ウェブ神学セミナー:第3部
2023年10月15日
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神様のみことばを学ぶ学生の皆さん、先生方、おはようございます。
私たちの神学セミナーは、神学の出発点としてふさわしい神の存在と神の人格を学ぶことから始まります。
神学とは神についての学問であり、神様についての知識である。
もちろん神学には、終末論やホマルトロジー、アンゲオロジー、教会論、宗派論、人間学など、他にもさまざまな学問がある。
しかし、まず始めに、私たちが始めるべきところ、聖書が始まるところから始める。
はじめに神様は。(創世記1章1節)
聖書は神様を個人的な存在として教えている。
無神論者たちは、まさに現代の教育者たちがそうであるように、中性的な力場やエネルギー力を求めていた。全国教育協会や保健教育福祉部が神の言葉に抱いている大反対は、人が人格的に責任を負うべき人格的存在を提示しているという事実である。
神様を研究することは、何千年もの間、哲学者たちの野望であった。
座って瞑想し、永遠の存在の領域で考えようとする者もいる。
しかし、神についての唯一の真の知識は、聖書から得ることができる。
TMやグルやラマクリシュナや経典やシャスタやプラーナやトリピタカやバガヴァッド・ギーターやその他のものは、優れた精神分析医が心理療法でできるように、一時的に心の平安を得るかもしれない。
しかし、内なる平和は薬物によってももたらされる。
今日、平和を求める狂気の沙汰は、現代人が置かれている状況の証拠でしかない。
再生していない現代人が歴史に対して抱いている特異な肯定的アプローチは、彼に平和と愛、愛と平和だけを考えさせ、時折安全が欠けている。
聖書を読む者なら誰でも、これらが非常に小さな事柄であることを知っている。
キリストの偉大な称号メルキゼデクは、彼をまず義の王、次に平和の王と特定した。
聖書を読む人なら誰でも、「地上の平和、人に対する善意」という引用が聖書の引用ではないことを知っている。
地上の平和、人に対する善意」は、過去10年間、すべての大統領とすべてのローマ法王が引用してきた。
聖書の引用ではなく、聖書の引用はこう始まる。
いと高きところで神さまに栄光を(ルカ2:14)
もちろん、神への最高の栄光がなければ、座って黙想し、平和をもたらすことなど、まったく何の意味もない。
ヨハネによる福音書1章18節にはこうある。
人は神を見たことがない。父の懐にいる独り子を神は宣言された。
ヨハネの手紙第一4章12節にこうある。
人はいつでも神様を見たことがない。
そしてまた、主がモーセに話しかけたとき、彼はその顔を見なかった。
モーセは神様と話し、イエス・キリストの受肉前の姿を見たのだ。
前編で述べたように、人格とは知識と感情と意志を持つことを特徴とする。
そして神様は霊である。
わたしの手と足を見よ。それはわたし自身である。(ルカ24:39)。
神様は霊です。神様を礼拝する者は、霊とまことをもって礼拝しなければなりません。(ヨハネ3:24)
第一テモテ1:17にはこうある。
今、永遠不滅の目に見えざる王、唯一の知恵ある神へ。
第一テモテ6:16にはこうある。
神様だけが不滅であり、誰も近づくことのできない光の中に住まわれ、誰も見たことがなく、見ることもできない。
異教の神様が複数いるのとは対照的に、私たちの神である主は唯一の神様です。
ラマクリシュナやヴィシュヌや7つのオシリスといった神々のパンテオンではない。
イスラエルよ、聞け:イスラエルよ、聞け。私たちの神様、主はひとりである。(申命記6:4)
イザヤ書44章6節には、主がご自身のことをこう語っておられるとある。
私が最初であり、私が最後であり、私のそばに神様はいない。
そのときから、だれがそれを告げたのか。わたしは主ではないか。わたしのほかに神はない。(イザヤ45:21)。
神様は、人格、知性、知識、感情、意志の力を持つ人格的な神様であることをはっきりと示し、繰り返してきた。
もちろん、偉大なるラーマクリシュナ・バハーヴァギタ・ニルヴァナ・プラジュナ・ソーマティの状態は、感情や意志の力とは何の関係もない。
私たちの主イエス・キリストの神であり父は人であり、肉において顕現された。
さて、神様には自然的な属性があり、神学ではこれを「伝えがたい属性」と呼び、それ以外の属性を「伝えうる属性」と呼ぶ。
神にはまず、その無限性、不変性、巨大性がある。
伝えられないというのは、神様御自身が、霊として、人として、人間に伝えることのできない、人間がその生まれつきの能力や理性や感覚では把握することのできない、ある種の生得的な性質を持っているということです。
だからこそ、救われていない人間は常に独善的な不可知論者や独善的な無神論者になりがちなのである。
神様を頭で理解することができないので、神様がいないのなら、神様を知ることはできない、と考えるのだ。
神様にはある種の自然的属性がある。
神様はある基本的な性質を持っている。
神は永遠であり、私たちはこれを神の無限性と呼んでいる。
彼は不変であり、私たちはこれを彼の免責性と呼ぶ。
全能である。
神様はどこにでも同時に存在する。これは全知全能と呼ばれ、古典的な神学者たちはこれを巨大性と呼ぶ。
神はすべての知識を持っており、私たちはこれを全知と呼ぶ。
要するに、内なる神様は知的生命体であり、すべての生命の創造者であり、すべての生命の源なのである。
神様は無限であり、不変であり、不変であり、永遠であり、全能であり、全存在であり、全知である。
このような神様は、黄金律や十戒や、聖書を誤って引用して自分たちを破滅に導こうとする人たちの戯言とは別の贖罪や贖罪を理由としない限り、罪人と付き合うことはできない。
まず第一に、神様は永遠である。
真の神様であるためには、始まりも終わりもあってはならない。
神は永遠でなければならず、宇宙や天よりも永遠でなければならない。異教徒であるギリシャの哲学者たちは、物質が永遠であると信じていた。
物質的なものが永遠であるという信念については、人間学と創造の教義に入るときに詳しく説明することにしよう。
しかしもちろん、弁証法的唯物論者が皆信じているように、物質の永遠性を信じるには、霊的存在の永遠性を信じるよりもはるかに多くの信仰が必要であることは誰でも知っている。
ミリケン博士は、目に見えるものは目に見えないものでできていることを証明したことでノーベル賞を受賞した。
ミリケン博士が生まれる1800年ほど前に、ヘブル人への手紙の作者がそのことに触れていたのだが。
ヘブル人への手紙の第11章には、原子論がそのまま書かれている。
見えるものは、見えるものから造られたのではない。(ヘブル11:3)
だから、物質の永遠性を信じる者は、非常に非科学的で、知的に不誠実であることに加えて、いささか愚かである。
神様は永遠であり、偶像(像)は誰かによって作られたものであり、始まりがある。
詩篇90篇2節にはこうある。
山々が生まれる前から、あるいは、あなたが地と世界を造られる前から、永遠の昔から永遠の昔から、あなたは神様です。
創世記1章1節にはこうある。
始めに神様は。
神様は常に存在している。神様は不変である。神様は変わることができないように構成されている。
マラキ3:6にはこうある。
わたしは主であり、変わらない。
ヤコブ1:17にはこうある。
あらゆる良い賜物、あらゆる完全な賜物は、上からのものであり、光の父から下るものである。
神様は不変のお方で、イスラエルの強さは揺るがないし、悔い改めることもないとおっしゃる。
神様は一度何かを言われたら、それを実行される。
創世記の6章、7章、8章にある地上の滅亡のように、神様が語られ文書にされたもので、あなたが手にすることのできる文書には1100以上の約束がある。
神様は変わることも悔い改めることもなく、神の賜物と召命は悔い改めることなく与えられる。
それだけでなく、神には伝えられない属性として、すべての力、すなわち全能の属性がある。
これを欠くことは神様ではない。
初めに神様は天と地を創造された。(創世記1章1節)
それが創造力だ。
神様が光あれとおっしゃった。(創世記1:3)
語ることによる力と権威。
神の語られた言葉には、過去も未来も、どの教会の教会令をもはるかに超える権威がある。
神の言葉は生きており、力強く、どんな両刃の剣よりも鋭く、神様が光あれと言われたとき、そこには光があった。
人間が雨を語り、稲妻や雷を語り、生命を語ることはできない。
神様はできる。
人間は存在する材料から物を作るが、神様は存在しない材料から、善良で完全な物を創造される。
創世記1:4の引用に注目してほしい。
良かったよ。
ヨブ記42章2節でヨブは言う。
私は、あなたにはどんなこともできるし、どんな考えも妨げられないことを知っている。
詩篇の作者は言った。
主が語られたから、そのとおりになり、主が命じられたから、そのとおりになった。
主はエレミヤに語りかけ、エレミヤ32:27でこう言われた。
見よ、わたしは主であり、すべての肉の神様である。
神は何でもできる。
ある男が言った、神様は動かせない岩を動かせるだろうか、神様は動かせないほど重いものを作れるだろうか、と。
ナンセンスなことがたくさんあるんだ。
私が神学の修士号を取得したとき、神学委員会に呼ばれ、こう言われた。
不可抗力と不動体がぶつかったらどうなるんだ?
私はこう答えた。
不可抗力と不動体が出会ったとき、不可抗力は止まることなくそっぽを向かれ、不動体は動くことなく砕け散る。
神様はご自身の性質と矛盾するようなことはできないに決まっている。
神様は嘘をつけないし、一度約束したことを反故にすることもできない。
主は、イエス・キリストの血の下にあるあなたの罪を見ることはできない。
主は救われた罪人を、キリストの体の一員となった後に地獄に落とすことはできない。
結局のところ、キリストは一度、罪のために、不正な者のために、正しい者のために苦しみを受けられた。
だから、神様が何でもしてくださるというのは、もちろん神様がお決めになった制限の範囲内でのことです。
そして、聖なる存在として、聖性は彼の伝達可能な属性の一つである。
聖なる存在として、私たちは神様が聖なる存在であることを知ることができる。聖なる存在として、私たちは神様が本質的に正義であり神聖さであり善良さであるご自身の性質に反することをなさらないことを絶対に確信することができる。
つまり、神様はご自分の本性に忠実なのである。
神様は、1億5千万人を天国行きに選んでおいて、1億5千億人を地獄行きにするようなことは絶対になさらない。
主は彼らを笑って、「そうか、大変だったね。贖罪が限定的であったために、あなたのために何の備えもなされなかったことは知っている」。
そう考える頭のおかしい人たちがいるということだ。
しかし、それは神様の本質的な属性に反することだ。
神様は聖であり、義である。
そして神様は愛であるけれど、人の意志に反して救われることを強要したりはしない。
それは愛ではないからだ。
それは強制だからだ。
さて、繰り返しますが、神様の全知全能はその属性の一つです。
古典的なスコラ神学ではこれを「神の巨大さ」と呼ぶ。
つまり、神はあらゆる場所に同時に存在する。
最初の列王記上8:27にダビデは言った。
しかし、神様は本当に地上に住まわれるのでしょうか?見よ、天も天の天も、あなたがたを収めることはできない。
あなたの霊のもとを離れてどこへ行こうか、あなたの前からどこへ逃げようか。わたしが天に上っても、あなたはそこにおられます。わたしが地獄に寝ても、見よ、あなたはそこにおられます。わたしが朝の翼を取り、海の果てに住んでも、あなたの御手はわたしをそこに導かれます。 詩篇139篇7節~10節
主はエレミヤに言われた。
私はすぐそばにいる神であって、遠くにいる神ではない。わたしに見えないように、だれでも隠れた所に身を隠すことができようか。わたしは天と地を満たしているではないか。(エレミヤ23:23-24)。
あなたの頭髪の一本一本まで知っている主は、螺旋が地面に落ちるのを見守る主であり、キリストもそう言われた。
螺旋が地面に落ちるのは、あなたの父がそれを知らないからではないと。
あなたの頭の毛は、まさに何本もあると言われた。
それを信じないなら、彼と殴り合いの喧嘩をすればいい。
エフェソの信徒への手紙1章23節には、キリストの体は「すべてにおいて」満たされる方の完全な体であると書かれている。
神様はどこにでもいらっしゃる。
木星に行けば、神様から隠れることはできない。
もし金星に行ったとしても、神はあなたの歯のどれが最初に虫歯になるかを知っている。
金星に行って、入植地を作るために戻ってきたとしても、主はあなたが宇宙船の中で読んでいたポルノ雑誌のことをご存知だろう。
なぜ多くの人が神様を信じないかわかる?
その余裕がないからだ。
汚れた生活をしていると、健康診断を受ける余裕もない。
聖書にはこうある。
主の目は全地を行き来し、主に対して完全な心を持つ者のために、ご自分を強く示されるからである。(第二歴代誌16:9)
主は、押し入れに隠して「これで私たちが罪を犯しているのを見られない」と言えるような小さな像のようなものではない。
主は全知全能であり、すべてをご存知です。
聖書にはこうある。
不義を行う者が身を隠せるような闇はなく、死の陰もない。(ヨブ記34章22節)
ヨブは告白した。
どんな思いも、あなたから遠ざけることはできない。(ヨブ42:2)
そしてイザヤは言った。
彼の理解を探ることはない。(イザヤ40:28)
聖書にはこうある。
人が口にするむだなことばはみな、さばきの日にその責任を問われる。(マタイ12:36)。
いつか神様は、あなたが先週の金曜か土曜の夜に乗った車を、イワシの缶詰のように引き裂いて戻される。
聖書が明らかにしていることがひとつあるとすれば、神様は何が起こっているのか、どのように起こっているのか、いつ起こっているのか、どこで起こっているのか、誰がやっているのか、なぜやっているのかを知っているという事実だ。
重要なのは、教育が何度も、人間に常識や合理性を否定させる大きな力となるということだ。
そして、教育は何度も、その人の人生を破滅させる要因になる。
ある有名な教育者がかつて言ったように、「救済に関する教育は天罰である」。
その理由は難しいことではない。
教育とは人の心を広げ、心を開くことを教えるものである。
そして、高校レベル以上、特に大学レベル以上の教育の大きなハンディキャップのひとつがある。
それは、あらゆるものを無差別に混ぜ合わせるエキュメニカルなスモーガスボードのカササギの巣であり、識別力の欠如を教えていることだ。
今日の教養人の大きな特徴は、道徳的に何も見分けられないことだ。
コンピューター用のプログラムをセットアップし始めると、この人たちの識別能力の高さ、正確さには驚かされる。
デジタルシステムや、作品や酵素、遺伝子や染色体、アミノ酸などの科学的事実、遺伝暗号、連鎖反応などの検証された文書を見ていると。
このような紳士たちがどれほど正確で、ピンポイントで、洗練されているかは驚くべきことだ。
発音を間違えると心臓発作を起こす人もいる。
明らかに教養がない、発音を間違えた」と言うだろう。
それなのに、こうした盲目のバカが道徳的な問題や倫理的な問題、永遠や善悪、天国と地獄を扱う問題を手にすると、あなたは驚くだろう。
その無頓着な、のらりくらりとした行き当たりばったりのやり方には驚くだろう。
人生へのアプローチに客観的な科学的方法を用いた教養ある人物は、一日たりとも自分自身に科学的方法を適用することはない。
それは試験管、あるいは顕微鏡的なアプローチであり、それを実践する偽善者たちは、道徳、宗教、倫理の問題に関しては実践しない。
例えば、例を挙げよう。
私の知っている一人の教養のある救われていない男がいる。彼はこれを読んだり聞いたりしているかもしれないし、していないかもしれないが、この世の希望が、すべての宗教が一緒になり、違いを拡大するのではなく、それぞれの宗教の共通要素を拡大することによって、この世をより住みやすくし、科学の進歩をもたらすことにあるとは信じていない。
アーメン。
再生していない心にとっては、なるほど理にかなっている。
しかし、それは狂気の沙汰だ。
化学元素がすべて同じであるかのように装って、ロケットを月に運んだのはそのためか?
あなたは科学の進歩について語る。
それがエジソンのやり方か?
ガリレオやコペルニクスやケプラーがそうだったのか?
同じものをどれだけ違うものに見せかけることができたかだ。
さて、あなたは誰を騙そうとしているのですか?
科学的方法とは、異なるアプローチや異なる理論を選別し、管理された条件下でそれらをテストし、違いを識別して可能な限り最良のものを選択することである。
科学的であることを公言する高学歴の人たちが、宗教や神様の言葉に関しては、コウモリが逆から入ってくるのと同じくらい盲目で、浴槽の中のボーリングの玉を見つけることができないという事実を、あなたはどう説明するのだろうか。
例えば、今日、生きている救い主がいる主要な宗教を教えてほしい。
また、創始者の遺体が見つかれば無宗教になるような宗教が今日あるだろうか?
たとえば、ひとつ挙げてみてくれ。
もしそのうちの一人の遺体が見つかれば、すべての宗教は窓から消えてしまうという、科学的な歴史的事実を無視して。
ブッダの死体が仏教の修行を妨げない理由。
ムハンマドの死体は、ムハンマド教の実践を妨げない。
孔子の死体は誰も儒教の実践を妨げない。
行方不明の死体が決め手となる宗教がこの世に一つしかないことをどう説明するのか。
みんな同じってどういう意味?
1500もの詳細な未来を予言し、それが歴史上何事もなく的中するような宗教書が手に入らないのに。
それはどんな本だ?
シャスタ』でも『ピラーナス』でも『バガヴァッド・ギーター』でも『トリパタカ』でもない。
予言者カリル・ジブランや予言者ジーン・ディクソン、予言者エドガー・ケイシーが、生まれる前に一人の人間の人生の1500の詳細を予言するような著作はない。
世界中のどの宗教も、競合するものさえない。
彼らは、イスラエルの回復、バビロンの再建、反キリストによる統一国家の乗っ取り、形成される十連合王国、携挙、再臨、二人の証人、反キリスト、獣の印、千年王国、ゴグとマゴグの戦い、アルマゲドンの戦い、怒りの小ビン、艱難、艱難の長さ、艱難の時期、艱難に関わる人物については何も預言していない。
他の宗教と聖書のキリスト教を比較すると、その結果はあからさまだ。
それ以前にも、それ以降にも啓示があり、それを読めば、全知全能であり、不変であり、無限であり、永遠であり、不変であり、全知全能である神様から責任を問われることになる。
そして、もし聖書の神の啓示が正しければ、あなたは自分の無知を弁明することになる。
聖書では「故意の無知」と呼ばれているからだ。
あなたは神様を知ることができる。
神の本質的な性質の一部である不可分の属性を知ることはできないかもしれないし、神の永遠性や神の広大さを、あなたの小さな弱い人間の心が完全に把握することはできないかもしれない。
次のパートでは、神様の伝達可能な属性について学びます。
つまり、人間が神様について理解できるように、神様が人間に伝えることのできる属性です。
天国に帰るまで、私たちはそれを完全に理解することはできないかもしれない。
完全に永遠であり、無限であり、天と地を満たし、常に無限の存在として、始まりも終わりもない神の性質。
そしてもちろん、有限の心にはこれらのことを把握することはできない。
私たちは確かに、神の伝達可能な属性、つまり神様がご自身のことを人間に明らかにされた属性を把握することはできる。
人間が理解し、把握できるものである。
次回は、神の伝達可能な属性を取り上げる。
神様の神聖さ、神様の義、神様の慈悲深さ、神様の愛、神様の誠実さ。
また、憐れみ、真実さ、嫉妬、偉大さ、完全さなど、伝達可能な属性についても。
次のパートでは、神学的な主題である神の伝達可能な属性を扱います。
このパートでは、神の伝えがたい属性について論じてきた。
もう一度復習しておこう。
まず、神様の無限性、つまり永遠性です。
次に、神の不変性。
次に全能、つまりその力である。
次に全存在、これはその巨大さである。
そして最後に、その全知、すなわち全知である。
神には栄光がある。
その名はすべての名にまさる。王の王であり、主の主である。
聖書は、人としてこの地上に現れたこの偉大な神様についてこう語っている。
全知全能の神様が、人間として崩れ落ち、人の震えで苦しみ、死んでいった。
イエスの御名によって、すべてのひざがかがみ、すべての頭がひれ伏し、すべての舌が、イエスは主であると告白すべきであり、父なる神さまの栄光のためである。
それではまた次回。
主の祝福がありますように。