ウェブ神学セミナー:第52部
2024年9月22日
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ありがとうございました。
神様のみことばを学ぶ学生、教師の皆さん、こんにちは。
今回も「神学セミナー・オブ・ザ・ウェブ」のセッションです。
この数週間、私たちの現在の学びは気学、つまり聖霊についての学びです。
前回のレッスンでは、聖霊に満たされた生活について話し合いました。
神様の聖霊に対する罪。
いわゆる聖霊のバプテスマ。
そしてこのレッスンでは、聖霊の働きのより実際的な側面について話し合います。
聖霊の実と聖霊の賜物を扱います。
現代では、人々は労働よりも配給に関心があります。
そしてこのことは、クリスチャン・サーキットにおける二つの重要な事柄に現れています。
この世で必要とされているのは聖霊の実であって賜物ではないという重大な真理。
それなのに、聖霊について絶えず語っている人たちは、いつも実ではなく聖霊の賜物を気にしているようです。
そして不思議なことに
聖霊の実について語るとき、彼らは聖霊の実について最も重要なことを省いてしまうのです。
そしてそれは、第一に神様を愛すること、第二に神様の言葉を愛することなのです。
現代のカリスマ的エキュメニカル運動は、第二の戒めに重点を置いています。
そして、隣人への愛、仲間のクリスチャンへの愛が、神様のみことばへの愛よりも優先されます。
罪のない神のみ言葉よりも罪人への愛が優先されるのです。
そして、このことが、今日、神の言葉を曲解する数多くの人々を生み出しているのです。
第一の命令よりも第二の命令を優先するクリスチャンを見分ける最も確実な方法。
それは、書かれた神のみことばに対する態度です。
キリストは言われました。
わたしを愛するなら、わたしの言葉を守るでしょう。(ヨハネ14:23)
だから、神様への愛を証明するものが、二人が愛し合っているという事実だというのは、的外れもいいところ。
神様を愛している人は、神様の言葉を守ります。
キリストを愛しているなら、キリストの言葉を守るでしょう。
そして、神の言葉を愛さない神への愛は、聖書では未知で前代未聞の量子です。
それは、現代のキリスト教においてのみ現れる未知の経験です。
しかし、人は神様がおっしゃったことを拒絶しながら神を愛することができます。
とサミュエル。
従うことはいけにえにまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさります。(サムエル記上15:22)
キリストは言われました。
天地は過ぎ去りますが、わたしの言葉は過ぎ去りません。(マタイによる福音書24章35節)
そして
もし人がわたしを愛するなら、わたしの言葉を守るでしょう(ヨハネ14:23)
ですから、聖霊の実について語り、愛を表現しているはずの人々がいるのです。
気をつけなければなりません。
彼らは決して聖書の愛や霊的な愛を指しているのではないことを忘れないでください。
彼らが言っているのは、滑らかな口調で親切に話し、握手を交わし、ハグをする肉体的な愛や、健全な教義について口をつぐんで誰かを怒らせないような愛のことです。
原理主義者の間にある現代の人文主義運動は、リベラルな運動です。
そして、背教原理主義者は、最近のキリスト教学校の多くの教員に代表されています。
信仰の基本を信じると公言しているところでも、権威に対してリベラルなアプローチを取ります。
このような人たちが権威を回避する方法は、神様がいつかどこかで、無謬で権威のある書物を書かれたと装うことです。
でも、誰も持っていないし、誰も見つけられないので、誰も読むことができません。
それから?
そして答えはこうです。
それなら、人はみな自分の権威です。
あるいは、どの学校も独自の権威を持っています。
あるいは、自分が権威だと思っている人は、自分が権威だと思っている他のすべての人と議論することになります。
無政府状態です。
これがリベラルな近代主義教会の立場です。
さて、これはすべて今日の主題に関連しています。
なぜなら、今日の主題はクリスチャンに聖霊の実の違いを示しているからです。
それが、聖霊が生まれ変わった信者の生活の中で実際になされることなのです。
そして御霊の賜物。
キリストの体に与えられた特別な賜物、その多くはイスラエルに与えられた使徒のしるし。
だから、とても関連性があるんです。
聖霊の賜物をしきりに強調する人の中には、聖霊の権威を否定し、実りのない人生を送る人もいます。
彼らが考えているのは、御霊の実、愛です。
聖霊の働きと実りには明らかな違いがあります。
御霊の働きは、信者の人生における御霊の積極的な働きの直接的な結果です。
あるいは、パウロが言うように。
神様が、あなたがたのうちに、御心に適うように、また御心に適うように働いてくださるからです。(ピリピ2:13)
御霊の実とは、御霊が内に宿り、私たちが御霊にゆだねることの結果です。
ガラテヤの信徒への手紙5章17節から23節には、肉の業と御霊の実との間に非常に鋭い対比があることに注目してください。
ガラテヤ人への手紙5章に列挙されている肉の業には、17のものがあります。
それらはアダムの性質の自然な結果です。
御霊の実とは、聖霊が新しい命の中で働いてくださる結果です。
御霊の実、9つの実が与えられています。
果物の複数形ではなく、単数形で語られています。
しかし、御霊の実は、実の一体性を意味します。
9人全員が揃わないと完成しません。
クリスチャンは、聖霊の9つの恵みあるいは実をすべて現さなければ、完全ではありません。
さて、まず最初に。
このセッションでは、聖霊の実について話し合います。
次回は、聖霊の賜物についてお話しします。
当然、実よりもプレゼントに興味を持つ人もいます。
結局のところ、プレゼントは彼が自慢したり見せびらかしたり、スピリチュアルなふりをしたりできるものだから。
これについては次回のセッションでお話ししましょう。
聖霊の賜物について語るとき。
もちろん、キリストの体の中で今も活動している賜物と、イスラエルにしるしとして与えられた賜物とを区別するように、細心の注意を払ってください。
決して忘れてはならないことです。
もし聖霊の言葉に少しでも注意を払おうとするならば。
また、聖霊に導かれ、聖霊が語っておられることについては大いに語るのに、聖書の中で聖霊が語っておられることについてはほとんど語らない人もいます。
私たちは、イスラエルに関連して起こることと、この時代に起こることを区別するよう、細心の注意を払いたいと思います。
そして、いくつかのしるしはイスラエルのためのものであることに注意しなければならないからです(1コリント1章22節)。
ユダヤ人がしるしを求めるのは、国がしるしから始まるからです(出エジプト記3章と4章)。
ですから、彼らにはサインを見る権利があります。
だからこそ、イエス・キリストの使徒的信者である十二使徒がいるのです。
みんな豚肉を食べなかった人たち。
安息日を守ること。
神殿崇拝。
割礼を受けているユダヤ人。
彼らはマルコ16章のしるしを受けてイスラエルに宣教しました。
ですから、聖霊の賜物について学び始めるときには、十分注意してください。本を書き、賜物を与え、しるしを与えた聖霊ご自身が、そうではないとおっしゃったのに、これらの賜物はすべて今も教会で活動していると言おうとして、決して間違いを犯さないようにしてください。
誰かが言いました。
"イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に変わらない方ですから、それらはすべて今も顕在なのです"
それが聖霊の賜物とどのような関係があるのかは、まだ分かりません。
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです。(ヘブル13:8)
節から10章以内では、聖霊の賜物とは何の関係もありません。
イエス・キリストは水の上を歩かれました。
どういう意味ですか?
イエス・キリストは、昨日も今日も、そして永遠に同じです。
そして
わたしを信じる者は、わたしの行うわざをその者も行うでしょう。そして、これらよりも大きなわざを行うのです。(ヨハネ14:12)
あなたは水の上を歩けますか、それとも説教者が水の上を歩けると信じますか?
あなたをいい気分にさせるためだけに、信じられないような話をする悪党どもを信じないでください。
イエス・キリストは、昨日も今日も、そして永遠に同じです。
ということは、すべてのしるしと使徒の賜物は、今も教会で実践されているということですか?
もっと聖書を読むべきです。
イスラエルのためのしるしがあり、使徒言行録の終わりにはイスラエルは脇に置かれています。
使徒言行録28章を読みましたか?
使徒言行録2章を常に引用している人たちが、使徒言行録28章を読まないのは不思議です。
おかしいと思いませんか?
さあ、御霊の実を語りましょう。
ガラテヤ5:22-23は、9つの恵みを一つの単位として挙げています。
御霊の単数の実。
その1、愛。
今、これは神の愛です。
第1ヨハネ4:16と第1コリント13章によれば。
それは神様が内在している属性です。
この御霊の実は、まず神様ご自身への愛によって現れます。
私たちが彼を愛するのは、彼が最初に私たちを愛してくださったからです。(第1ヨハネ4:19)
そして、私たちの罪のための身代わりとなるために、御子を遣わされたのです。(第1ヨハネ4:10)
ここに愛があります。私たちが神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛してくださったのです。
しかし、神様は私たちに愛を注いでくださいます。それは、私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださったからです。(ローマ5:8)
信者の人生における聖霊の最初の現れは、神様への愛です。
第二の愛は、神様の御言葉への愛です。
イエスは言われました。
もし人がわたしを愛するなら、わたしの言葉を守るでしょう。(ヨハネ14:23)
聖書は第一ペテロ2章2節でこう言っています。
生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばの真心の乳を求めなさい。
聖書にはそんなものはありません。
表紙から表紙まで
聖書を信じるクリスチャンが救われ、霊的賜物やペンテコステを愛し、神様が聖書の中で語られた言葉を愛していないようなものです。
そんなものはありません。
神様の言葉を愛さずして神様を愛することはできません。
神様を愛さずして、その言葉を愛することはできません。
はじめに言葉ありき。言葉は神様と共にありました。そして、言葉は神様でした。(ヨハネ1:1)
イエス・キリストは肉において受肉された神の言葉でした。
そして聖書は、あなたが手に入れることができる印刷された神の言葉です。
聖霊は神のみ言葉への愛を人に与えますが、それは歪曲された真理の言い換えという意味ではありません。
わかりました。
この第三の愛の現れ方は、神の民に対する愛です。
聖書にはこうあります。
あなたがたが互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたはわたしの弟子であることが、すべての人にわかるのです。(ヨハネ13:35)
それが、私たちが救われたことを知る方法のひとつです。
私たちは、兄弟たちを愛しているからこそ、永遠の命があることを知っています。
今、兄弟たちを愛していると公言している人たちがいます。
でも、彼らには不思議なところがあるんです。
彼らは永遠の命を持っているとは公言していません。
神様の言葉の権威を否定する人は、おかしいと思いませんか?
どんなに頭がよくても、スピリチュアルでも、やり遂げる前に狂ってしまうんです。
と言う男がここにいます。
「あなたには愛が足りないのよ。もし誰かが十分な愛を示さないなら、私たちはもっと愛を持ち、兄弟たちを愛するべきです。こんな小さな教義の違いなんて無視して、お互いに愛を示し、愛によって世に示すべきなのです」。
しかし、詩にはこう書かれていました。
私たちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへと移ったことを知っています。(第1ヨハネ3:14)
80パーセントの人は、死から生に変わったかどうかわからないんです。
彼らの愛は明らかに人間主義的な愛であり、聖霊の実とは何の関係もありません。
御霊の第二の実は喜びです。
これはいわゆるこの世の幸せではありません。
彼らが楽しいと呼ぶもの。
しかし、試練を乗り越え、頂点に立つ深い深い喜び。
ローマ人への手紙8章28節
神様を愛する者、神様の目的に従って召された者には、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています。
逆境にある神の子としての喜びは、この世で繁栄しているときよりも大きいのです。
多くの映画スターが脳みそを吹き飛ばしたり、ドーピングで自殺したりするのもこのためです。
多くの大富豪が自殺したのもそのためです。
楽しかったけど、喜びはなかったですね。
喜びは聖霊の実です。
平和です。
これこそ、すべての理解を超える神様の平和です。
特にこのことに関しては、魂を完全に満足させてくれます。
コロサイの信徒への手紙3章15節
そして、あなたがたの心を神様の平和が支配するようにしなさい。そして感謝しなさい。
イエスは言われました。
私の平和をあなたに与えます。世が与えるようにではなく、わたしがあなたがたに与えるのです。心を騒がせるな。(ヨハネ14:27)
そして彼は言います。
この世では苦難に遭うでしょう。しかし、元気を出しなさい。わたしは世に打ち勝ったのだから。(ヨハネ16:33)
心の平穏も平和もない世代に、あなたは思うでしょう。
誰かが聖霊の平和を得たいと思っていると思うでしょう?
ジョシュア・リブマンは『ピース・オブ・マインド』という本を書きました。
そして、フルトン・シーンは『魂の平和』という本を書きました。
ビリー・グラハムは "神様との平和 "という言葉を書きました。
そして聖書は言いました。
その十字架の血によって平和を造られたのです。(コロサイ1:20)
しかし、この方は、罪のために一つのいけにえを永遠にささげた後、神の右の座に着かれました。神の右の座に着かれました。 (ヘブル10:12)
それを信じない人を見分けるもう一つの方法があります。
救いの保証がないという事実によって。
完全な愛は恐れを追い出します。恐れには苦しみがあるからです。恐れる者は、愛において完全ではありません。(第1ヨハネ4:18)
もしあなたが救われ、永遠の命があり、聖霊があなたの中におられるなら、あなたは自分が救われていることを知っています。
あなたには平安があります。
心配することはありません。
それを心配する人は、偽善者か、誤解されているか、聖典をひどく誤解しているかのどちらかです。
聖霊の次の実は、長い忍耐です。
自然人はせっかちです。
新しい人、新しい性質。
クリスチャンは主のように寛容です。
次に現れるのは優しさです。
優しさ。
イエスはその優しさや気品によって知られていました。
ここで言う「やさしさ」とは、言葉を荒げないこととは何の関係もないことに注意してください。
とおっしゃったのは、優しいイエス様でした。
蛇ども、毒蛇の世代よ、どうして地獄の苦しみから逃れることができようか。
とおっしゃったのは、優しいイエス様でした。
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔のものであり、あなたがたの父の欲望を行うのです。(ヨハネ8:44)
とおっしゃったのは、優しいイエス様でした。
あなた方の誰が、私に罪を認めさせるのですか?私が真実を言っているのに、なぜ信じないのですか。神から出た者は、神の言葉を聞きます。(ヨハネ8:46-47)
ですから、私たちがやさしさや柔和さについて読むとき、それは次のようなことなのです。
この箇所には、誰かがひれ伏すとか、誰かが彼らを踏みつけるというような記述はまったくありません。
私たちはこの属性を必要なところに顕在化させています。
イエス・キリストがサマリアの女にどれほど優しく接し、ニコデモにどれほど手荒く接したかに注目してください。
お気づきでしたか?
マグダラのマリアには優しく、カイアファには乱暴だったことに気づきましたか?
お気づきでした?
涙と髪で足を洗ってくれた女性には優しく、一緒に食卓を囲んだ主人には乱暴だったことに気づきましたか?
聖霊の次の実は「善」です。
この徳によって、クリスチャンは善い行いに満ち溢れます。
聖書はクリスチャンについてこう言っています。
彼は良い行いを維持するよう注意すべきです。
彼は救われるために働いているのではありません。
彼は救われるために働いているのではありません。
しかし、彼は救われているからこそ働いているのです。
次の御霊の実、7つ目。
それは柔和さと温和さです。
彼は謙虚であり、それは私たちにも言えることです。
テモテへの手紙第二2章25節。
もし神様が、真理を認める悔い改めを与えてくださるなら;
この柔和さや気性の穏やかさは、常に柔和であることとは何の関係もないことにもう一度注目してください。
神殿に入り、テーブルを蹴り倒して床にたたきつけ、鞭で人々を打たれたのは、柔和で穏やかなイエスでした。
柔和な主イエス・キリストは、再び来られたとき、敵を火の池に投げ込むと言われました。
気性が穏やかというのは、単純に失わないということ。
単に義憤に駆られればいいということです。
でも、何かあるたびに、すぐに飛びついてはいけません。
節制。
第九の実は自制心です。
クリスチャンはお酒を控えめにします。
食欲は控えめ。
癖は中程度。
これら9つの聖霊の実は、ガラテヤ人への手紙5章に列挙されている肉の汚れた自然の業とはすべて正反対のものです。
果物は死の証拠。
信者が死ぬまでは、信者の人生に聖霊の実を結ぶことはできません。
ヨハネの福音書12章24節
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし枯れれば、多くの実を結びます。
もし私たちが死んでいなければ、ただ肉の業をもたらすだけです。
ですから、実とは、信仰者の人生における自己が十字架につけられ、信仰者が神の栄光のために十字架につけられた人生を生きている証拠なのです。
あなた方の多くが実を結ばないのは、自己が十字架につけられていないからです。
だから、あなたは実を結ぶことなく一人で留まり続けるのです。
実を結ばない無力なクリスチャンでいっぱいの教会もあります。
彼らは教会に行きます。
彼らは祭壇にやってきます。
彼らは愛について語ります。
一生のうちで、中には25年という人もいます。
彼らは、イエス・キリストを救う知識に導いた10人の人々の上に手を置くことはできません。
教会はそんな人たちでいっぱいです。
実のない枯れ木だから、贈答品の話をしたがるわけです。
リビングルームに飾られたクリスマスツリーを見たことがありますか?
美しいと思いませんか?
あのツリー、プレゼントがぶら下がってるけど、何が悪いと思う?
もうダメです。
世界で最もカリスマ的な木。
世界で最も才能のある木、それはクリスマスツリーです。
そして、死にました。
今は果物が必要です。
ヨハネの福音書15章2節で、イエスはこう言われました。
私の中の実を結ばない枝は、すべて取り去られます。
ルカによる福音書13章9節。
もし実を結ぶなら、よろしい。もし実を結ばなければ、その後、それを切り倒さなければなりません。
改心した私たちがこの地上に存在する唯一の理由。
神様の栄光のために実を結ぶことです。
実りなき者は、実りある者の特権を長く享受することはできません。
実を結ばないことと神様からの好意は同居できません。
ルカによる福音書13章7節では、夫が来て言いました。
見よ、この三年間、私はこのいちじくの木に実を求めて来たが、何もありませんでした。彼は切り倒せと言いました。
ヤコブ5:7にはこうあります。
農夫は大地の貴重な実りを待っています。
主イエス・キリストは、私たちの人生からの真の実りを待っておられます。
そして、真の果実はガラテヤ5:22にあります。
使徒言行録2章にはありません。
第1コリント14章にはありません。
マルコ16章にもありません。
一度も。
外見も職業もいい。
しかし、決定的な証拠は果実です。
木がマンゴーかリンゴかを識別するため。
聖人であろうと背教者であろうと。
マタイによる福音書7章16節から20節に
人はいばらからぶどうを採るのか、それともあざみからいちじくを採るのか?
聖徒は肉の業を負うべきではありません。
私たちの人生は、呪いと祝福、甘さと苦さのパラドックスであることがよくあります。
しかし、ヤコブはこのようなことはあってはならないと言います。
実の出所はホセア14:8。
私は緑のモミの木のようです。私からは、あなたの実が見つかります。
実の源はヨハネによる福音書15章4節にあります。
私のうちにとどまりなさい。枝がぶどうの木の内にとどまらなければ、自ら実を結ぶことができないように。
聖人は、キリストと神のみことばに根ざし、根ざしている限り、実を豊かに結びます。
エペソ3:17-18
キリストが信仰によってあなたがたの心のうちに住まわれるように。あなたがたは、愛に根ざし、愛に支えられているのです。あなたがたは、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、深さ、高さを理解することができるようになるのです。
マタイによる福音書13章にあるように、地面に置かれた神様のみことばが実を結んだのです。
種は実です。
果実は繁殖の源。
主は言われました。
地は、その種類に似た実を結ぶ果樹を実らせなさい。(創世記1:11)
クリスチャンなら、クリスチャンを育てるべきです。
あなたが牧師なら、牧師を育てるべきです。
聖書の教師なら、聖書の教師を育てるべきです。
あなたが伝道師なら、伝道師を育てるべきです。
あるいは、パウロがコロサイの信徒への手紙1章10節で述べているように。
あらゆる良い行いにおいて実を結び、神様を知る知識において増し加わること。
祝福されるどころか。
霊的な実を結ばないとき、私たちの生活は福音の妨げになります。
私たちの人生に霊的な実がなければ、繁殖することはできません。
私たちは再生産したのでしょうか?
再現しましたか?
あなたの町で、キリストに導いた人を5人挙げてください。
その一人一人が、少なくとも一人の魂をキリストに導いたのですか?
できますか?
もしあなたが今夜、キリストの裁きの座の前に立たなければならないとしたら。
あなたの個人的な証しによって救われ、新しく生まれ変わった人、あなたが彼らをキリストに導いて以来、他の人々をキリストに導いた人を5人挙げてください。
まあ、無理なら。
行ってみてください。
わかりました。
さて、来週は御霊の賜物についてお話しします。
今回のレッスンでは、ガラテヤ人への手紙5章から御霊の実についてお話ししました。
次回は主にコリントの信徒への手紙一12章を扱います。
パウロが新約聖書の中で最も肉欲的な肉的教会を対象にしているところ。
そして、聖霊の顕現について話しています。