ウェブ神学セミナー:第4部
2023年10月22日
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神様のみことばを学ぶ生徒の皆さん、先生方、おはようございます。
私たちは神学の勉強を続けています。
神学とは神そのもの、特に神様について学ぶ学問です。
そして父なる神様についてのレッスンが始まり、キリスト論と呼ばれる御子についての祝福が続きます。
そして、気学と呼ばれる聖霊についてのレッスン。
神学は父なる神についての学問であり、この最初の12部では神の存在について学ぶ。
バランスのとれた存在としての神様。
三位一体としての神様。
神の名前。
神の父性。
神の沈黙。
そして有名な表現である主を畏れるという表現は、神のみことばの中に何度も出てきて、多くの人々を怖がらせるが、主を畏れるという表現ほど人々を怖がらせるものはない。
この蠍座ノートでは、原理主義者をあまり怒らせないように、その表現は神への畏敬の念にトーンダウンされている。
最近では、新聞を読んだりテレビを見たりしてもわからないことがたくさんある。
そしてもちろん、聖書は常に永遠の書物であり、最新の書物であり、新しい書物である。
だから、私たちは聖書について謝罪する心配はない。
私たちはただその資料を提示し、懐疑論者の髪の毛が逆立つのを見守るだけでいいのだ。
さて、今日のレッスンは、私たちが「神の伝達可能な属性」と呼ぶものを扱う。
神の伝達可能な属性とは、神様が人間に伝えることのできる、人間が理解することのできる特別な性質を意味する。
有限な心が、神様の巨大さや永遠性、不変性を把握することはできない。
私たちは試行錯誤を試みても、常に生き続け、これからも生き続け、そこに存在し続ける存在を想像することはできない。
有限の頭脳である自分には神の本質を把握することも理解することもできないのだから、神様は存在しないのだ。
ガラガラヘビのガラガラを説明できない2歳児が、ガラガラヘビは存在しないことにして、ガラガラヘビの巣穴で遊んでいるようなものだ。
教育を受けていようがいまいが、それは同じことなのだ。
さて、ここでは伝達可能な属性について話す。伝達可能というのは、神様が伝達できるという意味だ。
その第一がこれだ。
神様は聖なるお方である。
例えれば、私たちが神様とは違う罪深い存在であることを理解することができる。
神様が国や人々にどのように対処されたかを学ぶことで、私たちはそれを理解することができる。
神様が罪に対してどのように対処されるかを学ぶことで、私たちはそれを理解することができる。
必ずしも聖書を持っている必要はないが、神聖さについての神様の姿勢を理解するのには役に立つ。
さて、聖書にはこうある。
あなたがたは聖なる者となりなさい。(わたしが聖なる者だからである。)
聖なる御名を持つ主なる神様は、嫉妬深い神様です。
特に出エジプト記15章11節とイザヤ書6章3節に注目してほしい。
神々のうちで、主よ、あなたに似た者はだれか、聖さに輝き、賛美に恐れ、不思議を行う者はだれか。(出エジプト記15:11)。
そして、ある者は別の者に叫んで言った、「万軍の主は聖なる、聖なる、聖なる。(イザヤ6:3)
しかし、このような聖句がなくても、神様は人を顧みない方であり、神様は罪を扱われる方だということはわかるだろう。
ある人が言ったように、「戦争はここでの罪に対する神様の裁きであり、地獄はここでの罪に対する神様の裁きである」。
そして、これは単純に、もし人が目を開いて、病院、刑務所、精神病院、離婚裁判で多くの時間を過ごせば、神様は罪を我慢しないという結論に達するだろう、という意味である。
すべては相対的なものであり、要因は複雑であり、常に正確にどうなるとは言い切れないと考えるのであれば、当然、その罪に対する神様の裁きではなく、単なる事故や不運、悲劇的な出来事だと言い逃れる方法を見つけることができる。
ZとS、SとTの区別がつく人なら誰でも、正直であれば、道徳的に正しいことと間違っていることの違いがわかるはずだ。
神様は聖なるお方だ。
分かった。神様の次の伝達可能な属性、道徳的属性、それは義である。
神様は正しい。
詩篇116編5節とエズラ記9章15節をお読みください。
主は恵み深く、正しく、そう、私たちの神様はあわれみ深い。
イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。見よ、私たちはまだ逃げ延びたままです。(エズラ記 9:15)
新約聖書において、神様の義はローマ人への手紙の著者の偉大な教理論である。
ローマ人への手紙では、多くの牧師が神様の義について論じている。
ローマ人への手紙10章には、こんな一節がある。
なぜなら、彼らは神様の義を知らず、自分の義を確立しようとして、神様の義に身を委ねていないからである。キリストは、信じるすべての人にとって義となる律法の終りだからです。(ローマ10:3-4)
神の義はローマ書の大きなテーマである。
9章14節。
神には不義があるのか?
3章では、このことが26節まで続いて出てくることに注目してほしい。
その義を宣言するためだ。
第3章21節
しかし今、律法によらない神様の義が明らかになった。
救われていない人間が求めているのは、神様の義ではない。
人が求めているのは自分の義である。
聖書を読むと、私たちの義はすべて汚れたボロ布のようだ。
聖霊はまだ、聖人の義であると聖書に書かれている、私たちが上質な麻布と呼ぶものを作り出すのを助けなければならない。
神様は正しい。
主よ、あなたは正しい。(エレミヤ12:1)
もしあなたがそれを当然だと思っていたとしても、神様が私たちに接してくださっていることを忘れないでほしい。
私たちはしばしば、少なくとも神の摂理的な扱いに対する態度や反応において、神が不義であると考える。
私のような人間が、請求書が支払われ、健康で、胃袋に食べ物があり、背中に衣服があり、ここに座って、神様は正しい、間違いはないと言うのは一つのことだ。
車椅子に乗っている人や、腎臓の機械を使っている少女が、医者代に1万3千ドルも使ったのに、神様は正しいことをしてくださったと神を賛美し、感謝するのは別のことだ。そうだろう?
人間が間違っていて神様が正しいことを指摘できないような教育は、教育とは言えない。
ヨナのようにクジラの大学に行き、クジラのカリキュラムで卒業するよりも、神様が正しく、人間が間違っていることを教えないなら、この世の10の宇宙で学ぶ方がより多くのことを学べる。
神様は正しい。
詩篇145編17節を読みなさい。
主はそのすべての道において義であり、そのすべての業において聖である。
これがヨブ記の大きなテーマである。
なぜ義人は苦しんだのか?
神様はヨブを不当に扱ったのではないか?
ヨブが正義の人であり、神を畏れたからこそ、神様はヨブを邪険に扱ったのではないのか?
神様は真実であるが、すべての人は偽り者である。(ローマ3:4)
神様は慈悲深い。
私たちは神様についてこのことを知っている。
神様はその憐れみを人に伝えることができる。
詩篇103篇8節をご覧ください。
主はあわれみ深く、恵み深く、怒るのにおそく、あわれみに富んでおられる。
神の憐れみを経験したことのない人は誰もいない。
重要なのは、神の慈悲があなたに与えられたということだ。
神様、憐れんでください」、「神様、助けてください」、「神様、憐れんでください」、「神様、救い出してください」、「神様、助けてください」。
そして神様はあなたを助け、神様はあなたを救い出した。
しかし神様は憐れみ深いお方だ(あなたにはセカンドチャンスがある)。
主はすべての者にいつくしみ深く、そのいつくしみはそのすべてのわざの上にある。(145:9)
聖書は詩篇103篇8節にこう記している。
主はあわれみ深く、恵み深く、怒るのにおそく、あわれみに富んでおられる。
詩篇86篇15節は、神様についてのこの偉大な真理を再び明らかにしている。
しかし、主よ、あなたは慈しみに満ち、恵み深く、長く苦しみ、慈しみとまことに富む神様です。
神様の偉大な特質の一つは、その長い苦しみである。
民数記14章18節に言及されている。
主は寛容で、慈しみ深く、不義と背信を赦される。
出エジプト記34章に再び言及。
彼は罪人たちに我慢を強い、憐れみ深い。
悪い邪悪な人は、その治世を正しい者にも不正な者にも下らせる。
イエス・キリストは、神の憐れみがしばしば救いと間違われることを教えている。
神様が交通事故から救い出してくれた、あるいは病院から救い出してくれたということは、神様が自分を霊的に受け入れてくれたということであり、贖いや救いの意味だと考えていた人がたくさんいた。
神様はネヘミヤの祈りを記念として受け入れ、彼の善行を神の前の記念として受け入れた。
しかし、その人はまだ救われていなかった。
聖書はヨハネによる福音書3章36節でこう言っている。
御子を信じない者は、命を見ることができない。
ローマ人への手紙9章22節。
もし神様が、ご自分の怒りを示し、その力を知らしめようと、滅びにふさわしい怒りの器を、多くの忍耐をもって耐え忍ばれたとしたら、どうでしょう:そして、その栄光の富を憐れみの器の上に現わされたのである。(ローマ9:22-23)
だから、神様の憐れみについて語るとき、神様の怒りについて語ることも忘れてはならない。
神様は完全な存在であり、バランスのとれた存在は、ただ平和を愛し、抱きしめてキスをして、この世の地獄から逃がしてくれるわけではない。
ヘブル12:29は言う。
私たちの神様は焼き尽くす火だからです。
ナホム1章2節にはこうある。
神様は嫉妬深い。
救われない男にとって、これを理解するのは難しい。
しかし、自然人は、神のみ霊のものを受け入れない。なぜなら、それらは彼にとって愚かだからである。(1コリント2:14)
もし神様が神であり完全であるならば、どうして嫉妬するのか、救われていない人間には理解できない。
しかし、これはもちろん、人間のあらゆる性質が神においては千倍に拡大されることを理解していないことにほかならない。
結局のところ、聖書が正しいのであれば、私たちは自分の心に疑いなくこう言う。
神様はご自分に似せて人をお造りになったのであり、それが真実であるならば、人の中に見出される属性は、人の創造主の中にも見出されることになる。
どんなに100万倍に拡大しても、その激しさは想像できないだろう。
イエス・キリストがゲッセマネの園でひざまずき、罪となることを考えたときに感じた苦悩を、私の声を聞いている人間が想像できるはずがない。
そして罪深い人間のために罪となり、父の怒りのもとで呪いとなった。
主イエス・キリストは、生涯一度も不純なことを考えたことがなかった。
神様の属性は何十万倍にも拡大される。
そして嫉妬は、悪いこと、邪悪なことに転化することもあるが。
怒りは残酷であり、怒りは非道である。
しかし、嫉妬と恐れは人間がこれまでに感じたことのない最悪の感情の2つであり、計り知れない損害をもたらすが、それでも嫉妬の前に誰が立ち向かえるだろうか。
さて、私自身のことを説明しよう。
サタンが神様の玉座をねたんだのは嫉妬のせいだ。
あなたがたも、われわれと同じように弱くなったのか。あなたの威厳は墓に降ろされ、あなたのバイオリンの騒音は、あなたの下に広げられ、ミミズがあなたを覆う。ルシファーよ、朝の子よ、あなたはいかに天から堕ちたことか!いかに地に切り倒されたことか!あなたは心の中で言った、「私は天に昇り、神々の星の上に私の王座を高くしよう:わたしはまた、会衆の山、北のかたわらに座す:わたしは雲の高みの上に上り、いと高き方のようになる。(イザヤ14:10-14)
カインがアベルの脳を打ち抜き、彼を殺人者にしたのは嫉妬だった。
ヨセフの兄弟たちが彼を奴隷としてエジプトに売ったのも嫉妬だった。
神様がモーセを指導者として選ばれたのに、兄弟たちがモーセのもとで反逆を起こしたのも嫉妬だった。(民数記15章)
サウルがダビデを殺そうとしたのは、神様がダビデとともにおられることを知っていたからだ。
また、ヘロデは祭司長たちがイエス・キリストを十字架につけるために彼に引き渡したことを知っていたと言われている。
彼らはキリストの権威と力とみことばの知識に嫉妬したのだ。
彼らはキリストの聴衆、つまりキリストの話に耳を傾ける人々に嫉妬した。
彼らは、キリストが永続的な結果をもたらす能力に嫉妬したのだ。
なぜ中国やアフリカやヨーロッパが、アメリカが国際的な社会主義国になることを望むのかわかるだろうか?
彼らの福祉、金、権力、産業、生活水準に嫉妬しているからだ。
彼らは資本主義システムから得たのではない。
神様と神の言葉を敬うことによって手に入れたものだ。
そして、神様と神の言葉を敬うことをやめたとき(それはすでに始まっている)、彼らはこの地球上のどの異教の国よりも悪くなる。
しかし、嫉妬は本物の動機だ。
正しいことを守るための模範として与えられたのだ。
パウロがあなたに嫉妬していると言うとき、彼は「私は神的な嫉妬をもって嫉妬している」と言った。
聖書がこう言っている。
私たちのうちに宿っている霊は、ねたむことを欲するのか。
それは、聖霊が彼の私有財産を心配しているということだ。
家庭を維持するのは(部分的には)嫉妬である。
そして、男が妻に誰がちょっかいを出しても気にせず、女が夫に誰がちょっかいを出しても気にしないなら、それはもう家庭ではない。
それはもう家庭ではない。
今、あなたは事実に直面しなければならない。
神様は嫉妬深い。
神様は子供を愛し、守りたいのだ。
子供の安全と福祉に嫉妬しない親は、普通の親ではない。
聖書が「自然な愛情」と呼ぶ普通の親であれば、親のやり方ではなく、自分のやり方で子供をしつけようとする世間に憤りを感じるものだ。
神様は憐れみ深い方ですが、神は焼き尽くす火であり、その怒りであり、神は嫉妬深い神です。
ヨシュア記24章19節を読もう。
ヨシュアは民に言った、『主は聖なる神であり、ねたみ深い神である。
神様は愛です。
同じ神様がおっしゃった。
復讐はわたしのもの、わたしは報いる、と主は言われた。(ローマ12:19)
わたしの怒りに火が燃え上がり、地獄の底まで焼き尽くすからである。(申命記32:22)
と言った神様と同じだ。
幼な子を許し、わたしのもとに来ることを禁じてはならない。(マタイ19:14)。
と言った。
蛇ども、毒蛇の世代よ、どうして地獄の苦しみから逃れることができようか。
と言った神様と同じだ。
心の清い人は幸いである。(マタイ5:8)
と言った。
あなたがたは、自分の父である悪魔のものであり、自分の父の欲望を行うのです。(ヨハネ8:44)。
だから私たちは神様を愛として語るのであって、そこに多くの時間を費やす必要はない。
クリスチャンの中には、悪魔のような生き方をしていたら神様は指一本触れないだろう、主はあなたを殺すだろう、と考えている人もいる。
ローマ人への手紙8章13節にはこうある。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ。
クリスチャンに向けて書かれた
第一ヨハネ5:16
死には罪がある。
クリスチャンにとって。
神様は愛です。
第一ヨハネ4:8
神様は愛なのだから。
しかし、愛は神様ではない。
第一ヨハネ3:16は、神様は愛だと教えている。
神様は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されたのである。
ここに愛があります。私たちが神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛してくださったのです。(第1ヨハネ4:10)
神様がこの世に示されたすべての愛は、カルバリーで明らかになった。
だから、私たちはこう読む。
だから、憐れみを示すのは、望んだ者でもなく、走った者でもなく、神様なのです。
(ローマ9:16)
神の愛と神の憐れみを求めるなら、カルガリーに行きなさい。そこでは、神の怒りと神の血が同じ場所にある。
実際、使徒言行録20章28節では、神様の血と呼ばれている。
彼は自らの血で買い取った。
このことについては、キリスト論とホマート論を学ぶときにもっと詳しく学ぶことにしよう。
現在、私たちは神様の伝達可能な属性について話している。
その一つは愛である。
この愛と憐れみは、罪に対する神様の怒りが現され、義に対する神様の嫉妬が現されるのと同じ場所で、血に染まった十字架に刺し貫かれた血まみれの木の男性に示される。
そしてまた、神の愛とこの援助が、神の条件を満たさずに得られると思うなら、あなたは欺かれていると書いてある。
だから、憐れみを示すのは、望んだ者でもなく、走った者でもなく、神様なのです。(ローマ9:16)
神様がどう憐れんでくださるか、自分で決めることはできない。
憐れみを示すのは神様であり、神様はあなたに憐れみを示す場所を示された。そして、あなたがその場所(十字架)に来るまでは、神様の怒りの剣があなたに向けられ、神様はその剣を捨てられない。
あなたが、世の罪を取り除く神の子羊の無力な血を流す背中に剣を抜かれた場所に来ない限り。
申命記7章9節、特に神様の誠実さについてお読みください。
それゆえ、あなたがたの神、主は神であり、彼を愛し、その戒めを千代に至るまで守る者と契約とあわれみを守る忠実な神であることを知れ。
そして申命記32章4節。
彼は岩であり、その業は完全であり、そのすべての道はさばきである。
そして、新約聖書には、神の誠実さに関してクリスチャンに約束された偉大な約束がある。
コリントの信徒への手紙第一の1章8節から9節を読んでみよう。
私たちの主イエス・キリストの日に、あなたがたに罪のない者となるために、あなたがたを最後まで堅くされる方です。神様は忠実な方であり、あなたがたをその御子イエス・キリストの交わりに召してくださった方です。
私たちは誠実ではないかもしれない。
でも、神様に感謝します。
神様は忠実です。
そして、私たちを最後まで確証してくださる。
ピリピ1章6節にこうある。
あなたがたのうちに良いわざを始められたかたは、イエス・キリストの日までそれを成し遂げられる。
私たちは神様の誠実さを知ることができる。
私たちはそれを試すことができる。
私たちは神様の誠実さについて学ぶことができます。
私たちは神の約束を主張することができる。
神を試すことができる。
テモテ第二の手紙2章13節に、次のような言葉がある。
私たちが信じなくても、彼は忠実であり続ける。
この途方もない約束を見てほしい。
人がイエス・キリストを信じて救われ、新しく生まれ変わった後、無宗教者や懐疑論者が彼を説得するまで、彼に話し続けるという約束だ。
それは何の違いもない。
私たちが信じなくても、主は忠実でいてくださいます。(2テモテ2:13)
いいか。
もしあなたが救われたことがあるなら、あなたはまだ救われている。
もしあなたが生まれ変わったなら、神様はキリストの裁きの座であなたを否定することはできない。
キリストが生まれ変わった神の子を指差して言うことなど、この世にはあり得ない。
不義を行う者たちよ、私から離れなさい。(マタイ7:23)
彼はあなたを知っていたとき
神様がキリストの体のメンバー(聖霊がキリストに入れた人)を取り上げて、「キリストの体から出て行け」なんて言えるはずがない。
ご自身を否定することはできないからだ。
これが神様の誠実さなのだ。
あるいは、この歌にあるように、「神、わが父よ、あなたの忠実さは偉大である。
神様は誠実です。
私たちはこのことを神のみことばの中で学ぶことができる。
神のみこころを行おうとする者があれば、その人は教義を知ることができると、その書には書いてある。
神様は誠実です。
問題は、あなたが彼を試していないことだ。
わかった。
神様の伝えられる属性には、その忠実さ、その寛容さが含まれる。
神様は憐れみ深い。
イスラエルの神、主よ、天の上にも、地の下にも、あなたのような神はおられず、心を尽くしてあなたの前を歩むあなたのしもべと契約し、あわれみを守ってくださいます。(列王記上8:23)
神様は良い方だ。
それゆえ、主は罪びとに道を教えてくださる。(詩篇25:8)。
神様は真実です。
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王である。(エレミヤ10:10)
神様は朽ちることがない。
そして、朽ちることのない神様の栄光を、朽ちることのない人間や、鳥や、四つ足の獣や、這うものに似た像に変えてしまったのです。(ローマ1:23)。
神様は慈悲深い。
主は恵み深く、正しく、そう、私たちの神様はあわれみ深い。
神様は目に見えない。
永遠の王、不滅の王、目に見えざる王、唯一の知恵ある神、誉れと栄光がとこしえにありますように。アーメン。(1テモテ1:17)
神様はまっすぐだ。
それゆえ、主は罪びとに道を教えてくださる。(詩篇25:8)。
神様は完璧だ。
だから、あなたがたも、天におられるあなたがたの父が完全であるように、完全でありなさい。 (マタイ5:48)。
そして、それを巻き上げ、キャップストーンを乗せる。
彼のような人はいない。
私のような者は、全地にいない。(出エジプト記9:14)。
私たちの神様は偉大な神様であり、王の王であり、主の主であり、すべての名にまさる御名をお持ちです。
私たちの神様が神の中の神であり、創造主であり、贖い主であり、救い主であるという事実を踏まえて。
私たちは神を愛し、神を礼拝し、神を恐れ、神に仕え、神に従わなければならない。
主を畏れることは知恵の初めである。(箴言9:10)
来週のパートでは、バランスの取れた存在としての神様を取り上げる。
神様の伝達可能な属性について詳しく説明します。
神の神聖さ。
神の愛。
慈悲深さ。
そして誠実さ。
来週まで。
主の祝福と良き日を。