ウェブ神学セミナー:第41部
2024年7月7日
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ありがとうございます。
神様のみことばを学ぶ生徒の皆さん、そして先生方にご挨拶申し上げます。
このような機会を得て、再び神のみことばをお届けできることを嬉しく思います。
今週の教理は気学、聖霊の学びです。
前回、聖霊について学びました。
聖霊の人格についてお話ししました。
そして、このセッションを通して、私たちはこの路線を続けなければなりません。
前回のセッションでは
教理の重要性について話しました。
聖書が人称代名詞を使って聖霊を指していることについて話しました。
ここで、私たちは人としての聖霊について話してきました。
聖霊には意志の力があります(1コリント12:11)。
聖霊には知性があります(ネヘミヤ9:20)。
聖霊には知識があります(1コリント2:10)。
聖霊には力があります(使徒1:8)。
聖霊には愛の能力があります(ローマ15:30)。
聖霊は悲しませることができます(エペソ4:30)。
聖霊は嘘をつくことができます(使徒5章)。
そして、影響力として、聖霊を消すことができます。
とパウロは言います。
御霊を消してはなりません。(第1テサロニケ5:19)。
確かに、聖霊を人として消し去ろうということではありません。
彼は、御霊の影響、御霊の働きを弱めることについてたくさん話しています。
自分たちがそうだと知っていることを強調しようと急ぐあまり、自分たちがそうだと知っていることを証明するために、神の言葉を曲解することもいとわないのです。
これはもちろん、彼らが嘘をついている証拠です。
もちろん、ギリシャ語やヘブライ語の基礎的な研究者であれば、どこでもいいということです。
恐ろしい習慣、悲劇的な習慣です。
しかし、それにもかかわらず、聖書の中に真理を見出すと、その真理を過度に強調するのが、人間の普遍的かつ長年の習性です。
自分への注目を集めるために。
そしてこれは、最終的な権威としての聖書に対する若者の信仰を破壊するために給料をもらっている、キリスト教学校の教員による標準的な手続き方法なのです。
あるいは、信仰の基本を信じると言いながら、神のみことばの権威を否定する偽善者たち。
神のみことばの中から真理を見つけ、それ以上の真理を求めるのではなく、見つけた真理に合うように残りの神のみことばを曲解するのです。
メイフラワー号でアメリカへ渡ったグループを率いたロビンソン牧師。
彼は1620年に非常に重要なことを言っています。
彼は言いました。
"カルヴァンとルターは、その時代には貴重な輝ける光でしたが、神様は聖なる御言葉から私たちに啓示すべき真理をもっともっと持っておられると確信しています。"
もしキリストの体が、17世紀にカルヴァンとマルティン・ルターに啓示された真理で止まっていたとしたら、それはキリストの体にとって何という悲惨な悲劇だったでしょう。
これ以上悲惨なことがあるでしょうか?
そして現代の原理主義者は、1909年と1917年に完成したクラレンス・ラーキンとスコフィールドの著作で立ち止まるのです。
そして、聖書の残りの部分をそれらの真理と一致させようとするのです。
そうすることで、神様のみことばを曲解してしまうのです。
彼は真実を隠し、さらなる真実が示されるのを防ぎます。
そしてこれはもちろん、多くのキリスト教系大学の教員が実践していることです。
そして、処女懐胎とキリストの神性という基本的なことを信じているからといって、救われていない場合と同じように、神の言葉を拒絶することには何の影響もありません。
もちろん、彼らが原理主義者であるという事実は重要ではありません。
悪魔は原理主義者。
そして、自分の気の向くままに神のみことばを変え、何かを証明するために神のみことばを変えるとき。
そうであることを証明するためであれ、そうでないことを証明するためであれ。
あなたがそれを変えたということは、あなた自身が、30年、あるいは20年、あるいは15年の教育を受けただけで、神様の言葉を裁くことができると考えている、スピリチュアルなエゴマニアだということです。
私は大学教育を10年しか受けていません。
私は大学院で6年間働いただけです。
でも、10年間の大学と大学院での勉強が、神様のみことばを変えたり、改変したりするのに必要な知識量に相当するとは思えません。
私は、私に教えてくれた博士や彼らに教えてくれた博士よりも、聖書の方がはるかに権威があると考えてきました。
ですから、聖霊を一人の人間として見出したからといって、聖書に向かって血まみれの足を踏みつける権利はありません。
その都度、聖霊を一人の人間として教えられるように、それを塗りつぶして回してください。
テサロニケの信徒への手紙第一5章の箇所には、聖霊が人であるという記述はまったくありません。
人を癒すことはできません。
ある人物の影響力、あるいはその人物の仕事を消すのです。
パウロが言うとき。
霊を鎮めてはなりません。
会衆の中で聖霊の働きを弱めたり、沈めたり、かき消したり、消したり、消し去ったりしてはいけないということです。
今、聖霊は神様の深いところを探っておられます。
聖霊は語ることができます。
聖霊は叫ぶことができます。
聖霊は聖徒のために執り成してくださいます。
聖霊が証言しています。
聖霊は教えています。
聖霊が導き、導いてくださるのです。
聖霊の命令です。
そして聖霊は人を呼び、仕事を与えられます。
それだけでは十分でないとすれば、聖霊は創造において活動的でした。
創世記の1章にこうあります。
そして、神霊が水の面を動きました。
それだけでは十分でないとすれば、聖霊は信者を贖いの日まで封印してくださいます。
聖霊が再生させるのです。
人は御霊によって生まれます。
御霊は新しい誕生を与えます。
御霊から生まれたものは霊です。
それだけでは十分でないとしたら、聖霊は慰め主です。
それについては今日のセッションでお話ししましょう。
それだけでは足りないとすれば、神様の聖霊が聖書を霊感されたのです。
そして、聖書を信じると公言しながら、聖書に対して裁きの座に座る人々の働きにもかかわらず、聖書を守ってくださったのは神様の聖霊です。
ですから、聖霊は神のみことばの中でとても重要です。
そして、御子と御父に勝るとも劣らない重要性を持っています。
聖霊には明確な役割が与えられています。
彼は公式の慰め主です。
パラクルート、助けるために共に呼ばれる人。
彼は個人的な仲間です。
そして、ヨハネによる福音書14章16節で、イエスはこう言われました。
主はもうひとりの慰めをあなたがたに与えるでしょう。
聖霊は私たちを導き、慰めてくださる最良の友となります。
このような事柄に関する優れた著作としては、R.A.トーリーの "The Holy Spirit "があります。
ウォッチマン・ニーによる『Sit Walk and Stand』という素晴らしい本があります。
そしてもちろん、マクスウェルによる十字架につけられた人生についての古典的著作 "Born Crucified"。
聖霊は私たちの慰め主です。
彼は助けるために傍らに捕らえられている人です。
主イエス・キリストは言われました。
わたしは、あなたがたを慰めないでおくことはしません。(ヨハネ14:18)
主イエス・キリストは、使徒たちを率いて、使徒たちや弟子たちを父子孤児として残すつもりはありませんでした。
聖書にはこうあります。
私の父と母が私を捨てるとき、主は私を取り上げてくださいます。(詩篇27:10)
イザヤ書66章13節にはこうあります。
母があなたがたを慰めるように、わたしもあなたがたを慰めます。あなたがたはエルサレムで慰められます。
聖霊は、クリスチャンを助けるために傍らに引き寄せられる慰め主です。
彼がしてくれることは数え切れないほどあります。
例えば、聖霊は暗闇に対する異常な恐怖を癒すものです。
もしあなたが暗闇を恐れているなら、あなたの中に聖霊が宿っているのです。
聖霊は光であり、キリストは命の光です。
彼が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むなら。私たちは互いに交わりを持っています。(第1ヨハネ1:7)
神様は光です。
わたしに従う者は、やみの中を歩むことはなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)
聖霊は、体の内側を照らし、暗闇に光をもたらすために、老人の内側に置かれた主のサーチライトです。
と言った神様。
光あれ。(創世記1:13)
聖霊によって宇宙の混沌に光を。
創世記の1章を読んでください。
神の霊が水の面を動きました。
そして神様がおっしゃいました。光あれ。
もしあなたが暗闇を異常に恐れているなら、聖霊はあなたを祝福し、あなたの面倒を見る慰め主です。
一人でいるのが怖いなら、聖書はこう言っています。
わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てません。(ヘブル13:5)
ですから、私たちは大胆に言うことができます。
主はわたしの助け主であり、わたしは人がわたしになさることを恐れません。(ヘブル13:6)
聖霊は不眠症の特効薬です。
聖霊と交信してみてください。
聖書はコリントの信徒への手紙二13章14節で、神様の愛と聖霊の交わりについて語っています。
旧約聖書にはこうあります。
早起きも夜更かしもむなしい。悲しみのパンを食べるのは。主は愛する者に眠りを与えられるから。(詩篇127篇2節)
今は、薬や医者が必要な特定の条件がないとは言いません。
確かにあります。
そして確かに、病気で治療や投薬を受けている人のために。
これらの中には適切で必要なものもあります。
でも、まともな男性なら言い訳はできません。
生まれながらにして救われた神の子が、こうしたことで悩むなんて。
あなたには聖霊が宿っているからです。
聖霊はすべての孤独を癒してくれます。
聖霊との友情を深めなさい。
彼があなたの中にいて、あなたが彼の中にいることを知りなさい。
そして、彼は言いました。
わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てません。
ですから、私たちは大胆に言うことができます。
主はわたしの助け主であり、わたしは人がわたしになさることを恐れません。(ヘブル13:6)
聖霊は傷ついた心を癒してくださいます。
心の痛む空虚を聖霊に占領させるのです。
そして、聖霊が人に宿り、神の霊で満たされるとき。
そして、イエス・キリストをその人にとって現実のものとし、取り去られたもの、なくなったものは、神様ご自身の存在によって満足のいく形で置き換えることができるのです。
実のところ、何年にもわたる苦しみや窮乏に耐えることができるのは、それしかない人もいるのです。
殉教者たちが火と棚と滑車と挟みと剣と飢えに耐えることができた唯一の方法は、聖霊の力が彼らの体に宿っていたからです。
聖霊は、人の中に来られるとき。
虐待や迫害に耐えられるだけでなく、死別や悲しみ、痛みにも耐えられるのです。
多くのクリスチャンが病院で何日も孤独な夜を過ごし、ロシアや中国共産党の強制収容所で耐え難い拷問に耐えることができるのは、信者の体内にある聖霊のおかげです。
リチャード・ウルムブランドが3年間の独房生活を終えて生還し、心と感覚とユーモアを保つことができたのは、聖霊のおかげです。
ハーラン・ポポフが13年間の投獄に耐え、イエス・キリストの大胆な証人として出てくることができたのは、ハーラン・ポポフの中におられた聖霊のおかげです。
ブラッディ・メアリーの治世にスミスフィールドで焼かれた殉教者たちが、イエス・キリストの証しを成功裏に行うことができたのは、聖霊のおかげです。
傷ついた心や死別に耐えることができるのは、信者の体内におられる聖霊のおかげです。
もしあなたが傷ついた心を持っているなら、傷ついた心を癒す最良の方法は、罪人のために心を砕かれた神様を象徴する、内在する神の霊を瞑想することです。
エルサレムのために泣いた人、聖書で最も短い節でこう言われている人。
イエスは泣かれました。(ヨハネ11:35)
そして、その痛みが耐えられないほどのものであるなら、死別が耐えられないほどのものであるなら。
ただあきらめて、自分の哀れな体を彼の横に置き、自分の哀れな血まみれの心と魂を十字架につけられた救い主の横に置いて、こう言うのです。
「主よ、耐えられません。耐えられません。私には荷が重すぎます。私は弱すぎます。耐えられません。耐えられません。私の痛みに耐えてください。耐えられない私の罪を担ってください。私の傷は愚かで、悪臭を放ち、腐敗し、私の罪は重い重荷として私の頭を越えて行きます。重すぎて耐えられません。主よ、私は孤独に耐えられません。苦しみに耐えられません。悲しみに耐えられません。あなたは悲しみを知る悲しみの人です。あなたは悲しみに耐えておられます。私には背負いきれません」。
あなたの重荷を主に負いなさい。主は正しい者を決して動かされることはありません。(詩篇55:22)。
労苦している者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは休まるであろう」。(マタイ11:28)
聖霊の働きは、遺されたクリスチャンの心を慰めることです。
砕かれた心を癒し、へりくだり悔いる心を起こすために。
そしてその魂を、永遠を住まいとし、高く聖なる場所に座っておられる方の御国にお連れしてください。
信じる者の内におられる聖霊は、信じる者に力を与えて励ましてくださいます。
そして、無力感を癒す特効薬を与えるのです。
彼は言います。
私が命じたでしょう?強く、勇気を持ちなさい。恐れるな、おののくな。あなたがたの神、主は、あなたがたの行く所どこにいても、あなたがたと共におられるからです。(ヨシュア記1:9)
聖霊は教えと説教の動機となります。
聖霊は私の教えを導いてくださいます。
聖霊は私の説教を導いてくださいます。
聖霊は神様の臨在です。
彼は個人的な仕事における私の権威です。
聖霊は私に証しするように指示し、証しする力を与えてくださっています。
そして、クリスチャンがイエス・キリストを証ししない言い訳はありません。
聖霊には明確な働きがあります。
彼は慰め主です。
聖霊には感情があります。
彼は悲しむかもしれません。
イザヤ書63章10節にこうあります。
しかし、彼らは反抗し、聖なる御霊を怒らせました。
パウロはクリスチャンに注意を促しました。
そして、あなたがたは、贖いの日まで封じられている神の聖なる霊を悲しませないようにしなさい。(エペソ4:30)
聖霊は侮辱されます。
ヘブル人への手紙10章29節を読むと、ある種の人々は恵みの御霊を軽んじています。
聖霊は嘘をつくことができます。
使徒言行録5章3節には、アナニヤが聖霊に嘘をついたことが書かれています。
そして聖霊は冒涜され得るのです。
マタイによる福音書12章31節では、聖霊に対する冒涜が語られています。
そしてこの冒涜は、主イエス・キリストご自身に対する冒涜よりもひどい冒涜であると考えられています。
このように聖霊の重要性を示しています。
聖霊に対する冒涜を最も心配しているのは、救われた後に別の霊を受け、その霊を聖霊だと偽っている人々です。
パウロは第二コリント11章で、偽の使徒に惑わされるサタン主導のクリスチャンについて語っています。
そして、これらの人々は別の霊と別のイエスを受け、彼らが受ける別の霊は神様のみことばの聖霊でもなく、ペンテコステの聖霊でもありません。
しかし、神様に対して罪を犯させ、救いを失ったと思わせる別の霊がいるのです。
だから、聖霊に対する冒涜をいつも心配しているのです。
聖霊の主な働きを拒むことによって救われた後、自分自身が恵みの御霊にもかかわらず、それを行ってしまったからです。
結局のところ、聖霊の主な働きは、クリスチャンを降臨に留め、イエス・キリストに適合させることでした。
聖霊の主な働きは、クリスチャンを守り、永遠の保障を与えることでした。
主は聖霊について、いつ来られるかと言われました。
彼は永遠にあなたと共に住むと。
だから、人が神様を嘘つきにしようとするやいなや。
その箇所はヨハネの福音書14章16節です。
わたしは父に祈ります。そして、もうひとりの慰め主をあなたがたにお与えになります。
人が神様を嘘つきにしようとするやいなや、自分の救いを疑い、神の言葉を疑い始めます。
そして、自分を救うために、あるいは信仰と業との組み合わせのために、自分の業をあてにし始めるのです。
その人はすぐに、自分の人生に宿っている聖霊を消し去り、自分の体に宿っている聖霊を侮辱するのです。
そしてその後、その人は自分が救われたかどうかを知ることはありません。
知性、感情、意志、知識、行動など、必要な資質をすべて備えています。
最後に、ヨハネによる福音書14章の偉大な箇所を見てみましょう。
もちろん、このことについては、次の4回の気神学のレッスンで聖霊の神性、聖霊の名前、聖霊の働きについてお話しするときに、さらに詳しくお話しします。
でも、今はヨハネによる福音書14章を読んでください。
主イエス・キリストご自身が語られたこの祝福に満ちた言葉に注目してください。
わたしは父に祈ります。そして、もうひとりの慰め主をあなたがたにお与えになります。(ヨハネ14:16)。
パウロは、聖霊が信仰者を贖いの日まで封印すると言っています。
それが真理の霊です。
キリストは言います。
世が受け入れることのできない方。なぜなら、世は彼を見ず、彼を知らないからです。しかし、あなたがたは彼を知っています。あなたがたは、彼を知っているのです。(ヨハネ14:17)
26節
しかし、慰め主、それは聖霊です。父がわたしの名によってお遣わしになる方。彼は、あなたがたにすべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださるでしょう。わたしがあなたがたに言ったことは何でも
ですから、主の御霊と神霊、真理の御霊と慰め主と聖霊を区別する者に注意してください。
彼はプロの嘘つきです。
キリストは両者を同一視しています。
彼も同じです。
キリストは、真理の霊は慰め主であり、その名は聖霊であると言われました。
このことから、三位一体のさまざまなメンバーがさまざまな名前を持っていることがわかります。
例えば、父なる神様は主なる神様と呼ばれます。
全能の神様。
全知全能の神様。
全能の人。
彼は永遠の父と呼ばれています。
彼は父と呼ばれています。
エホバと呼ばれています。
彼はジャーと呼ばれています。
主イエス・キリストはイエス・キリストと呼ばれています。
彼はイエスと呼ばれています。
キリストと呼ばれています。
主イエス・キリストと呼ばれています。
彼はエマニュエルと呼ばれています。
御子と呼ばれています。
彼は命のパンと呼ばれています。
彼は命の水と呼ばれています。
道。
ドア
良き羊飼い
道、真理、そして命。
同じように、聖霊にも名前があります。
彼は主の霊と呼ばれています。
聖霊。
真実の精神
慰め主。
決して混同しないでください。
これからです。
聖霊について、主イエス・キリストはヨハネによる福音書第15章26節と27節でこう述べています。
しかし、慰め主が来られるときわたしが父からあなたがたに遣わす者。それは、父から出る真理の御霊です。彼はわたしを証しするのです。あなたがたもまた、あかしするのです。
そして最後に、ヨハネによる福音書16章の7節から始まる偉大な箇所で、こう書かれています。
わたしが旅立つなら、彼をあなたがたのところに遣わします。そして、その方がおいでになれば、世に罪を告げ知らせます。義と裁きとについて。罪については、彼らがわたしを信じないからです。わたしが父のもとに行くからです。あなたがたは、もうわたしを見ません。裁きについては、この世の王子が裁かれるからです。
13節
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来られるとき。彼はあなたがたをすべての真理に導いてくださいます。彼は自分のことを語ることはありません。しかし、彼が聞くことは何でも、それを話すでしょう。そして、来るべきことをあなたがたに示されます。
さて、これが聖霊について最も重要なことです。
聖霊について語らないことです。
聖霊が来られたとき、ヨハネ16:13。
彼は自分のことを話してはなりません。しかし、彼が聞くことは何でも、彼は話すでしょう。そして、これから起こることをあなたがたに示すでしょう。彼はわたしをあがめるでしょう。彼はわたしのものを受けて、あなたがたに示すからです。
聖霊はイエス・キリストを証しするために来られました。
イエス・キリストを称えること。
イエス・キリストを賛美すること。
イエス・キリストをあかしすること。
そして、もしあなたが、イエス・キリストの十字架の犠牲の死について、救われていない人々に証しする能力も力もないのなら、あなたは納屋で御霊に出会ったことがないのです。
聖霊はあなたを良い気分にさせるために来るのではありません。
聖霊は、あなたがたがイエス・キリストの効果的な証人となり、キリストを讃えることができるように、あなたがたを結び固め、キリストの中に入れ、あなたがたを導き、すべての真理に導くために来られたのです。
聖霊に満たされた生活の傑出した例は、使徒パウロがよく言っていたことです。
神のみこころによるイエス・キリストの使徒、パウロ。(エペソ1:1)
イエス・キリストによって神様に感謝します(ローマ1:8)
私はイエス・キリストを示します。
主イエス・キリスト。
イエス。
主イエス。
イエスは主です。
そして、聖霊に満たされた人々は、「主イエス」と言うほど何度も「イエス」という言葉を口にしません。
それが聖霊の働きです。
次回の放送では、「気学」の続きをお届けします。
主の祝福がありますように。