ウェブ神学セミナー:第48部
2024年8月25日
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主イエス・キリストの御名によって、あらためてご挨拶申し上げます。
御霊に満たされた人生を扱う今日のレッスンを楽しんでいただけると信じています。
この一連のレッスン。
この数週間は、系統神学と教義神学の中で、主に気学と呼ばれるテーマを扱ってきました。
気学とは霊の世界の研究です。
この特別なケースでは、聖霊の働きです。
というのも、結局のところ
私たちはまだ神学の研究を終えていません。
神性について学びます。
この特別なレッスンでは、信者の聖霊に満たされた生活について話しています。
そして今日のセッションと次回のセッションでは
神の子の御霊に満たされた生活について、25分ほどお話します。
さて、回心した時、信者は義とされた人生を受け取りました。
義と宣言されたのです。
このことはローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙から明らかです。
バプテスマによる再生という古代の異端を信じる人々が、ガラテヤ書とローマ書から2節しか取り出さないのは、ガラテヤ書とローマ書の内容に耐えられないからです。
彼らがローマ書から引用するのは、ローマ人への手紙6章の霊のバプテスマに関する箇所だけです。
彼らはそれを水のバプテスマに変換します。
同じ意味です。
ガラテヤ書の中で、彼らがバプテスマによる再生のために引用するのは、水のバプテスマとは何の関係もないガラテヤ3章の一節だけです。
ですから、不品行な長老や不品行な説教者の際立った特徴は、ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙を死の疫病のように避けることです。
そして、ガラテヤ3章とローマ6章から文脈から抜粋したこの2節を除いては。
自分を正当化するために業と水のバプテスマを当てにしている人は、ローマ書もガラテヤ書も決して教えることができません。
実のところ。
ガラテヤ書もローマ書も、救われていない、あるいは不品行な長老が教えることは不可能です。
なぜなら、この二つの書物は、信仰による義認を明白に教えているからです。
信仰による救い。
信仰による永遠の保障。
そして、信仰者は義と宣言され、その罪はイエス・キリストに赦され、キリストの義が彼に赦されました。
今、信者は義とされた人生を受け取りました。
義と宣言されたのです。
これに続いて、私たちの人生の所有権が主にあることを認めるとき、聖別された人生が始まります。
第一コリント6:19-20にはこうあります。
あなたがたの体は、あなたがたのうちにある聖霊の神殿であることを知らないのですか。神様から授かったものです。あなたがたは自分のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのですから。
ですから、私たちは贖われたのです。
私たちは主のものです。
私たちは自分の人生と意志を主にゆだねます。
それは、私たちが主と正しい関係にあればの話です。
ローマ人への手紙12章1節から2節まで。
そして、悪と利己主義を捨て去るとき、空っぽの人生が続きます。
悔い改めて告白し、バプテスマを受けて人生をきれいにすれば救われる、自分自身が救い主になれると考える愚かな間違いを犯す人がいます。
彼らが気づいていないのは、聖書の中には、魔術師シモンのように、信じてバプテスマを受けた人がたくさんいるということです。
そして、イスカリオテのユダのように悔い改めて告白する者。
そして、悔い改めて告白し、信じてバプテスマを受ける者。
彼らの人生を一掃し、そしてイエス・キリストを殺害してください。
独善的な人間の問題は非常に単純です。
救われていない人間であること。
彼はどんな救済も理解できないので、自分で考案したのです。
この真面目な悪党どもは皆、人は悔い改めて告白し、信じてバプテスマを受ければ地獄に行けると決めてかかっています。
それゆえ、クリスチャンは救いを失い、地獄に落ちる可能性があるのです。
これがミッキーマウス神学と呼ばれるものです。
そして、それを信じるほど迷信深い人々にとっては興味深いことです。
しかし、体系的、教義的、聖書神学的に聖書を真剣に学ぶ者にとっては、幼稚なナンセンスの数々です。
人が自分の人生を清め、罪と悪から人生を空にするとき。
7つの精神が彼に入り込み、彼は以前よりも悪くなる可能性があります。
空っぽの人生は、救われた人生ではありません。
イエス・キリストの義がその罪人に付与されていなければ。
主における彼の地位は、罪のない完全なものです。
真空の中では生きられません。
クリスチャンは聖霊に満たされなければなりません。
エペソ人への手紙5章18節の戒めです。
過度のぶどう酒に酔ってはなりません。御霊に満たされなさい。
新約聖書のどこにも、聖霊によるバプテスマを受けるようにという戒めはないことにお気づきでしょう。
新約聖書全体を見ても、聖霊のバプテスマを受けなさいと命令されている箇所はありません。
なぜなら、すべての信者は、イエス・キリストを受けたときに聖霊のバプテスマを受けたからです。
戒めは「御霊によるバプテスマを受けなさい」ではありません。
その戒めとは、聖霊によってキリストの体に入れられた後は、聖霊に満たされなさいということです(エペソ5:18)。
ある有名な説教者が、酒に酔っていた長老を懲戒処分にした会衆の話をしたことがあります。
そして彼は言いました。
"聖霊に満たされていない長老をどうしますか?"
どちらも同じ節を指しています。
つまり、御霊に満たされない罪は、酒に酔う罪に等しいのです。
同じ節にこうあります。
ぶどう酒に酔うのではなく、御霊に満たされなさい。
どちらの戒めも命令形であることに注目してください。
「ワインに酔ってはならない」というのは命令です。
しかし、御霊に満たされなさい」という命令文が続きます。
そして、この有名な伝道師が言っていたことは、事実上、こうです。
そして、彼が言ったことはまったく正しかったのです。
もしクリスチャンが御霊に満たされていないなら、外で酔っ払っているのと同じように、神様に対して罪を犯したことになります。
そしてもちろん、この基準のために、ほとんどのバプテストはひどい窮地に立たされています。
だからこそ、彼らはカリスマ的なムーブメントの虜になってしまったのです。
彼らは、聖霊のことをやたらと悪く言うお間抜けさんたちの餌食になってしまったのです。
キリストのからだの中で救われている信者たちは、聖霊が自分のうちにおられることを知りません。
聖霊に満たされていないのです。
だから、自分たち以上に聖霊に満たされていない人たちの餌食になるのです。
回心したとき、信者はイエス・キリストにあって完全なものとなります。
このことは、コロサイの信徒への手紙から、あなたが救われていない人間でない限り、見逃すことはできないでしょう。
コロサイの信徒への手紙では、クリスチャンはキリストにあって完全であると教えられています。
なぜなら、この方のうちに、神の全存在が肉体的に宿っているからです。(コロサイ2:9)
そして、あなたは彼の中で完全なのです。
救われたとき、人生に欠けているものは何もありません。
もしあなたが聖霊に満たされていないなら、2つのうちどちらかが間違っています。
第一に、神様があなたを聖霊で満たしてくださるように祈っていません。
あるいは2番、もしそうなら。
あなたの人生において、聖霊にゆだねていないのです。
聖霊のバプテスマに関しては。
聖霊は、あなたが救われたその日に、イエス・キリストへのバプテスマを授け、イエス・キリストの体にあなたを浸しました。
そして聖霊が来て、あなたの体に宿りました。
それは主に属する、買い取られ、贖われた器です。
神様の言葉を真剣に学ぶかどうかの違いです。
そして、真理のことばを正しく分けなさい。
使徒言行録2章やヤコブ書2章に書かれているようなことも。
イスカリオテのユダほども救われておらず、自分が何を言っているのかまったく理解できていない人たちの言うことは、もっと悪い。
キリストを受け入れたとき、あなたはキリストの中で完全になります。
彼さえいればいい
コリントの信徒への手紙第二3章には、聖霊は主であると書かれています。
そして主はその霊です。
怒らないで読んでください。
改心の事実によって、すべての信者は聖霊を持っています。
ローマ人への手紙8章16節とエペソ人への手紙1章12節と13節には、救われたときに聖霊によって結び固められたと書かれています。
それを信じないなら
それは、あなたがクリスチャンだと公言した不届き者に従っているからです。
今、私たちは人生の主導権をゆだねます。
聖霊は私たちをますますご自身で満たしてくださいます。
ガラテヤ書でパウロが、キリストが信者のうちに形づくられるように祈ったというのは、こういう意味なのです。
聖霊は存在することはあっても、主宰することはありません。
ルカによる福音書11章13節にはこうあります。
あなたがたの天の父は、求める者にどれほど多くの聖霊をお与えになることでしょう。
そして、聖霊の満たしのために祈るように教えられています。
ルカが書かれたのはペンテコステのずっと後です。
そしてペンテコステは、内在するキリストについて語りました。
ルカによる福音書11章13節は、聖霊の満たしと充満を求めています。
改心とは別の経験があるとすれば
そうではないかもしれません。
でも、多くの場合はそうです。
だからこそ、降伏したときに聖霊のバプテスマを受けると考える愚かな人がいるのです。
これらの人々は、自分の経験に基づいて神様の言葉を拒絶しています。
そして、若い不安定なクリスチャンたちは、いつも自分の感情で神の言葉を判断しているのです。
もちろん、これは非常に愚かで、非常に賢明ではありません。
聖書はすべての書物の発祥地を見ました。
そして、彼らは墓を見るでしょう。
そして、その教義が書かれたこの本は、あなたのひいひいおばあさんが生まれる前に確立されていたのです。
そして、もし主が遅らせてくださるなら、あなたのひ孫が死んだ後も、それは有効でしょう。
使徒言行録やヘブル書を、自分が救われた後の感覚で判断するのは、実に愚かなことです。
それは非常に賢明ではありません。
救われた時
神様はあなたを救い、その義を与え、あなたを義とし、義と宣言されました。
そして、その聖霊をあなたがたの内に置いてください。
しかし、聖霊のリーダーシップに委ねることは、また別の話です。
人の人生の危機は、イエス・キリストを受け入れた時ではなく、救われた後の場所に来た時であることがあります。
聖霊は、彼が自分の意志を神のみこころに委ねるという降伏の地点に彼を導きたいのです。
これは当然、神の子の経験において最も危険な場所です。
この意志の服従という問題で最も危険な場所。
なぜなら、サタンほどあなたの意志をコントロールしたい者はいないからです。
ですから、クリスチャン生活で最も危険な体験は、救われてキリストを受け入れた後です。
人生で最も危険なのは、聖書を信じると公言し、聖句を引用するカルトや宗派が彼に近づき、自分の意志を神のみ心に従わせることが感情的な経験だと思わせようとするときです。
この時期は、新生児にとって最も危険な時期です。
そしてここは、ほとんどの赤ちゃんが霊的に生まれてすぐに死んでしまう場所なのです。
クリスチャンであることを公言し、聖書を引用するカルトや宗派が、罪人が救われた直後まで決して襲いかからないのは、このためです。
ソウルウィナーなら、この作戦はご存じでしょう。
今日、世界には4つの教会グループがあります。
平等な時間と公平な時間の実践では、左翼急進派だけが平等な時間を持つことができるからです。
つまり、こういうことです。
つまり、ローマ法王がクリスマスの日に全国または全世界のテレビに出たとしたら、ということです。
そして、彼がクリスチャンとは何であるかを世界に示すための30分間を得たのです。
聖書を信じる右派のキリスト教徒は、その番組が終わったときに、5分間の反論を許されることはないでしょう。
つまり、こういうことです。
10時のニュース番組やテレビで、ベイルートやレバノンでキリスト教徒とイスラム教徒が争っていると言われたら......。
その番組が終わったとき、聖書を信じるクリスチャンで、ギリシャ正教の兵士が必ずしもクリスチャンではないことを5分も説明できる人は世界中にいないでしょう。
時間均等法は、真実の普及を阻止するために実施されました。
だから、私が4つの宗教グループについて話すとき、あなたはそれが誰であるかを推測しなければならないでしょう。
しかし、あなたが住んでいる町にある4つの宗教団体は、新しいクリスチャンに取り入り、そのクリスチャンの聖書の権威に対する信仰を破壊することに時間を費やしています。
そしてそのクリスチャンに、教義体系や感情的な体験が聖書を判断する権威だと思わせるのです。
ですから、あなたの故郷で。
そして、それらは神様の聖霊とは何の関係もありません。
弟子たちはエルサレムで聖霊降臨を待っていた時期でした。
ルカによる福音書24章49節
ペンテコステは経験ではなかったからです。
この日はユダヤ教の祭日でした。
使徒言行録2:4は、御霊が住まわれるようになったときに、この約束が成就したのです。
ですから、聖霊はユダヤ人の祝祭日を選んだのです。
二千年に一度のユダヤ人の祝祭日。
その経験を認めるために。
その結果、この地上で起こったペンテコステのうち、1900回をはるかに超えるペンテコステが起こりました。
その中で、聖霊の降臨を伴ったのはただ一つ。
今、すべての信者は聖霊を持っています。
しかし、聖霊は信者一人ひとりを支配しているわけではありません。
信者はまだこの頑固な反抗的意志を古い本性の中に持っています。
彼は祈っても祈らなくてもいいのです。
彼は与えるかもしれないし、与えないかもしれません。
彼は目撃してもしなくてもいいのです。
降伏するかしないか。
つまり、生まれ変わった神の子は、聖霊に従うことも、抵抗することも、悲しませることもできるのです。
過去2回のレッスンで、聖霊に対する罪についてお話ししました。
信仰の頂点に立つ行為は、信仰者が自分の人生を聖霊に委ねることです。
そして、この絶対的な降伏の時点で、サタンはあなたの人生を欲しているのです。
救われた罪人が自分の人生を聖霊に委ねることが、信仰の頂点に立つ行為なのです。
そして、悪魔がクリスチャンとしての残りの人生を手に入れるためにしなければならないことは、聖霊を偽造することだけです。
簡単なことです。
信者が救われ、自分の全生涯を聖霊に捧げ、聖別する準備ができたら、すぐに。
サタンがすべきことは、聖霊を偽造することだけです。
そして、神の子としての地上での残りの人生を手に入れたのです。
これが、毎年100万人以上がキリストへの信仰を公言しているという、今日信者が目にする不思議な現象の理由です。
それなのに、20年後に2千万人の信仰表明がありました。
聖書に書かれていることを実行しているクリスチャンは50万人もいないでしょう。
何が問題なんですか?
問題は、毎年100万人がキリストを公言していることです。
そのうち80万人が神への信仰を失います。
そして、救われてから2年以内に神のみことばに従うことです。
聖霊の満たしは、信者が意識的に聖霊が自分の人生を完全に支配していると認識するときに受けます。
彼の人生の細部に至るまで完全に支配しているのです。
そして、聖霊が霊感を与えて守られた御言葉の中で聖霊が言われたことに反して信者を導くことはありません。
聖霊が使徒言行録2:38に書かれたとき、改宗者はユダヤ人とユダヤ人の帰依者でした。
使徒言行録2章3節4節5節でクリスチャンが一人もいなかったと聖霊があなたに告げたとき。
そして、使徒の働き11章までクリスチャンはいませんでした。
今、聖霊の満たしは従うべき命令です。
ステファンやポールのような人たちにとっては、素晴らしい贅沢ではありません。
それはすべての信者が経験すべきことです。
エペソ5:18は任意の戒めではなく、必須の戒めです。
御霊に満たされなさい。
そして、エペソ5:18に描かれているのは、聖霊という別の力や天の力によって完全に方向づけられた人間や影響力との対比です。
使徒ペテロは、使徒言行録2:4と使徒言行録4:8で聖霊に満たされ、使徒言行録4:31で再び聖霊に満たされました。
使徒言行録4章8節に注目してください。
信者が御霊に満たされると、異言を話すことはありません。
使徒言行録4:31に注目してください。
信者が聖霊に満たされるとき、異言を話すことはありません。
使徒言行録4:8と使徒言行録4:31にある、聖霊に満たされた信者の際立った特徴に注目してください。
神様の言葉を大胆に宣べ伝えていることです。
神様の敵に対して公に。
つまり、説教壇の中だけで説教して回っている異端者や宗派やカルトはすべてそうだということです。
そして、街頭や市場、そして自分たちの住む地域社会に対して公然と立ち向かうことを恐れている人たち。
彼らは聖霊の満たしを知らないし、経験したこともありません。
人が聖霊に満たされるとき。
彼は自分の信念を屋外に持ち出し、イエス・キリストを地域社会に撒き散らします。
彼はビルの説教壇の後ろでも、安全策をとらず、ベストに近いところにいます。
誰もが聖霊の満たしを必要としています。
イエス・キリストを信じる者は皆、聖霊の満たしを必要としています。
聖霊の満たしは使徒のためのものです。
説教者
先生方。
父親たち
母親たち
若者たち。
労働者。
レンガ職人。
請負業者。
トラック運転手
溝掘り。
食器洗い機
私が話しているすべてのクリスチャンは、あなた自身の利益のために聖霊の満たしを必要としています。
最高のクリスチャンになるために
そして、それなしには、主の御心や、人格や奉仕に関する主の祝福を得ることはできません。
聖霊の満たしは個人の祝福です。
そして、それは地域社会への祝福でもあるのです。
人々が救われ、あなたの地域の悪魔が鎮圧されるからです。
街頭説教がどんな町でも成し遂げる最大の善は、人々を動揺させ、平和を乱すことです。
そして、もし平和が何かに邪魔される必要があるとしたら。
正しいことに邪魔される必要があります。
今、信者を満たしている聖霊は、イエス・キリストを連れ去り、地域社会中に散らします。
ドアをノックしてください。
工場からの証人。
店内の目撃者
工場の証人
乾物売り場の向こうで目撃。
ホテルのロビーでの目撃者。
カフェテリアでの目撃者
レストランでの目撃者
そして、4、5回前の聖霊のレッスンを思い出してください。
主イエス・キリストがこう言われたのを覚えていますか。
聖霊はご自身のことを語るために来られたのではありません。
ですから、聖霊によるイエス・キリストの個人的な証しです。
霊に満たされた信者によって、決してエキュメニカルな運動や聖霊の愛の証人ではありません。
イエス・キリストの十字架刑の死と埋葬、そして血による贖罪の証しです。
エキュメニカルとか、愛の運動とか、経験を分かち合うとかいう現代の運動の90パーセントは、偽物の運動なんです。
イエス・キリストの死と葬りと復活を強調しないからです。
それが福音です。
そしてそれこそが、聖霊がこの時代に証しするために来られたことなのです。
聖霊は私たちの心を照らしてくださいます。
私たちの愛情を温めます。
私たちの良心を浄化します。
私たちが降伏するまで、私たちの意志に活力を与えます。
そして、私たちを主イエス・キリストの支配に委ね続けることができるのです。
これで、霊に満たされた生活についての今日のレッスンは終わりです。
それとも、レッスンの半分と言うべきでしょうか?
次回のセッションでは、この素晴らしいテーマの続きをお届けします。
信者の霊に満たされた生活。
次回は、なぜ教会がメンバー全員を聖霊で満たす必要があるのかについてお話しします。
なぜ世間は信者が霊に満たされることを期待するのか
それから、とても重要な話題です。
聖霊に満たされる条件。
そして、聖霊に満たされた結果。
そして、神の霊が満たされるための条件と、聖霊に満たされた結果について、聖書の一節一節を詳しく学びながら、これらの事柄を取り上げていきます。
来週のレッスンにもまたご参加ください。
そして、私たちの最初の47レッスンをまだ見たり聞いたりしていないなら。
これらの情報はすべて当社のウェブサイトでご覧いただけます。
それまでは。
主の祝福がありますように。