ウェブ神学セミナー:第2部
2023年10月08日
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神学生、神学教師の皆さん、おはようございます。
本日は、神学セミナーにほんの数分間だけお付き合いいただき、神の存在について私たちと一緒に学び続けてくださることを願っています。
神学コースの最初の科目は、三位一体や神格を正しく扱うものです。神学という言葉には多くの学問分野があり、もちろん教義神学、実践神学、系統神学、聖書神学などがあります。
もちろん、教義神学、実践神学、体系神学、聖書神学もあります。しかし、このシリーズでは、神様のみことばの主要な教義を取り上げ、これらの教義について聖典が語っていることを、聖典を参照しながら説明していきます。
前回は、神の教理に関する放送シリーズの第一回目であった。
そのパートでは、神様が存在することの目的論的論証、宇宙論的論証、自然からの論証、聖句からの論証、自然からの論証について論じた。
良心、自然、聖典、これらはすべて神の存在を証言するものである。
前回のパートで述べたように、無神論の立場を受け入れるには、非常に知的な不誠実さと、盲目的な信仰が必要である。
そして、前回の放送で述べたように、神の目に見えないものは、造られたものによって理解され、神の永遠の力と神格さえもはっきりと見えるのである。
私たちは、三位一体が神のみことばに言及されているだけでなく、自然界にも現れていることに驚きを隠せない。
たとえば、三位一体は毎日24時間、太陽によって完璧に私たちに示されている。
太陽にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種類の光線があり、それは光線、熱線、光線である。光線のひとつは見ることはできるが感じることはできない。
三位一体はそれ自体、カソリックの教義でもプロテスタントの教義でもなく、バプテストの教えでもなく、誰かの私的な神学的解釈に限定されるべきものでもない。
三位一体は自然の偉大な事実であり、聖書の中にも外にもあらゆるところにあらゆる形で現れている。
人間は肉体、魂、霊魂の三位一体である。
聖書は天国と地上と地獄を語り、3つの天を与え、セムとハムとエフェトから生まれた人間の3つの主な枝を持っている。
この三位一体の内訳は、過去現在未来に分けられる時間全体を通して見出すことができる。
そして、高さと幅と広さを持つ空間は、あらゆる場所に現れている。
このパートでは、神様が存在することの論拠をもう少し考えてみよう。
その第一は道徳的論証と呼ばれるもので、人間学的論証と呼ばれることもある。
人間からの論証
人間は動物にはない知的、道徳的性質を持っており、創造主は単なる無生物の力ではなく、生きた知的道徳的存在でなければならないことを示している。
すべての大学卒業生とすべての国立大学で教えられている現代の教えは、神様は非人格的な力であるというものだ。
現代科学の神様は、中性的なエネルギー力場のようなもので、モラルもない。
そしてこの壮大で真新しい科学的な神様は、もちろん堕落した人間に似せて造られたものだ。誰かが言ったように、「神様はご自分に似せて人間を創造し、人間はそのお返しをした」。
博士号を持つ現代の教養ある愚か者の選択は、道徳的基準を持たない無生物的な中性的力である。
なぜだと思う?
しかし、聖書の創世記1章26節にはこうある。
われわれに似せて人を造ろう。
また、創世記1:27では、神様は人間を神様に似せてお造りになった。
神様は詩篇94篇でこう言っている。
耳を植えた者は聞かず、目を造った者は見ず。(詩篇94:9)
神様は人間に耳、目、知識、知性、意志の力を与えた。
これらは神様ご自身が持っておられるものだからだ。
人間は、かつて義と聖において神にかたどって造られ、堕落し、その堕落した状態においてなお、神性の名残をとどめている神のミニチュアである。
人間は神にかたどって造られたのであって、オランウータンやオポッサムなど、ダーウィンの家系図に登場する尻尾でぶら下がる動物の神にかたどって造られたのではない。
今、良心は人間に善悪、善と悪を創造主から教え、聖なる道徳的存在として、正義を愛し、悪を憎む。
だからこそ、真理の神様、創造の神様、この宇宙の神様は、現代人によってあらゆる方法でねじ曲げられたのだ。
現代人は悪を憎まず、義を愛さない。
現代人、特に教養のある宗教的科学的なタイプの人間は、正義と悪は相対的なものであり、行ったり来たりすることができると信じている。
実のところ、彼らはしばしば行ったり来たりを繰り返す。
彼らのやっていることは悪を善と呼び、善を悪と呼ぶことであり、道徳的な議論は単純だ。
人類学の研究によれば、あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆるタイプの民族文化には、善悪の基準が存在する。
文化によって多少の違いはあるが、殺人を道徳基準違反とみなさない文化は地球上に存在しない。
あなたは殺してはならない。(出エジプト20:13)
このことについては、神聖さを扱う教義に入るときに詳しく話そう。
十戒の解釈について話すとき、聖書は自ら解釈している。
汝、殺すなかれ。国家防衛や個人防衛を適用するのではなく、悪意を持って、個人を殺す意図を持って、暴行や傷害を加えてはならない。
聖書に間違いはない。
次に、生命論がある。
あなたが進化論者である場合を除き、生命は生命から生まれる。
進化論者であれば、生命は死から生まれるはずだ。
もしあなたがダーウィン主義者なら、化石は見つかっていないものの、生命はカンブリア紀以前に誕生し、カンブリア紀の地層から中生代、新生代へと徐々に複雑な形態に変化していったと考えなければならない。
優れたダーウィニアンになるためには、華氏1700度以上の太陽から投げ出された冷却溶岩が、無機物から生命を生み出す化学元素に変わる可能性を信じなければならない。
信仰について語るなら、それなりの信仰が必要だ。
3600度の高温で溶けた溶岩が冷えて鉱物になり、その岩石が生命を生み出すんだ。
人類は今、ダーウィンが正しかったことを証明しようと、金星や木星など、ありとあらゆる場所を必死に探している。
これはすごいことじゃないか?
政府は500億ドル以上を費やして、生命がこの惑星だけのものではないことを証明するために、他の惑星に生命を見つけようとしている。
生命は生命から生まれたものであり、元の生命は永遠の生命を持つ存在から生まれたに違いない。
物理的な生命が誕生する前に、何らかの生命が存在していたはずなのだ。
もしあなたが真っ当な考えをお持ちなら、そのような生命はどこにあるのでしょうか?
イエスはヨハネの福音書11章25節でこう言われた。
私が人生だ。
ヨハネによる福音書14章6節である。
私が人生だ。
ヨハネによる福音書10章28節である。
私は彼らに永遠の命を与える。
また別の場所では、当時の教養ある人々について、『あなたがたは命を得るために私のもとに来るのだ。
聖書にはこうある。
御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持たない。(第1ヨハネ5:12)
すべての生命は神様から生まれた。
自然発生説は誤りであることが証明され、権威ある科学にはまったく受け入れられない。
学歴を振りかざすことはあっても、自然発生説を信じるような教養人はもう世界中どこにもいない。
大学の教師はいるかもしれないが。
生命には始まりがあるはずだ。
そして、もしあなたが論理的であるならば、唯一の論理的な答えは、始まりは神様とともにあったということです。
これが生命論と呼ばれるものです。
そして最後に、神学的な議論において神様が存在することを論証する際、一致論からの論証があります。
無神論は何の問題も解決しないが、未解決の謎を増やすだけである。
コペルニクスやガリレオの時代から、ピタゴラスやアナクシメネスやアナクシマンデルの時代まで遡って、科学者たちが何を発見したかを科学書や科学の教科書で調べたことがあるなら、科学は世界中のどの大陸においても、人類が抱えていた大きな問題をひとつも解決したことがないことに気づくだろう。
科学がすることは、新しい問題を発見し、古い問題を解決することで、未解決のまま新たな問題を引き起こしている。
科学は人類が抱えていた大きな問題をひとつも解決したことがない。
病気の問題は解決されたことがない。
飢餓の問題も解決されたことがない。
今夜、800万人が空腹のままベッドに入り、そのうち50万人が明日の朝までに死ぬだろう。
人類が始まって以来、あるいはこれからも、科学者が人類の主要な問題を解決した形跡はない。
死の問題は解決されたことがない。
貧困の問題も解決されたことはない。
キリストは言った。
あなたにはいつも貧しい人がついている。(マタイ26:11)。
馬鹿なことを言うな、もちろん取り組んでいるさ。
生計を立てるためには働かなければならない。
あなたはその問題に取り組むことで生計を立てている。
他の人たちはピーナッツの殻を剥いたり、鶏の羽を取ったりして生計を立てている。
だから何?
無神論の恐怖は何の問題も解決せず、未解決の謎を増やすだけだ。
世界の創造主としての神の存在を受け入れることは、聖典の事実、科学の事実、啓示の事実、知識の事実、そして良心と自然の事実のすべてに適合する魔法の鍵のようなものだ。
この反論の余地のない教義は、神様がおられるという確信の慰めのために生きることも死ぬこともいとわない大勢の魂によって、粘り強く保持されている。
聖書によれば、悪魔でさえ神様を信じて震えている。(ヤコブ2:19)。
というわけで、私たちは神の存在に関する最初の研究で、こう結論づけることができるだろう。
無神論は巨大な疑念にすぎず、その不信仰は、それを受け入れる者に暗黒と絶望と災難をもたらすだけだと結論づけられるだろう。
無神論は、無政府主義、異教主義、あるいは、神様としての国家に屈しない何百万人もの人々を拷問し投獄する国際社会主義へと導くだけだ。
無神論の神様は、共産主義か社会主義か、はたまた宇宙から来た宇宙人か、彼らが発明できるものなら何でもいいのだ。
神なき人間など存在しないのだ。
はじめに神様は。(創世記1章1節)
創世記1章1節を受け入れることは、三位一体としての神様、創造主としての神様、そして何よりも救い主であり贖い主である神様ご自身の完全な啓示の道へと、真摯な探求者を導く。
ヘブル11章6節にはこうある。
神のみもとに来る者は、神様がおられ、熱心に求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない。
そして知性ある人間は、聖典や自然の中にある神の啓示に基づき、神が存在することを信じ、信頼し、自らを明らかにしない神は間違った神であると信じて、単純な信仰をもって神に近づくのである。
もしそこに神様がいるのなら、被造物に対してご自分を明らかにする義務がある。
これは不可知論者の科学にとって致命的な打撃となる。
人間は言葉によって互いにコミュニケーションをとる。
人間を動物とは別の被造物として区別しているのは、人間が言葉や文章を使ってコミュニケーションをとるという事実であり、動物には助けを求める鳴き声、空腹を訴える鳴き声、快楽を求める鳴き声、逃げるようにという警告、近づくようにという誘いがあるだけで、言葉でコミュニケーションをとることはできない。
したがって、もしそこに神様がいるのなら、もちろん私たちは自分の心に疑いなくそう言う。
神学的には、言葉によって被造物に自らを明らかにしない至高の存在を信じることは不可能である。
このことは、イエス・キリストがヨハネによる福音書1章に現れたとき、こう書かれているように、神学的真理において非常に基本的で基礎的なことなのである。
初めに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。(ヨハネ1:1)
ヨハネは第一ヨハネ1章でこう言っている。
私たちが見聞きし、手で触れた命の言葉。
私たちクリスチャンは、私に人生の素晴らしい言葉を繰り返し言っている。
もし創造主がいるならば、創造主は被造物に対して自分自身を明らかにする義務がある。
ここにあるようなものを創造し、この世界に6000年にわたる拷問流血殺人強要倒錯死病気貧困心痛飢餓死別戦争投獄の道を歩ませようとする神様。
そのようなことが起こるのを許し、自ら手を引き、それに参加しないことを差し控えるような神様がいたら、あなたはお金を稼ぐための道徳と交換するべきだ。
神学生にとって、このことを理解することは非常に重要である。神道と神性論はどちらも神について教えているが、その神はこの創造に積極的に参加することに関心がない。
一方、聖書の神様はすべての条件を満たしている。
神は肉において顕現され、降臨される。
神様は肉において顕現された。(1テモテ3:16)
キリストは自らを人の子と呼び、悲しみの人、咎のために打たれ、私たちの罪のために傷つけられた人である。
私がこのようなことを言うのは、神のみことばを学ぶ学生や教師に対して、聖書の神様だけが人間の本性を満たすことができる唯一の神様であることを指摘するためである。
私たちの主イエス・キリストの神であり父である神は、どの宗教においても、被造物の苦しみや悲しみを分かち合い、被造物の身代わりとなって死に、永遠の命を無償の贈り物として被造物に捧げることに積極的な、唯一の神なのである。
これは、他のすべての神様を、使い古されたエッセルや使い古されたヨーヨーと一緒にバーゲンのカウンターに置くもので、それらはデマであり、人間の心の渇望を満たすことができないため、本物の悲劇的な代用品である。
私が話している相手は罪人だ。罪は、私が話している相手の誰にでも歩み寄り、あなたの顔に指を突きつけて、汝は人間であると言うことができる。
今朝私が話している人たちは、悪いことをしたくなる誘惑に駆られている。それを認めるかどうかは別として、道徳的な基準を変えても、その義務から解放されるわけではない。
今朝、私が話している人々は病気だ。私が今話している人の中で、地面の穴に向かっていない人はいない。学歴があろうがなかろうが、彼らはあなたをシャベルで囲い込み、ベッドに寝かせる。
さて、どんな神様がそこから救い出してくれるだろう?
それに参加したのでもない限り、どうやってそのことを知るというのだ。
もしあなたが崇拝している神様が、原子や陽子や電子の動きをコントロールする、宇宙における中性の力やエネルギーの力場に過ぎないのだとしたら、2歳児が知らないようなことを本当に知っているのだろうか?
さて、ここで神様という人物を論理的に研究してみよう。
神についての研究は、何千年もの間、哲学者や科学者の野望であった。ある人々は座って瞑想し、永遠の存在の領域に思いを馳せようとするが、神についての唯一の真の知識は、神様自身の啓示から得ることができる。
神様は人間の微細な詮索の対象ではない。
神様は啓示の主体なのだ。
ヨハネによる福音書1章18節にはこうある。
父の懐におられるひとり子を、神は宣言された。
第一ヨハネ4章12節にはこうある。
人はいつでも神様を見たことがない。
出エジプト記33章20節で、主はモーセに言われた。
あなたは私の顔を見ることができない。
さて、モーセは神様と話し、神様の啓示を見たが、主の顔を直接見たわけではない。
聖書の中で神の子として啓示されているイエスは、罪人に父なる神様を啓示するために天から下って来られた。
だから、ヨハネによる福音書14章7節から11節でフィリポに語った時、イエスは自分が神の啓示であると言われた。
私を見た者は父を見たのだ。
異教の知恵は汝自身を知れと言い、モハメディズムは汝自身を従わせよと言い、現代教育は汝自身を悟れと言い、ローマ主義は汝自身を支配せよと言い、仏教は汝自身を沈めよと言う。
自分を否定させなさい。(ルカ9:23)
労苦している者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。わたしのくびきは軽く、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28-30)
ヨハネの福音書17章3節には、神様とその御子キリストがいかに永遠の命を与えてくださるかが書かれている。
それは、あなたが唯一のまことの神様であり、あなたが遣わされたイエス・キリストであることを、彼らが知るためです。
1932年に開催された万国博覧会の宗教大会で、数十もの宗教の有権者が集まり、エキュメニカルな狂気について語り合い、人間の兄弟愛における神の父性についてすべての人間をひとつにまとめようとした、その中にはローマ・カトリックの枢機卿、司教、ギリシャ正教の長老、総主教、プロテスタントの助祭、説教者、教師、コーランの読者、仏教徒、ヒンドゥー教の教祖も含まれていた。
ジョセフ・クックは立ち上がり、手を上げて言った。
マクベスが殺人を犯した後、彼はこう言った。
つまり、罪を犯した今、どうすればきれいになれるのか、ということだ。
その方法を永久に教えてくれる宗教はなかった。
ローマ・カソリックは、罪を告白し、悔い改めと赦免を受け、懺悔をするようにと言った。しかし、彼は天国への希望しか持てず、地獄に行くかどうかは死ぬまでわからないため、そのことがなくなったことを確信することはできなかった。
プロテスタントは、罪を償うために善行を積めと言った。
仏教徒は、もし彼が八正道に従えば罪を犯さなかっただろうと主張した。
しかし、それで問題が解決することはなかった。
問題は、永遠に生きる存在に対して罪を犯したことである。
それが問題なのだ。
聖書に書かれていることが真実でない限り、答えはない。
御子イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめます。
そしてまた。
この方にあって、私たちはその血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。(コロサイ1:14)
神の人格に関する次のレッスンでは、神の人格について説明する。
人格とはもちろん、知識と感情と意志の力を持つことである。
偶像には人格がない。偶像は知識も感情も反応もないからだ。
私たちの神様は生きている個人であり、明確な人格的特徴を持っている。
神様は人です。
電気のような影響力や目に見えない力ではない。
エレミヤ書10章10節にはこうある。
主はまことの神、生ける神様である。
使徒言行録14章15節にはこうある。
これらの虚栄から生ける神へと立ち返れ。
テサロニケ人への第一の手紙1章9節には、改宗者たちのことが書かれている。
偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕える。
第二歴代誌16:9にこうある。
主の目が全地を行き来するのは、主に対する心が完全な者のために、ご自分を強く示すためである。
神の動く目は生命と人格を表し、それは私たちが擬人的表現と呼ぶもので、もちろん神様が私たちに理解できる言葉で語っておられることを意味する。
もちろん、私たちはこの箇所で、父にはふたつの目玉とまぶたとまつげはないが、息子にはそれがあり、息子は肉において顕現された神様であり、この地上におられたとき、目を上げて収穫の真っ白な野原をご覧になったことを理解している。
彼はガリラヤの海を見渡す目を持っていた。
もちろん、神は霊であり、主の目は全地を行き来しているという絶対的な意味において、私たちは擬人的に語っていることを理解している。
所得税申告書を渡し、わかりやすい英語で話しかけることで、動物にご自分を明かしてほしいものだ。
獣の霊は獣に通じ、人の霊は人に通じる。
神の霊は、擬人的な表現を用いない限り、人間の霊に伝えることはできない。なぜなら、擬人的とは人間の表現であり、擬人化とは人間のような形を意味するからだ。
だから、聖書が神様の目や心や鼻や耳について語るとき、それはもちろんあなたが理解できる普通の言葉で語っている。
神学を学ぶ上で、神様についてまず知る必要があるのは、神様が存在することを知った上で、神様には人格があることを知ることです。
次のパートでは、神様の性質、神様の統一性、神様の自然的属性、神様の道徳的属性についてお話します。
これはもちろん、神学についての第3部です。
この神学セミナーに毎週参加していただき、神様のみことばの偉大な神学的教義を一緒に学んでいただけることを信じています。
私たちの最初のシリーズは、前にも述べたように、神様、神様の性質、特にお父様の性質を扱っています。
次回の学びまで。
主の祝福とごきげんよう。