ウェブ神学セミナー:第55部
2024年10月13日
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ありがとうございます。
神のみことばを学ぶ皆さん、教師の皆さん、こんにちは。
私たちは今、特に聖霊を扱う気学について非常に長いシリーズを学んできました。
私たちはもちろん、サタンがこの気学、すなわち正しい神学、体系的神学、教義神学の研究対象であることを理解しています。
悪魔もまた霊であり、汚れた霊と呼ばれているからです(マルコ5章)。
私たちはまた、この学問が天使学と重なっていることに気づきます。
ヘブル人への手紙によれば、天使とは次のような存在です。
救いを受け継ぐ者たちのために奉仕するために遣わされた、奉仕の霊たち。(ヘブル1:14)
ですから、この12回の気学研究では、主に聖霊を扱う霊界を扱ってきました。
その部分だけで、他のスピリッツについて議論する時間はほとんど取っていません。
しかし、私たちがここで扱っているのは聖霊です。
慰め主と呼ばれています。
キリストの霊と呼ばれています。
神の霊と呼ばれています。
そして、真理の霊と呼ばれます。
何週間も、何回も、この研究を通して私たちと一緒に勉強してくださった方。
この3人は仕事と肩書きで区別がつくということがお分かりいただけたと思います。
彼らは一つの神格と一つの神を構成しています。
さらに3を学ぶことで、この世のすべてのものは3つの要素で構成されていることに気づきます。
そして、この3つのどれが欠けても、本当のものは存在しません。
時空連続体には3つの要素があります。
時間は過去であり、現在であり、未来です。
プレゼントがあれば、その後ろに何かがあり、その前に何かがあります。
未来のない過去と現在の時間など存在しません。
これは存在しません。
過去のない未来の時間などありえません。
未来の時間があるのなら、その先のことを考える時点があって、その時点から後ろに別の時点があるはずです。
これは単に、神格を否定する人は霊的に改宗するのが下手だということです。
父と子と聖霊は、神格と呼ばれる一つの神を構成しています。
彼らはまた、一緒にいるにもかかわらず、個々に別々に生存している3人で構成されています。
このことは、彼らの肩書きを見れば一目瞭然です。
例えば、聖書の中で聖霊が主イエス・キリストと呼ばれることはありません。
主はその霊ですが、主イエス・キリストと呼ばれることはありません。
父なる神はイエス・キリストと呼ばれることはありませんが、イエス・キリストを見た人は父なる神を見たことになります。
父なる神 "という言葉は、人としてのイエス・キリストには決して当てはまりません。
イエス・キリスト」という言葉は、永遠の父なる神には決して当てはまりません。
さて、受肉した息子とはいえ、全能の神の化身であることは事実です。
そして、神の御子はその名において、永遠の父と呼ばれるのです(イザヤ9:6)。
しかし、父なる神がイエス・キリストと呼ばれることはありません。
同じ意味で、主イエス・キリストは決して慰め主とは呼ばれません。
同じ意味で、イエス・キリストがエホバ・ジレやエホバ・ラパと呼ばれることはありません。
明確な違いがあります。
ですから、このセッションでニューマトロジーについて話すときは
私たちは聖霊について話しているのです。
聖霊」という言葉が父なる神に適用されることはありません。
聖書全体を見ても、イエス・キリストが聖霊と呼ばれた箇所は一つもありません。
父なる神が聖霊と呼ばれた箇所は一つもありません。
それでも、私たちの研究から学んだように。
聖霊は神であり、神の属性を備えています。
これは間違いありません。
私たちはこの問題を徹底的に取り上げてきました。
聖霊は神の属性を持っています。
永遠。
遍在。
全能。
そして全知全能。
私たちはあなたに節を与えました。
彼はポゼス。
神聖さ。
博愛。
真実です。
そして聖体拝領。
彼は創造に積極的でした。
救いの中で
生命を与えることで
主は新生の創造者です。
彼は義と裁きの人を説得します。
また、聖霊は御父や御子とは異なる存在ですが、非常に明確な神性を持っています。
さて、最後のレッスンでは、聖霊の力についてお話しします。
そして、教師としての聖霊について話してください。
そして、聖霊の油注ぎについて話してください。
そして次回のレッスンでは、聖書そのものに関する非常に興味深い研究、あるいは一連の研究に取り組みます。
突き詰めれば、聖書そのものがニューマトロジー(気学)の見出しの下にあるのです。
なぜなら、神の言葉を鼓舞したのは聖霊だからです。
そして、それを守ったのは聖霊です。
神の人間に対する啓示ですから、人間学と呼んでもいいかもしれません。
しかし同じ意味で、神学は神の啓示ですから、神学と呼ぶこともできます。
ですから、聖書という書物そのものが、非常に興味深く、ユニークなタイプの学問や学問の形式を備えています。
しかし、今日のレッスンの後の数回のレッスンでは、聖書そのものを学びます。
そして、特に聖書の霊感についての研究。
聖書の保存
一般的に聖書の内容。
また、聖書がどのような科学的な教科書よりも優れているのか、聖書についての研究を紹介します。
これからの4、5週間のテーマは聖書です。
しかし、今日ここで私たちは、ニューマトロジー、つまり聖霊の力についての一連のレッスンの最後について説明します。
今、聖霊の力が必要であることは間違いありません。
ルカによる福音書24章49節で、主は地元の教会に言われました。
高いところから力を授かるまで、エルサレムの町にとどまっていなさい。
ですから、聖霊の力なしにクリスチャン生活を進めても意味がありません。
繰り返しますが、これはクリスチャンの人生において非常に危険な分岐点です。
特に新しいクリスチャンは、肉が力を欲するからです。
ある男が言いました。
「権力は腐敗します。絶対的権力は絶対的に腐敗する"
なぜ独裁者が腐敗するのか、それは彼らが絶対的な権力を持っているからです。
だから聖霊の力が必要なのですが。
クリスチャン生活には、悪魔が聖霊を偽造し、地獄から力を与え、それを聖霊だと思わせようとする非常に危険な場所があります。
でも、それは悪魔か、あなたの肉体に他なりません。
今、私たちの人生は聖霊の力の中で生きなければなりません。
そしてこのことは、半世紀、あるいは今日の数千人のクリスチャンの人生を調べれば完璧にわかります。
現代のクリスチャンは、形式的な神々しさを持っていますが、その力を否定していることは明白です。
この力は約束されたもの。
主は使徒言行録1:8で弟子たちに言われました。
聖霊があなたがたの上に臨まれた後、あなたがたは力を受けるでしょう。
それ以来、キリスト者がキリストを受け、あるいは罪人がキリストを受け、クリスチャンになったとき、その人は力の御霊を受けたのです(2テモテ1:7)。
神は私たちに恐れの霊をお与えになりませんでした。しかし、力と愛と健全な心を与えてくださったのです。
ですから、私の声に耳を傾ける神の子は皆、聖霊をその身に宿しているのです。
彼は宝を土の器に入れています。
そして、聖霊が彼のうちに働いて、彼が求めること、考えることのすべてにまさることを、豊かにしてくださるのです。
それが彼の中に働く力だから。
エペソ人への手紙1章と2章をよく読んでください。
聖霊は命を与えてくださいます。
聖霊こそが、命を早め、豊かな命を与えてくださるのです。
特に2コリント3:6に注目してください。
それで十分です。
パウロは、弁舌や仕掛けがなくても、聖霊の力で十分であることに気づきました。
また、第一コリント2:3-4では、聖霊の力を示して話すことについて話しています。
そして、主はある時、2コリント12章で、パウロには主の恵みが十分であり、聖霊が彼を支えたと語られました。
パウロは、御霊の力は弁舌や仕掛けがなくても十分であることを発見しました。
パウロに宿った聖霊の力は、彼とその聴衆に神の恵みの福音を明らかにしました。
キリストは死んで葬られ、よみがえり、再び来られます。
そして改宗者は、主イエス・キリストを信じなさい、そうすれば救われると言われました。
もちろんその後、ごく自然にバプテスマを受け、神の言葉から自分がどう生きるべきかを教えられました。
聖霊の力で十分です。
購入することはできません。
使徒言行録8:20では、魔術師シモンがそれを試みて、こっぴどく叱責されています。
シモン・ペテロは言いました。
神の賜物はお金で買えると思ったからです。
ですから、あなたがたのこの悪い行いを悔い改めなさい。(使徒8:22-23)。
聖霊は模倣することはできても、神の言葉を信じるクリスチャンに通用するほどには偽造できません。
人間的な熱意や肉的な努力は、主によって拒絶されなければなりません。
現代人は聖霊の力を真似しようとします。
しかしもちろん、彼らのパワーを真似ることは、爆竹を鳴らすために宇宙センターを建設するようなものです。
祈りと愛についてだけ語る人ほど、無力で実りのない不毛なことはありません。
そして、誰も気分を害することのない経験談を語ること。
十字架が攻撃となるとき
そして、十字架の攻撃が止むとき、世界は止むでしょう。
私たちには、ここに続く町がありません。私たちは、主の非難を背負って陣営の外に出ましょう。(ヘブル13:14)
だから、人々が聖霊の力を模倣し、偽造するとき、それを完全に知っている人は決していません。
聖霊の力は迫害と苦しみをもたらします。
主の復活の力を知りたかったパウロ。
主は言われました。
"祈り続けなさい、ポール"
そしてパウロは言いました。
「何を頼めばいいんですか?
主は言われました。
その苦しみにあずかり、その死にふさわしくされたのです。(ピリピ3:10)
二人の盗賊と一緒に十字架で血まみれの死を遂げるなんて、立派なことでも金儲けでも何でもありません。
聖霊の力は失われることがあります。
私たちは、聖霊が私たちを贖いの日まで封印してくださることを知っています。
そして、私たちを永遠に宿らせ、永遠にとどまらせるために来てくださったのです。
御霊を悲しませ、御霊を鎮めることによって、その力は失われます。
以前のセッションでもお話ししました。
旧約聖書では、サムソンの生涯がその典型例です。
士師記16章20節には、サムソンがかつて聖霊の力を知りながら、それを失ったことが書かれています。
霊的な力を失ったクリスチャンは、味のない塩です。
もし塩がその味を失ったら、それ以後は何の役にも立たず、捨てられ、人の足で踏まれるだけです。(マタイ5:13)。
だからこそ、聖霊についてあれほど語っていると公言しているクリスチャンのほとんどは、まったく実を結ばず、不毛で無力なのです。
そして、彼らができることは、新しい改宗者の救いを妨げたり、扱われている罪人の救いを妨げたりすることだけです。
一つのことに集中しすぎて、救いの話は一切しません。
彼らは救われていない人々のための血の贖罪については話しません。
彼らがしようとするのは、新しい改宗者を混乱させ、彼が救いを失うかもしれないと思わせることです。
聖書を知っている人なら誰でも。
それは単なるジョークで、非常に悲劇的で滑稽なジョークであることは認めますが。
今、聖霊は教師としてしばらくの間研究されるべきです。
彼は、霊的なことに関しては偉大でないにしても、これまでに生きた最も偉大な教師の一人です。
まず第一に、聖霊は教師として不可欠です。
第一コリント2:11と14には、聖霊だけがクリスチャンに神の奥義を教えることができると書かれています。
ローマ人への手紙11章33節と比較してみてください。
聖霊は私たちの教師であり、導き手です。
人の霊がその人のうちにいるのでなければ、いったい誰が人のことを知ることができましょうか。神のことも、神の霊以外には、だれも知らないのです。さて、私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神の霊です。それは、神から私たちに自由に与えられているものを知るためです。(1コリント2:11-12)
聖霊の教えは無謬です。
第1コリント2:10にこうあります。
御霊はすべてのことを、そう、神の奥義を探られるからです。
聖霊は神であるため、神についての知識を持っています。
ですから、聖霊によって聖書から教えられた人は、聖書を訂正するギリシャ語やヘブライ語の教師よりも、常に多くの情報にアクセスすることができます。
聖書を読み、それを信じ、聖霊に教えられる者は誰でも、知性の欠如のために聖書を疑うことに人生を費やしているどのキリスト教学校の教員よりも、常に多くの真理にアクセスしているのです。
教師である聖霊は万能です。
第1ヨハネ2:27にはこうあります。
人に教わる必要はありません。
ヨハネによる福音書14章26節でも
聖霊はすべてのことをあなたがたに教えてくださいます。
この時点で、クリスチャンは注意しなければなりません。
たとえ私たちがこう言われたとしても。
あなたがたは、だれにも教わる必要はありません。(第1ヨハネ2:27)
この問題の背景には、神の言葉に反することを教えようとする人がいるのです。
エペソ人への手紙4章によれば、教師は神がキリストの体に与えた賜物の一部です。
使徒言行録13章1節から6節に、弟子たちが最初にクリスチャンと呼ばれたアンテオケに教師がいたことに注目してください。
そして、パウロ自身、自らを真実と真理における異邦人の教師と呼んでいます。
ですから、私たちはこう読みます。
人に教わる必要はありません。
彼は、主が言われたことに反することを教える人について話しているのです。
また、この言葉には大きな真実があることにもお気づきでしょう。
たとえ教師が聖霊によってキリストの体に与えられても、キリストの体には教師がいるのです。
結局のところ、どんな教師も神の言葉を人に教えることはできません。
私がご案内します。
説明できますよ。
読めますよ。
私はそれを理解し、感覚を明確に伝えることができます。
でも、神が教えてくださらない限り、私はあなた方に教えることはできません。
聖霊は控えめです。
ヨハネの福音書16章13節には
自分のことを話してはいけません。
聖霊はご自身のことを証言したり、ご自身のことを誇示したり、ご自身のことを語ったりなさいません(ヨハネ16:13-14)。
聖霊は心を啓発します。
エペソ1:17-18で、パウロは真理に目を向けさせ、心を開かせると祈っています。
真理が拒絶されるのは、誰かが聖霊に抵抗しているときです。
聖霊はイエス・キリストの苦しみを指し示します。
ゼカリヤ12:10に注目。
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、恵みと願いの霊を注ぎます。彼らは、自分たちが刺し通したわたしを見よ。人がひとり子を悼むように。その長子を慕う者のように。
聖霊は理解を早めます。
主の霊が彼の上にとどまるように。知恵と理解の霊。知恵と力の霊。知識および主を恐れる霊。そして、主を畏れることをすぐに悟る者とし彼はその目で見てさばかず、その耳で聞いて戒めず。
聖霊は心だけでなく、脳や想像力にも触れます。
聖霊は霊的なものを比較されます(1コリント2:13)。
つまり、聖霊が聖書の解釈者であるということです。
聖書の預言は、私的な解釈によるものではありません。(第2ペテロ1:20)。
しかし、聖なる神の人たちは、聖霊に動かされるままに語りました。(2ペテロ1:21)。
ですから、聖書の一節を比較し、生徒に正しい解釈を与えるのは聖霊なのです。
聖霊は隠されたものを明らかにします。
54 聖霊は忘れていたことを思い出させます。
イエスはヨハネの福音書14章26節でこう言われました。
主は、私があなたがたに言ったことをすべて思い起こさせてくださいます。
最高のコンピューターは、インデックス・ファイリング・システムではありません。
聖霊です。
聖霊は、私たちが利己的なことに対処しているとき、私たちの邪魔をします。
使徒16:6-7で、聖霊がパウロとシラスにアジアに行くことを禁じ、ヨーロッパに来させたことに注目してください。
時には聖霊が私たちの行く手を阻むこともあります。
私たちがあるコースを取ると、彼は違う道を行けと言うんです。
いつ教えてくれるのですか?
私たちが従うとき、主はまず私たちに教えてくださいます。
瞑想するとき
私たちが奉仕するとき
待つとき
私たちが耳を傾けるとき。
聖霊は、神の言葉を拒む者を教えません。
神の言葉を黙想することを拒む者。
神に仕えることを拒む者。
神を待とうとしない人。
あるいは、神の言葉に耳を傾けることを拒否します。
使徒言行録8:26では、フィリポは従い、従った後に聖霊の指示を受けました。
あなたが主に従うとき、聖霊が教えてくださいます。
使徒言行録10章19節で、ペテロがこれらのことについてどう考えたか、聖霊はこう言われました。
その時、彼は瞑想していました。
おそらく祈りの中で。
使徒の働き13章2節にあるように、私たちが主に仕えるとき。
彼らが主に奉仕しているとき、聖霊はこう言われました。
主がクリスチャンに語りかけるとき
彼はいつも忙しいクリスチャンに話しかけます。
神が弟子たちを呼び出されたとき、一人として怠けている者はいませんでした。
創世記から黙示録まで、その聖書を探すことができます。
神が召されたとき、怠けていた人などどこにもいません。
お気づきですか?
ギデオンは葡萄畑で脱穀をしていました。
ピーターは釣りをしていました。
エリシャは畑を耕していました。
マシューは税関で所得税の領収書を取っていました。
そして、パウロは弟子たちを殺しに行く途中でした。
神は水平的なクリスチャンを奉仕に召されることはありません。
ルカによる福音書2章26節で、シメオンは待ち望んでいました。
黙示録2章7節には、イエスは何度もこう言われたと書かれています。
耳のある者は聞きなさい。
そして、聖霊が教えてくださるのです。
主を待ち望むのです。
主に従いなさい。
この言葉を黙想してください。
主に仕えなさい。
そして神の言葉に耳を傾けてください。
さて、最後に聖霊の油注ぎです。
油注ぎは、力を与え、神の真理を理解し、特別な務めを果たすためのものです。
私たちの主は33年間、絶えず聖霊に満たされていました。
ルカによる福音書3章では、彼は水のバプテスマを受け、御霊が肉体の形で降りました。
そして、誘惑されるために連れ出されたときには、聖霊に満たされていました(ルカ4:1)。
ルカによる福音書4章18節で、イエスはイザヤ書61章1節を朗読しながら、ご自分の油注ぎについて語られました。
主の霊が私の上におられるのは、福音を宣べ伝えるために、主が私に油を注がれたからです。
この油注ぎの預言は、詩篇45:7-8にもあります。
あなたは義を愛し、悪を憎みます。それゆえ、あなたがたの神、神は、あなたがたに、ほかの者たちよりもすぐれた喜びの油を注がれたのです。
この力強い奉仕のための油注ぎは、悪が焼き払われ、キリストの義が現れた後に与えられます。
この油注ぎは、私たちが主を待ち望み、聖霊に満たされた直接の結果でしょう。
しかし、油注ぎは一つです。
第1ヨハネ2:20と27、使徒4:31に注目してください。
でも、あなたには聖なる方からのお告げがあります。
しかし、あなたがたが彼から受けた油注ぎは、あなたがたのうちにとどまっているので、だれかに教わる必要はありません。しかし、同じ油注ぎが、あなたがたにすべてのことを教えるのです。それは真理であって、偽りではありません。そして、その油注ぎがあなたがたに教えたように、あなたがたも彼のうちにとどまるのです。
聖霊の油注ぎは、キリストを受け入れるときに信仰によって受けます。
そして、あなたがキリストを受け入れるとき、聖霊があなたの上に、あなたの中に来て、あなたをイエス・キリストの中に置いてくださいます。
もし主が将来の仕事のためにあなたに油を注ぎたいと望まれるなら、もちろん祝福や経験が加わります。
それは、主があなたにさせようとされる仕事によって異なるかもしれません。
フィラデルフィヤ教会の偉大な時代には、非常によくありました。
それはもう終わりました。
そして1750年から1850年までの大リバイバルの時代。
説教者は一般的に、救われた後に聖霊を受けた時に、神から聖任され、認可されたと考えられています。
彼らはこれらの箇所をよく知っていました。
当時の伝道者の伝記を読めばわかります。
だから、フィラデルフィア教会の救われた伝道者は、"油注がれた神の人 "とか "神の人 "とか "布の人 "と呼ばれたのです。
でも今はもちろん、聖書学校に行って3年か4年のコースを取り、学位を取る人もいます。
救われようと救われまいと、彼にそれをかけるのです。
彼は油注がれた神の人ではなく、卒業生です。
神の言葉を学ぶなら
そして神の言葉を信じなさい。
そして神の言葉を祈りなさい。
そして神の御言葉を実践してください。
あなたは、これまで生きてきた中で最高の神の油注がれた男女になるでしょう。
なぜなら、純粋な霊感が保存された無謬の書物から教えられるからです。
そして、あなたは神からの油注ぎと力を、町にいるプロの聖職者たち全員を合わせたよりも多く得ることができます。
さて、聖霊が今日の信者の心に宿っていることと、旧約聖書の聖徒との関係の違いは何でしょうか?
旧約聖書では、聖霊は特定の働きのために特定の人々に臨まれました。
ダビデは油を注がれました。
サウルは油を注がれました。
エリヤは油を注がれました。
エリシャは油を注がれました。
エフタは油を注がれました。
旧約聖書には、神の霊が人々に臨んで力を与えるという記述があります。
たとえば、神の霊がベザレルに臨んだとき、ベザレルによって幕屋が建てられました。
サムエル記上11章6節では、ヤベシュ・ギレアドの人々のことを聞いたサウルに神の霊が臨みました。
サムエル記上16章13節では、その日から主の霊がダビデの上に臨んだとあります。
士師記14章6節では、主の霊がサムソンの上に力強く臨みました。
士師記15章14節では、主の霊がサムソンの上に力強く臨みました。
列王記上18:46では、主の御手がエリヤの上にあり、エリヤはエズレルの入り口までアハブの前を走りました。
しかし、新約聖書の下では、聖霊はすべてのクリスチャンをキリストの体へと洗礼します。
すべての信者は、贖いの日まで聖霊によって封印されています。
すべての信者は聖霊に包まれています。
ローマ人への手紙8章9節にこうあります。
しかし、あなたがたは肉のうちにいるのではなく、御霊のうちにいるのです。神の霊があなたがたのうちに宿っているのであれば。
第1コリント6:19。
なんですって?あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮であり、あなたがたは神からいただいたものであることを知らないのですか。あなたは自分のものではないのです。
第2テモテ1:14で
私たちのうちに宿っておられる聖霊によって、あなたがたに託されたその良いものを守りなさい。
しかし、聖霊の内住は、新約聖書のもとでは旧約聖書のもととは異なる関係に基づいています。
旧約聖書では、聖霊は人に臨んで力を与えられました。
新約聖書では、聖霊は救われた人に臨み、交わりと力を与えます。
ですから、聖霊とクリスチャンを扱うとき、私たちは単なる力を扱っているのではありません。
私たちが扱っているのは親睦です。
イルミネーション。
教えること。
理解すること。
そして、御霊によって私たちに内在する生ける神との個人的な重要な関係。
さて、聖霊が宿ることの恩恵にはどのようなものがあるでしょうか。
まず、保証です。
ローマ人への手紙8章16節にはこうあります。
御霊は、私たちが神の子であることを、私たちの霊とともに証ししてくださいます。
だから、誰かが私に『救われた気がしない』と言うと、私はこう言うんです。
"救われた実感はなくても、迷っているようには見えない"
感覚ではなく、事実です。
御霊そのものが、私たちの霊をもって証言してくださるのです。
第二に、救いの保証です。
エペソ1:13-14にはこうあります。
あなたがたもまた、誰に信頼したのですか。あなたがたは、真理のことば、すなわち救いの福音を聞いたのです。信じた後、あなたがたは、約束の聖なる御霊によって証印を押されたのです。この聖霊は、購われた所有物の贖いまで、その栄光をほめたたえるために、私たちが受け継ぐ糧です。
つまり、主イエス・キリストを信じるとき、聖霊があなたの心に入ってきて、あなたを封印してくださるのです。
そして、彼は真剣そのもの。
頭金、つまり購入した所有物の償還まで何かを相続するという保証。
彼は、あなたが天国に行けるという保証です。
そして3つ目は、大胆さ。
使徒言行録4章31節にはこうあります。
彼らが祈ると、集まっていた場所が揺れ動きました。そして、彼らはみな聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りました。
聖霊に満たされたクリスチャンは、大胆に語ります。
聖霊に満たされていないとき、彼は臆病になります。
だから私は、大砲のような声の説教者が好きなんです。
大砲のような信念に裏打ちされたものだから。
そして、蝶のような声は、たいてい蝶のような信念に裏打ちされています。
第四に、自由です。
2コリント3:17にこうあります。
主はその霊です。そして、主の霊のいるところには自由があります。
聖霊に満たされると、人は自由を享受します。
主の霊のいるところには自由があります。
罪と死の法則からの自由があります。
律法の呪いからの自由があります。
律法の非難からの自由があります。
法の力からの自由があります。
法の罰からの自由があります。
法の結果からの自由があります。
律法の呪いからの自由があります。
律法の束縛からの自由があります。
法の恐怖からの自由があります。
死の恐怖からの解放。
地獄の恐怖からの解放。
サタンへの恐れからの自由があります。
罪の恐怖からの解放。
断罪の恐れからの解放。
悪魔への恐れからの自由があります。
裁きの恐怖からの解放。
怒りの恐れからの解放。
罰の恐怖からの解放。
第五に、ガイダンスです。
ヨハネの福音書16章13節にはこうあります。
しかし、真理の御霊が来れば、あなた方をすべての真理に導いてくださいます。
今、聖書を理解できないと思っている人がいます。
"聖書が理解できない"
そうですか......。
あなたは聖書を理解することができます。
イエスは言われました。
主はあなたをすべての真理真実へと導いてくださいます。
聖書に何が書いてあるのか、解釈者に教えてもらう必要はありません。
私たちには、すべての真理に導いてくださる神の聖霊がおられます。
彼が書いたのだから、彼が解釈すればいいのです。
6つ目はパワー。
使徒言行録1章8節にはこうあります。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれた後、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムとユダヤ全土とにおいて、わたしの証人となりなさい。また、サマリヤでも、地の果てまでも。
ペンテコステの日に聖霊が来られたとき、彼らは力に満たされました。
彼らは変わりました。
彼らは大胆に神の言葉を宣べ伝えることができ、一日で三千人が救われました。
そして、それはほんの始まりにすぎませんでした。
使徒言行録を通して、私たちは、聖霊の力が信者の生活の中で働き、彼らが神のために力あるわざを行う力を与えられているのを目の当たりにします。
7つ目は果実。
ガラテヤ5:22-23にはこうあります。
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、優しさ、善意、信仰、柔和、節制です。このようなものに対して、律法はありません。
私たちが聖霊に満たされると、聖霊の実が私たちの人生に現れ始めます。
私たちは愛の実を結び始めます。
喜び。
平和です。
忍耐。
優しさ。
よかった。
誠実さ。
優しさ。
そして自制心。
これらは私たちだけで生み出せる資質ではありません。
それは私たちの内なる聖霊の働きです。
このように、聖霊が信者の人生に内住してくださることの恩恵はいくつかあります。
保証します。
大胆さ。
リバティ
ガイダンス
パワー。
そして実り。
本当に、聖霊は私たちの助け主です。
私たちの慰め。
ガイド
そして、クリスチャン生活における私たちの力と力の源です。
結論として、聖霊は欠くことのできない教師です。
信者の心を啓発し、聖書の解釈を助けます。
私たちを正しい道へと導き、利己的な動機から私たちを妨げるのです。
さらに、信者がキリストにあって召命と務めを果たすことができるように、力強い奉仕のために油を注いでくださいます。
神は、あなたが神のためにしなければならない仕事をするために必要な力を与えてくださいます。
ただし、神のおっしゃることをよく聞き、従い、仕え、待ち望むことを条件とします。
気学シリーズの締めくくりとして、聖霊の役割を探ります。
次のシリーズでは、神の言葉そのものに焦点を当てます。
これから6回から8回のレッスンを通して、聖書の霊感や保存といったトピックに飛び込んでいきます。
聖典に関する興味深い事実も。
聖書は人類に対する神の啓示であるだけでなく、私たちの人生の指針でもあるからです。
しばしば神の言葉と呼ばれ、信仰と実践に関する究極の権威とされています。
これからのレッスンでは、聖書の背後にある神の霊感について探っていきます。
歴史を通じて守られてきたこと、そしてすべての信者の人生において比類のない重要性を持っていること。
聖書が何千年も前のものであるにもかかわらず、どのように書かれているのか。
それは、現代世界において最も適切で信頼できる真実の情報源であり続けています。
実際、私たちは聖書がその正確さと信頼性において、科学的な教科書さえも凌駕していることを実証します。
ですから、聖書の旅に出る準備をしながら、私たちを待ち受けている豊かな知識と知恵を待ち望みましょう。
神の御言葉の学びが、私たちの理解を豊かにしてくれますように。
私たちの信仰を強め、あらゆる良い働きのために私たちを備えてください。
次のレッスンまで。
御言葉を通して主を求め続けるあなたに、主の祝福が豊かにありますように。
本日はありがとうございました。
それまでは。
主の祝福がありますように。