派とローマ・カトリックによって採用され、王国が現れなかったときには他の多くのグループにも採用されました。
第一次世界大戦直前。
チャーリー・ダーウィンを信じていた宗教家たちは皆、王国が来ると思っていました。
第一次世界大戦が彼らを動揺させ、わずかに残ったポスト・ミレニアル世代は第二次世界大戦であっという間に消し去られました。
そして今、人間が自らの業によって王国をもたらすことができると信じているのは、フリンジグループだけです。
クリスチャンは信じていません。
現在、救われた人々は、キリストが地上に再臨しない千年王国を信じるか、あるいは千年王国を信じるかのどちらかです。
千年王国説とは、この地上には千年の平和はないという考え方です。
王が来られるまでは、地上の平和も、人間の親善もありえません。
千年王国説は
悪人には平安がない、と主は言われました。(イザヤ48:22)
平和の王子が来られるまで。
戦争と戦争のうわさ。
主が来られ、その後に千年王国が続きます。
前千年王国説では
今世紀に入ってからの教会の歴史において、魂を獲得した偉大な人物は皆、千年王国前派でした。
そして、再臨にはもう一つの問題があります。
千年王国に関してだけでなく、携挙と呼ばれるものに関してもです。
携挙とは、主が聖徒たちを迎えに来られ、聖徒たちが空中で主と出会う秘密の出来事です(1テサロニケ4:15-17)。
主の言葉によって、あなたがたに言います。生きていて主の到来まで残る私たちは、眠っている者たちを妨げることはできません。主ご自身が、大天使の声と神のラッパの音とともに、叫び声をあげて天から降られるからです。そして、キリストにあって死んだ者たちが、まずよみがえります。そして、生きていて残っている私たちは、彼らと共に雲の中に捕らえられます。空中で主と出会うために。そうして、私たちは主とともにいるのです。
黙示録は公開されています(黙示録1:7)。
主が聖徒たちと共に来て、千年王国を築かれるとき(第1テサロニケ3:13)。
携挙と啓示は区別すべきです。
この線で。
主イエス・キリストが初めて来られた時、まずご自分の弟子たちに秘密裡に現れたというのは興味深いことです。
そして、救われた人々だけが、飼い葉桶の中で主の誕生を見ました。
そして30年後、バプテスマのヨハネの伝道所で敵の前に姿を現しました。
同じように。
キリストの再臨は、まずキリストを知る者たち、すなわち聖徒たちに対して内密に行われます。
そして、その7年後(ダニエルの70週目の終わり)、敵の前に怒りのうちに出現します。
現代の予言者たちの間にあるもう一つの未解決の問題は、教会が艱難を通過するかどうかということです。
ですから、艱難前、艱難中、艱難後と呼ばれる論争があります。
聖書に照らし合わせれば、これらはすべて無に等しい。
聖書に照らし合わせると、ダニエルの70週目は、業が救いに入る時です。
キリストの体がなくなったとき、バプテスマの再生が使徒言行録2:38と結びつくとき。
7日目(土曜日)が守られているところ、神殿礼拝があるところ。
そして、教会時代には見られなかった、救いと結びついた働きの要素。
ですから、教会が艱難を通過するというのは、全くの異端を教えることです。
バプテスマを受け、7日目を守ることで天国に行こうとしている人々が教えている異端とよく似ています。
さて、キリストの再臨に関する預言は数多くあります。
主の初臨は預言され、その預言は文字通り実現しました。
そしてこのことは、再臨の預言もまた、比喩的な意味や霊的な意味ではなく、文字通り成就するという大きな確信をクリスチャンに与えるはずです。
それは預言者たちによって予告されていました。(ダニエル7:13)。
それはイエス・キリスト御自身によって予告されていました。(マタイ25:31)。
それはパウロによって予告されていました。(1テモテ6:14)。
それは天使たちによって予告されていました。(使徒1:10-11)。
預言者たちやイエスやパウロや天使たちが、イエス・キリストがやって来ると告げたとき、彼はやって来ます。
そして、今挙げた予言はどれも、初臨で成就するものではありません。
ダニエル書7章13節に
私は夜の幻を見ました。見よ、人の子のような方が、天の雲とともに来られました。
それは初来日ではありません。
マタイによる福音書25章31節
人の子が栄光を帯びて来る時聖なる天使たちも皆、彼とともに。栄光の御座に着き
初来日ではそんなことは起こりませんでした。
パウロは言います。
私たちの主イエス・キリストが現れるまで、この戒めを汚れのないように守りなさい。(1テモテ6:14)
初来日ではありえないこと。
初来日は過ぎました。
さて、キリストが来られる目的は何でしょうか?
まず第一に。
主なことは、聖徒の救いを完成させることです。
主は私たちを罪の力と罰から救い出してくださったのですが、その後、私たちは罪の前から永遠に救われるのです。
私たちの救いを、私たちは忘れてはなりません。
アドベントまでは完成していません。
パウロがクリスチャンは希望によって救われると語るとき(ローマ8章)。
私たちが注意しなければならないのは、彼が「救われることを願う」という無意味なことに重きを置いていないことです。
ローマ人への手紙8章に使われている「希望」という言葉は、再臨の時の肉体の贖いについて言っているのです。
そして、パウロが私たちは希望によって救われると言うとき、そこには何の言及もありません。
「助かってほしい」。
「私は救われたようです」。
"私は救われたと思います"
「私はたぶん助かっている」。
そんなことはありません。
それどころか。
パウロが、私たちは希望によって救われていると言っているのは、イエス・キリストが私たちの体を救うために再臨してくださるという祝福された希望のことを言っているのです。
もちろん、それはまだ償還されていません。
私たちの魂は贖われました。
私たちの体は頭金で購入したものです。
そして、その土の器に預けられた御霊の願い。
しかし、土の器は、主イエス・キリストの再臨において私たちの完全な救いによって贖われるまでは、墓場と虫に向かっています。
さて、次に。
イエス・キリストは、その聖徒において栄光を受けるために再臨されなければなりません。
私たちは、この時代のイエス・キリストが人から軽蔑され、拒絶されていることを忘れてはなりません。
悲しみの人、悲しみを知る人。(イザヤ53:3)
この世界は決して彼を必要としていません。
それは決して彼を持つことはありません。
そして、彼のことを自慢する私たちは、世間から見れば愚か者のように見えます。
今、世間が彼の教えを一瞥して誓うかもしれないのは事実です。
この世界には、これまで明るみに出されることのなかった、明るみに出されるべきものがたくさんあります。
イエス・キリストが二度目に来られるとき、これらのことは明るみに出され、明らかにされるでしょう。
誰がケネディを撃ったのか知りたければ、その方法をお教えしましょう。
父親を知っています。
誰が殺したのか
何で殺したのか
彼が彼を殺したとき
彼が彼を殺そうと計画したとき。
そして、それをどのように実行したか。
神様は何でもご存知で、天国に行けば私たちの質問にすべて答えてくださいます。
とおっしゃいますね。
「いつ?
第一コリント4:5。
ですから、主が来られるまでは、時の前に何事も判断してはなりません。主は暗やみの隠れたものを明るみに出し、心の計らいを明らかにされます。そのとき、人は皆、神様をほめたたえるのです。
イエス・キリストは裁きに来られます。
聖書は、キリストの裁きの座で聖徒を裁くことについて述べています。
そして、再臨の時に国々を裁くのです(マタイ25章)。
彼は支配するために来たのです。
黙示録11章15節にはこうあります。
この世の王国は、私たちの主とそのキリストの王国となります。そして、彼はとこしえに治められます。
イエス・キリストは、ルカ1章の御使いによってなされた偉大な約束の成就を決して与えられていません。
彼はダビデの王座を支配し、統治すると言われましたが、彼は一度もそこに行ったことがありません。
彼は血まみれの十字架と空の墓にしか行ったことがありません。
そして、この世の王国がイエス・キリストに与えられる時が来るでしょう。
もしあなたが、罪も悲しみもない政府ができる時を待ち望んでいるのなら。
そして、そのアラバスターの輝きが人間の涙によって損なわれることのない都市。
それがイエス・キリストの再臨です。
バター1パウンドを買うお金とか、そんなくだらないものを買うために、リベートを待っているんじゃないんですか?
税金が上がるところ。
完璧な政治を望むなら、それはローマ法王ではなく、イエス・キリストにあります。
ローマ法王に希望はありません。
国連に希望はありません。
悪気はないんです。
とデビッド。
私の希望はあなたにあります。
世界政府と完全な平和への希望がローマ法王や枢機卿団にあるのなら。
あるいは国連や世界銀行。
ビックリしますよ。
そして、それは好意的に言っているのです。
それは控えめな表現です。
カレンダーは3つの世界大戦のものです。
その最初の世界大戦は、黙示録6:3-5に記されています。
第二次世界大戦は黙示録19:10-18にあります。
そして、第三次世界大戦は黙示録20章にあります。
イエス・キリストの存在なしに、完全な政府、地上の平和、人間への善意を求めるのであれば。
長い間待つことになりますよ。確かに、イエス・キリストは私たちをご自分のもとに迎えるために来られます。
ヨハネによる福音書14章3節に約束されているとおりです。
わたしは再び来て、あなたがたをわたしのもとに迎えるでしょう。私がいるところに、あなたがたもいるように。
そして最後に、彼は死を破壊するためにやってきます。
第1コリント15:25-26にこうあります。
彼は、すべての敵をその足の下に置くまで、治めなければならないからです。最後に滅ぼされる敵は死です。
そしてもちろん死。
人類の惨劇。
私たち全員に共通すること。
今、私が話しているみんなにとっての最後の終わり。
イエス・キリストが現れない限り、病院のベッドか墓場、あるいはその両方。
でも、私が今言ったことの要点はお分かりいただけたと思います。
主イエス・キリストが遅れるなら、あなたは病人か死人、あるいはその両方になるでしょう。
それはあなた方全員に言えることです。
肉はすべて草。
キリストは人間の最大の災いである死を滅ぼすために来られたのです。
そして、その生涯を通じて、人々を救い出すために。
死を恐れ、死ぬことを恐れていたからです。
さて、キリストはどのようにして来られるのでしょうか?
まあ、前にも言ったようにね。
聖書は、彼の来臨について実に2つに分けて教えています。
2つの部分に分かれています。
まず、携挙と呼ばれるものがあります。
携挙という言葉は神のみ言葉には出てきません。
携挙とは、ラテン語で "rapto"(ラプト)といい、"掠め取る"、"追い出す"、"素早く捕らえられる "という意味です。
それ以外に何と呼べばいいのかわかりません。
携挙という言葉は確かに適切です。
突然、皮膚から引き剥がされ、新しい体に改造され、この宇宙から光速の速さで出て行くことを想像してください。
それを携挙と呼ばないのであれば、何を携挙と呼ぶのか分かりません。
しかし、それは携挙について語っています。
そして、黙示録について語っています。
まず、携挙について。
密かにです。(1テサロニケ5:2マタイ24:44マタイ24:50)。
この携挙は、まず雷のように起こります。(ヨブ記37:1-4)。
この雷は大天使の声であり、神のラッパです。(第1テサロニケ4章)。
この雷のような音は、救われていない人々にはコバルト爆弾か水爆と受け取られるでしょう。
そして政府は警告を発し、ホットラインは騒然となるでしょう。
そして、彼らは持っているものすべてを呼び出して投げ始めます。
この携挙は一瞬のうちに、瞬く間に起こります。
そうなれば、聖人の体はただちに真新しい体に変えられます。
そして、イエス・キリストのようになるでしょう。
それは一瞬のうちに、瞬く間に起こるでしょう。
この光は、東から西へと輝く稲妻のように、世界中を照らすでしょう。
しかし、クリスチャンは自分の名前が呼ばれるのを聞くでしょう。(ヨハネによる福音書10章1節から10節)。
クリスチャンは、この雷の中で自分の名前が呼ばれるのを聞くでしょう。
そして、箴言と黙示録4章と11章にある3つの言葉を告げられます。
携挙の合図となる3つの言葉は "come up hither"。
そして、ラッパが鳴り響くと、大天使の声。
雷が鳴って、世界が明るくなるんです。
クリスチャンは自分の名前が呼ばれるのを聞くでしょう。
そして、彼は一瞬のうちに、瞬く間に旅立つでしょう。
そして、彼の血を彼の後に残すでしょう(1コリント15章48-50節)。
血と肉は神の国を受け継ぐことはできません。
教会の礼拝で、主が来られたら。
教壇には血まみれの衣服の山と、足首の深さまで流れ落ちる血しか残らないでしょう。
教会の礼拝に残された救われていない人々は、気が狂って正気を失い、間違いなく狂い始めるでしょう。
そして、もし携挙が夜の礼拝で起こるなら、高速道路のパトロール隊員が教会にやってくるでしょう。
ヒステリックに歯ぎしりをしている数人の頭の悪い人たち以外は、まったく誰もいないでしょう。
舌を噛んだり、頭を壁にぶつけたり、昏睡状態になったり。
ハイウェイ・パトロールが来て、床は血だらけ、シートは服だらけ。
50台から500台の車が、運転手もいない、ライトも点いたままの状態で、外でクラッシュしています。
携挙は一瞬、瞬く間に起こります。
そして、艱難ではなく主を探しなさいと言われています。
艱難後携挙論という現代の意味不明な学派が、艱難前携挙論などという馬鹿げた本を書き、それを証明しようとしています。
しかし、もちろん、私たちの聖書を知っている人たちは。
偽物は見ればわかります。
私たちは主を探しなさいと言われました。
艱難辛苦を探せとは言われていません。
聖書には、艱難辛苦を探せというような箇所は一つもありません。
私たちは主イエス・キリストを探しなさいと言われています。
彼は艱難辛苦の前にやって来ます。
わかりました。
私たちは、艱難ではなく、天から主イエス・キリストを探し求めるのです。
私たちは、大患難やダニエルの70週ではなく、彼が私たちのために来るのを待つように言われています。
そして携挙の後、未知の間隔でダニエル70番目の小麦が起こります。
そして、ダニエル書の70週目は携挙が起こるとすぐに始まると仮定していますが。
神の言葉には、携挙が起こると同時にそれが起こると信じさせるような権威も、また神の言葉にも何もありません。
携挙には日付がありませんから。
ダニエルの70週目の終わりははっきりしています。
ダニエルの70週目の終わりは、秋の幕屋の祭り、ヨム・キプールです。
でももちろん、これがアドベントです。
イエス・キリストの公の到来、黙示録。
ダニエル70週目がすぐに起こると仮定する根拠は神のみ言葉にはありません。
携挙は歴史上いつでも可能だったからです。
そして実のところ、パウロは彼の時代に携挙を求めていました。
したがって、携挙は未定です。
そして、ダニエルの70週目が始まるのは、それからしばらく後のことです。
正確な間隔は知らされていませんが。
もちろん、そうです。
ダニエルの70週目の後、キリストの再臨の第二段階。
それが黙示録です。
救われた人々だけが密かに携挙されます。
黙示録は、王の王、主の主として敵に公開されています。
ヨハネは黙示録1章7節でこう言っています。
見よ、主は雲とともに来られます。そして、すべての目が彼を見、彼を刺し貫いた者もまた、彼を見るでしょう。
マタイ24:30とテトス2:13も、キリストの到来が2つの部分に分かれているという、この非常に重要な真理を裏付けています。
携挙と黙示録。
では、すべて順当です。
その最初の到来を告げたのは、洗礼者ヨハネでした。
再臨のとき、その前触れはエリヤです。
最初の来臨では、ローマが権力を握っていました。
再臨の時にはローマが権力を握るでしょう。
神様が最初に来られたとき、神の啓示の前には400年にわたるアポクリファの戯言がありました。
再臨のとき、聖書は再臨の何年も前に信じられなくなりました。
最初に来られたとき、彼は密かに来ました。
救い主として彼を知り、彼を信じた人々に、夜、内密に。
そしてその後、敵に公開。
再臨の際には、まず信者の体に内密に現れます。
そして、敵に対する黙示録で公に。
そのさばきはいかに測り知れないことか。(ローマ11:33)
さて、次回は。
来週は第37課を取り上げます。
Webの神学セミナーでの研究。
キリストの来臨を扱い続けるもの。
次回は、再臨の方法と再臨の場所に関する聖句を取り上げます。
そして、来週のセッションでは、キリストの来臨のしるしについて多くの時間を費やします。
テモテへの手紙第二3章1節から7節には、23のしるしが記されています。
マタイによる福音書24章には38のサインが記されています。
これらのしるしはすべて降臨に関連していますが、もちろん、降臨に先行して携挙が行われるため、携挙がどれほど近いかを示しているにすぎません。
では、来週の第37課。
神学セミナー。
キリストが来られる場所について説明します。
その来し方。
そして、宇宙史上最大の出来事に先立つ予兆。
罪人のために死ぬためにキリストが最初に来られたこと、それが私たちに起こった最高の出来事だったのではありません。
しかし、イエス・キリストの再臨は、正当にイエス・キリストのものであるものを手に入れるためのものです。
そしてこの日は、神様のカレンダーの赤文字の日。
息子の栄光。
主の祝福がありますように。