ウェブ神学セミナー:第42部
2024年7月14日
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ありがとうございます。
神様のみことばを学ぶ生徒の皆さん、教師の皆さん、こんにちは。
この数週間、私たちは聖霊の働きについて学んできました。
ギリシャ語で "霊 "を意味する "pneumatos "にちなんで、系統神学や教義神学では正しく「気学」と呼ばれています。
前回のレッスンでは、聖霊が人であるという事実を明らかにしました。
聖霊は人間ではありません。
しかし、聖霊は人です。
人であるだけでなく、神でもあります。
聖霊は全能の神様であり、あらゆる点で父と子に等しいのです。
私たちの研究、特に父なる神様と三位一体に関する教義を研究した神学の最初のシリーズに参加してくださった方なら、ご自分のことをよくご存じでしょう。
聖書が父と子と聖霊は一つであるとはっきりと教えていることは、ご自分の名前と同じくらいよくご存じでしょう。
このことは、聖書の中でこの言葉が数多く使われていることからも明らかです。
そして、人々が父をイエスとし、聖霊をイエスとしようとするとき。
そして聖霊をイエスとします。
彼らは少し誤解しています。
聖書はそのようなことは何も言っていません。
父なる神さまには、他の神さまには当てはまらない、はっきりとした個性や性格があります。
同じ意味で、それぞれが他の者と共有する伝達可能な属性を持っています。
しかし、父なる神と子なる神と聖霊からなる一つの神様なのです。
同じように、私たちは肉体と魂と霊から構成されています。
それが、神が私たちをご自分に似せてお造りになったという意味です。
私たちは彼と同じ三位一体の存在なのです。
さて、このように話すと
再生していない人は矛盾があると考えます。
生まれながらの人は、神様の御霊のことを受けません。霊的に見分けることができないからです。(1コリント2:14)
しかし、太陽はこれらのことを完璧に物語っています。
太陽は一つの太陽。
ただし、光線は3種類。
もし欠けていたら、それは太陽の光ではありません。
マタイ13章のマラキ4章と詩篇19篇によれば、太陽はキリストの型。
だから太陽は、見ることはできても感じることはできない光線を持っています。
聖霊の一種である光線。
そして、見ることも感じることもできない光線を持っています。
あなたは一人の人間ですが、肉体があり、魂があり、精神があります。
身体は魂ではありません。
魂は精神ではありません。
そして、あなたの精神はあなたの肉体ではありません。
でも、あなたは一人の人間です。
わかりましたか?
今、父と子と聖霊は一つの神様です。
そして先週と先々週のセッションで、私たちは大いに話し合いました。
聖霊が人であることを示すために、その聖句が登場する文脈で聖句を何度も何度も挙げています。
私たちが "人 "と言うとき、それはあなたが肉体や魂や霊を持っているように、神様の一部という意味です。
確かに、私たちは彼らが3つの別々の神様だとは信じていません。
聖霊の神性に関しては、聖霊は神の属性を持っています。
それが第一です。
聖霊は神様だけができることをなさいます。
それが2つ目です。
聖書は聖霊の神性について非常に強く述べています。
それが3つ目です。
そして第四のことは、聖霊は、別個の存在でありながら、常に父と子と結びついているということです。
今、これはもちろん、三位一体の神秘に関係しています。
三位一体の神秘については、ウェブの神学セミナーの最初の6回のレッスンで詳しく説明しました。
ここまでお読みいただいた方は、このシリーズの42回目のレッスンにいらっしゃいます。
ほぼ1年にわたるセッションを終え、800以上の聖句を取り上げました。
実のところ、聖句は1000節を超えるかもしれません。
まず第一に。
聖霊の神性に関して、私たちはこう気づきます。
聖霊は神の属性を持っているので、神です。
彼は永遠です。
それは三位一体以外には当てはまりません。
ヘブル9:14。
永遠の御霊によって、ご自分を汚れのないものとして神様にささげられたキリストの血は、どれほど大きなものでしょう。
永遠のスピリット。
これは悪魔の霊ではありません。
悪魔は永遠ではありません。
これは人間の精神ではありません。
人間の精神は永遠ではありません。
これは地上に下る獣の霊ではありません。
これらは有限の魂です。
そして、永遠の御霊を受けることによってのみ、永遠の命を得ることができるのです。
さらに聖霊は遍在です。
ダビデは詩篇139:7-8でこう言っています。
あなたの霊から、私はどこへ行こうか?あなたの御前から、私はどこへ逃げましょうか。わたしが天に昇れば、あなたはそこにおられます。わたしが地獄に寝床を設けても、見よ、あなたはそこにおられます。
ダビデは、神様の霊から逃れる方法はないと言いました。
主の御前から逃げようとした哀れなヨナとは違って。
ダビデは冒頭で、もし自分が地獄で寝たとしても、主の霊はそこで怒りと裁きをもって顕現されることを認めました。
聖霊は遍在します。
これはあなたにも、悪魔にも、あなたの人生で出会ったどんな動物にも言えることではありません。
聖霊は神です。
聖霊は全能です。
ルカによる福音書1章35節には、主イエス・キリストの受胎のために聖霊の力がマリアに臨んだとあります。
創世記1章2節。
そして、神霊が水の面を動きました。
そしてヨブ記26章13節にはこうあります。
その霊によって天を飾られました。
銀河、星雲、星団、白色矮星、黄色矮星、青色矮星。
そして、あれもこれもすべて、神様の聖霊によって創造されたものなのです。
これは神である人の仕事です。
デミウルジや半神、悪魔がこれらを創造したという可能性はまったくありません。
実のところ、主はエレミヤ書にこう書かれています。
天と地を造らなかった神様は、地からも、この天の下からも滅びます。(エレミヤ10:11)
さらに、聖霊は全知全能です。
第1コリント2:10-11にはこうあります。
でも、神様は御霊によって私たちに明らかにしてくださったのです。御霊は万物を、そう、神の奥義を探られるからです。
神様のことは、神様の霊以外には、誰も知りません。
三位一体についての最初の2つのレッスンを思い出してください。
私たちは、神様が永遠であり、全知全能であることを学びました。
これらのことはすべて聖霊について言えることです。
聖霊は永遠です。
彼は遍在していて、どこにでもいるんです。
全能、すべての力を持っています。
彼は全知全能で、すべてのことを知っています。
イエスはヨハネの福音書14章26節でこう言われました。
しかし、慰め主、それは聖霊です。聖霊は、あなたがたにすべてのことを教えてくださいます。
そしてまた、ヨハネによる福音書16章12節。
真理の霊が来て、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。
それだけではありません。
三位一体についての最初の6つのレッスンを思い出してください。
神学、つまり神様を研究する学問について議論していたときのことです。
私たちは、神様が全能で遍在し、永遠で全知全能であるだけではないことを学びました。
さらに、聖霊は真理です。
第1ヨハネ5:6。
御霊は真理です。
ネヘミヤ記9章20節にはこうあります。
あなたはまた、彼らを指導するためにあなたの善良な精神を与えました。
聖霊は神の属性を持っています。
これらの属性は神のみに帰属します。
イエス・キリストでさえ、人間としての地上生活では全知全能ではありませんでした。
実はね。
神性を発揮しない限り、全知全能ではありませんでした。
そして、ある時、彼の降臨についてこう言いました。
しかし、その日、その時のことは誰にもわかりません。いや、天の御使いたちにも。ただ、わたしの父だけが知っておられるのです。(マタイ24:36)。
父なる神がイエスであり、聖霊がイエスであると勘違いしている人がいます。
不遜です。
私の魂は私の精神ではありませんが、どちらも私なのです。
聖霊は父の属性を持っています。
イエス・キリストは人間としてこのような属性を持っていたわけではありません。
神様としてはそうですね。
ひとり子として、永遠の父として、肉において顕現された神様として、そうです。
しかし、キリスト・イエスは
神性を発揮しない限り、彼は人間とまったく同じように苦しみ、血を流し、渇き、飢え、疲れ果てました。
さらに言えば、聖霊は神様だけができることをなさいます。
聖霊は創造の救いの中で活動し、生命再生の預言を与え、義と来るべき裁きについて人を戒めます。
これは聖霊の働きです。
創造において。
ヨブ記33章4節で、ヨブはこう言っています。
神様の魂が私を作ったのです。
詩篇104篇30節で、ダビデはこう言いました。
あなたがスピリットを送り出せば、彼らは創造されるのです。
救いの中で
第1コリント6:11にこうあります。
あなたがたは、主イエスの御名によって、また私たちの神様の御霊によって義とされるのです。
また、エペソ4:30と1:13には聖霊の結び固めがあります。
そして、あなたがたは贖いの日まで封じられている神の聖なる霊を悲しませないようにしなさい。
そして
あなたがたは、救いの福音である真理のことばを聞いた後、約束の聖霊によって証印を押されたのです。
さらに、聖霊は命を与えるので、神様でなければなりません。
ヨハネによる福音書6章63節で、イエスはこう言われました。
肉は何の役にも立ちません。
もちろん、聖霊は新生の創造者です。
肉から生まれたものは肉。霊から生まれたものは霊です。(ヨハネ3:6)
最初の水の誕生で、あなたは肉から生まれました。
そして生まれ変わることはできません。
聖霊によって生まれ変わるまでは。
再生は聖霊の働きです。
第2ペテロ1:21にはこうあります。
預言は、昔、人の意志によってなされたのではありません。神の聖なる人たちが、聖霊に動かされるままに語ったのです。
預言は昔、人の意志によってではなく、聖なる神の人たちが聖霊に動かされるままに語ったのです。
そして、聖霊は霊感と預言において活躍されました。
また、聖霊は今日も世界におられ、人々に義の罪と来るべき裁きを戒めておられます。
特にヨハネによる福音書16章11節の箇所を読んでください。そこには、この時代の世界における聖霊の働きは、イエス・キリストを拒む罪を人々に確信させることであると書かれています。
正義の味方は一人しかいないと説得するために。
キリストは死からよみがえり、御父のもとに行かれたのですから。
そして、悪魔が裁かれ、悪魔が彼らの父であり神様であることから、裁きを世に確信させるためです。
今日、救われていない人々に対する聖霊の働きは3つあります。
聖霊がまず人間に確信させるのは、完全な人間を拒絶する罪です。
それが聖霊の働きです。
あなたの偏狭で不寛容な偏見のせいで、聖書の説教者がそのようなことを話すと激怒するかもしれません。
しかし、問題の真実は、死んだ人間に従うという汚れた冒涜的な腐敗した罪を人々に確信させるのは、今の世にいる御霊であり、神様の聖霊なのです。
銀河を創造した聖霊。
そして彼の仕事は、ただ一人の人が死からよみがえり、御父のもとに戻ったことを示すことです。
だから、あの人は正しい。
そして、あなたが従っている人たちは不義を行う人たちです。
ブッダやムハンマドのように、まだお墓の中にいる人、お骨を拝むことができる人に従うのであれば。
それなら、あなたは間違っています。
神様、それは私の意見ではありません。
それが父なる神様から聖霊に与えられた正式な仕事です。(ヨハネによる福音書16章8節から11節)。
そして最後に。
聖霊は今日、罪人に、彼の父である悪魔が裁かれたのだから、彼には裁きがあり、地獄があるのだと確信させるために、この世におられるのです。
キリストは言われました。
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔のものであり、あなたがたの父の欲望を行うのです。(ヨハネ8:44)
コリントの信徒への手紙第二4章4節では、この世の神様と呼ばれています。
マタイによる福音書4章1節から8節にあるように、この世のすべての王国は彼に与えられました。
キリストはマタイによる福音書23章33節でこう言われました。
毒蛇の世代。
またしても悪魔への言及。
地獄の責め苦から逃れるには?
だから、説教者が説教壇に立って、イエス・キリストの義がなければ天国には行けないと言うのです。
伝道師が街角に立っていたり、トラクトを送ってきたりして、そこに書いてあったり、街角で言っていたりすると。
モハメッドもブッダも薔薇十字団も道教も儒教もヒンズー教もローマ教皇も、あなたを救うことはできません。
彼は神格の仕事をしているのです。
人々がそれを恨むのは、彼らが神と敵対し、神様が彼らと敵対しているからです。
そして、それは私の意見でも判断でもありません。
これがヨハネによる福音書3章36節の明言です。
御子を信じる者は永遠の命を得ます。御子を信じない者は、いのちを見ることができず、神様の怒りがその上にとどまります。
聖書は聖霊について非常に強く述べています。
たとえば、イザヤ書6章8節から10節にはこうあります。
私は主の声を聞きました。
そして、パウロは使徒言行録28章25節で、この箇所を指してこう言いました。
預言者エサイアスは、聖霊にこう言われました。
これは、イザヤが言ったことを意味します。
私は主の声を聞きました。
パウロは主を聖霊と特定しています。
使徒言行録の中で、アガボスが預言しているとき、彼はこう言っていないことにお気づきでしょうか。
「主はこう仰せられる」。
これは旧約聖書の至るところに登場する由緒ある定型句ですが。
男性が話す200以上の例で、彼はこう言います。
"主はこう仰せられる"
しかし、驚いたことに、使徒の働き21章11節にはこうあります。
聖霊はこう言われます。
聖霊は神です。
使徒の働き5章3節から5節では、聖霊は神様と呼ばれています。
ペテロはアナニヤとサフィラに言いました。
なぜサタンはあなたの心を聖霊に嘘をつくように満たしてしまったのでしょうか。
そして、すぐに振り返って言いました。
あなたは人に嘘をついたのではなく、神に対して嘘をついたのです。
神々しい連句に注目してください。
マタイによる福音書28章19節
父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを授けなさい。
聖霊の名前はイエスではありません。
聖霊の名は真理の霊。
主の霊。
聖霊、慰め主。
イエスは父の名ではありません。
父の名は全能の神、全能の神。
主、そして神様。
エホバ、ジャー。
なぜ父の名はイエス・キリストではないのですか?
しかし、彼は名指しでこう言いました。
だから、この人たちは聖書をめちゃくちゃにして、こう言うんです。
"イエスの名前ですか?"
父の名は主。
御子の名は主。
聖霊の名は主。
使徒言行録28章25節~27節 主はその霊です。(第二コリント3章)。 第二コリント13:14では
主イエス・キリストの恵み。そして神様の愛。そして聖霊の交わり。皆さんと共にありますように。
ヨハネの福音書14章16節で、イエスはこう言っています。
わたしが父に祈れば、もうひとりの慰めを与えてくださるでしょう。
ここには父なる御子と聖霊がおられます。 ご覧ください。
ヨハネの福音書14章16節
第2コリント13章14節
マタイによる福音書28章19節
聖霊は主です。
聖霊を受けずに主を受けることはできませんし、主を受けずに聖霊を受けることもできません。
このセッションは、神のみことばを学び、神のみことばに何が書かれているかを知りたい学生や教師のためのものです。
その通りです。
前にも述べたように、聖霊は父と子とは異なる存在です。
聖霊は父の霊、あるいは子の霊だと考える人もいます。
でも、そんなことはまったくありません。
ルカによる福音書3章21節から22節、イエスの洗礼式に注目してください。
この3つは証拠としてはっきりしています。
父なる神様はおっしゃいました。
あなたはわたしの愛する子。
この時、御子はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けていました。
そして、聖霊が鳩のような肉体をもって降臨されました。
3つの異なる個性が同時に存在。
それでも同じではありません。
つまり、不注意で騙されやすく、不勉強で不安定なクリスチャンには、2つの大きな落とし穴があるのです。
そしてこの2つの大きな落とし穴は、正統派への道の両側に掘られています。
第一はアリウス派の異端。
神様は2人いると教えています。
これはアリウス派の異端と呼ばれています。
これはラッセル牧師とラザフォード判事(エホバの証人)によって教えられ,新世界訳(エホバの証人が使用している版)のヨハネによる福音書1章1節に最も明確に示されています。
どこで作ったんですか?
「神様は神だった」。
つまり、神様が二人いて、聖霊がいないのです。
オーソドックスに言うなら
3人の神様が必要でしょう。
イエス・キリストが神様であるのと同じように、聖霊も神様なのです。
つまり、複数の神様を教えるキリスト教の左翼に、最初の落とし穴があるわけです。
父なる神様と子なる神様。
そして聖霊は第三の神様、あるいは単なる影響力です。
そして右手へ。
神格に区別はないと言おうとしている人たちがいます。
父の名はイエス。
御子の名はイエス。
聖霊の名はイエス。
これは、使徒言行録10章と使徒言行録2章の違いを見分けていないことに起因します。
使徒言行録2章、ユダヤ教の洗礼式で。
ユダヤ人は罪の赦しのために主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けます。
ユダヤ人のメシアを十字架につけたこと。
使徒の働き10章では、異邦人のバプテスマにおいて。
イエス・キリストとは書かれていません。
ただ、主の御名においてと書かれているだけです。
しかし、あなたは見つけるでしょう。
使徒言行録2章と使徒言行録10章を一致させるために、使徒言行録10章の最後の数節に『イエス・キリスト』という言葉を付け加え、使徒言行録10章のバプテスマが使徒言行録2章と同じだと思わせるのです。
これがいわゆる私的解釈です。
法廷では横領と呼ばれます。
それが許されるのはキリスト教の学校だけです。
法廷では逃げられません。
その言葉は本文にはありません。
主の御名による異邦人バプテスマがあります。(使徒の働き10章)。
主の御名は父、子、聖霊。
使徒言行録の中で、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けた人は誰もいないと言うのは、長老を自任している人の洞察力の著しい欠如と聖書の真剣な勉強不足を示しています。
主の御名は父、子、聖霊。
父と子と聖霊の名は主。
ですから、使徒言行録10章のバプテスマは、使徒言行録2章のバプテスマではありません。
神様がおっしゃったことを、神様がおっしゃったとおりに信じる人なら、誰でもすぐにわかることです。
ヨハネの福音書14章16節に注目してください。
御子が祈り、御父が送られるのです。
そして、聖霊が宿るのです。
父は留まるために来られたのではありません。
聖霊は住まわれるために来られます。
それなのに、聖霊が来られると、私たちはこう読むのです。
なぜなら、この方のうちに、神の全存在が肉体的に宿っているからです。(コロサイ2:9)
つまり、3人で1人、3人で1人なのです。
そして、真ん中のは私のために死にました。
使徒言行録2章33節では、御子は御父の右に上げられました。
それは聖霊には当てはまりません。
御父は御座におられますが、聖霊はそうではありません。
そして、聖霊は御子によって受け取られ、教会に与えられます。
父と子と聖霊は3つであり、3つの人格を持ち、互いに関係し合っています。(あなたの肉体と魂と霊も同様です)。
お互いに話し、お互いを認め合うこと。
ある種の神の属性を共有しながらも、それぞれが固有の仕事をもっているのです。
これが聖霊の神性に関する聖書の教えです。
過去3回のセッションでお渡しした100の参考文献を注意深くチェックすれば確認できます。
約100節の聖句が、何度も何度もあなたに示されます。
一つは、聖霊は人であるということ。
二つ目は、彼は神格のメンバーであるということ。
三、彼は完全に主であり神様です。
まさに神様。
それでいて別々。
御子とも御父とも共有されない、御子だけの御業と属性と称号があります。
と言う人もいるでしょう。
"どうしてそんなことができるのか理解できない"
自然人は神様の御霊のものを受け取らないからです。
彼にとっては愚の骨頂。
創世記から黙示録に至るまで、この絶対的な聖書の真理を認識しない限り、彼は基本的なレベルを超えることはできないでしょう。
父である神様、子である神様、そして聖霊が一つの神様であるということ。
一人の主。
しかし、その神様と主は、3つの異なる方法でご自身を現すことができます。
体(御子)として。
霊(聖霊)として。
そして魂(父なる神様)として。
人は神にかたどって造られたのですから、人は肉体を持ち、魂と霊を持つように造られたのです。
そして人が救われるとき、その霊は新しく生まれ変わります。
br>聖霊の再生と割礼の力によって内側に割礼されるのです。
そして、聖霊によって贖いの日まで封印されています。
これで、聖霊の神性と名前を扱った聖霊についての3回目のレッスンは終わりです。
このレッスンはまだ終わっていません。
次回のレッスンでは、聖霊の名前について具体的にお話しします。
聖霊の名前と、聖霊が御子と御父にどのように従属するか。
次の2つのレッスンでは、次のセッションに続きます。
次の2つのレッスン(第44-45課)では、聖霊の働きについて詳しく説明します。
祝福された真理を伴う祝福されたレッスンは、あなたの心をよみがえらせ、リフレッシュさせてくれることでしょう。