ウェブ神学セミナー:第6部
2023年11月5日
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神様のみことばを学ぶ学生、教師の皆さん、おはようございます。
神学セミナーの6回目は、神様の性質についてです。
前回は、聖句を引用し、神様の聖さ、愛、誠実さといった神様の属性についてお話ししました。
先に述べたように、神様はバランスの取れた存在です。
現代人の多くは神様を偏った見方で見ており、神様の愛を強調しすぎて、神様が聖であると同時に正義であることを忘れています。
神様の正義と聖さは、救われていない世界では決して人気のあるテーマではありません。
その理由はよくわかります。
もし人間が神様のみことばにあるような存在であるならば、生まれながらにして、自分自身の聖さ、自分自身の正しさ、自分自身の善を批判するものに腹を立てるでしょう。
そして、この創造主の義と聖さを誇示し、自慢するような書物には、無意識のうちに憤慨するようになるのです。
人間が望んでいるのは、アインシュタインの相対性理論に従って、塵雲や星雲やエネルギッシュな力場を通して、物質が永遠から自動的に創造されることです。
使徒言行録第17章を思い出してください。世界で最も教養のある人々がパウロに反対したのは、彼が個人的な説明責任と判断を教えたという事実でした。
彼らはそれを拒絶したのです。
彼らが嫌ったのは、パウロが使徒言行録17章で、アテナイの学者たち、つまり当時のギリシャの学者たちにこのメッセージを伝えたときでした。
パウロは「神様はすべての人に、裁判官を死者の中からよみがえらせたという確信をお与えになりました。
簡単に言えば、パウロは、義の基準は、神様の義によって裁かれる人になると言ったのです。
このような話を始めると、宗教家たちは口をつぐみ、自分たちの聖餐式や宗教、善行や黄金律について泣き言を言い始めます。
人間の本性はそういうことに腹を立てるものです。
自分の運命が土の中で腐敗していくことだと言われるのは好きではありませんが、それが彼らの最後なのです。
もし信じないなら、葬儀屋が遅かれ早かれ証明してくれるでしょう。
だから、神様は聖であり、神様は正義であり、神様は義であるという話をするのです。
自分たちは聖であり、正義であり、神の憐れみを受けるに足る義人である、と考えている宗教家たちが騒ぐことは予想できます。
もちろん、そんなことはありません。
聖書にはこうあります。
律法の行いによって、彼の目に義とされる者はありません。(ローマ3:20)
もし業によって天国に行けるのであれば、イエス・キリストが十字架上で死なれるために来られた目的はないでしょう。
そしてこれらの人々は、第一コリント13章にある黄金律と十戒について祈りました。
カルバリーでイエスは罪と呪いとに変えられ、自分では救いを得られない罪人の身代わりとなって拷問にかけられ、死にました。
イザヤ書53章。それは、命の創造者であり、私たちの主イエス・キリストの神様であり、父である神様によって啓示された神の記録です。
しかし、神の神聖さや神の義について語り始めると、自分の義に救いを託している独善的な人間を深く動揺させることになります。
それができないから。
イザヤ書64章6節にはこうあります。
私たちの義はすべて、汚れたぼろ布のようなものです。
ですから、前編ではこれらの事柄のいくつかを取り上げました。
神様の神聖さについて話したとき。
さて、今日はバランスの取れた存在としての神についての議論の締めくくりとして、神の憐れみと神の正義についてお話しします。
まず、ダビデは詩篇103篇8節でこう言っています。
主はあわれみ深く、恵み深く、怒るのにおそく、あわれみに富んでおられます。
申命記4章31節にはこうあります。
あなたの神様、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てられないからです。
その少し後、彼はイスラエルを脇に置きました。
もし、あなたが彼の言ったことに従おうとするなら、彼はあなたとの約束を守り、あなたを見捨てず、憐れみを示すでしょう。
罪に対する罰として毎回苦痛と死を与える代わりに、主は憐れみ深く、罪人を赦し、多くの祝福を与えてくださることに注目してください。
健康的な快適さと地上の喜び、これらは救われた者にも失われた者にも与えられます。
神様が何度美味しい食事を与えてくださったか分かりませんが、食卓で頭を下げて神様に感謝することもなかった人たちがいます。
神様が何人の人を事故車から救い出してくださったかわかりません。
神様が、馬に投げ飛ばされたり、雪崩に巻き込まれたり、地震や山火事や火事に巻き込まれたりして、非業の死を遂げずにすんだ人たちを何人救ってくださったことか。
まったくわかりません。
私が知っているのは、神様は憐れみ深く、何度でも何度でも罪人を赦してくださるということだけです。
それなのに、主は惜しみなく、慈悲深く、こう言われるのです。
たびたびとがめられる者は、その首をかたくなにする。(箴言29:1)
神様の憐れみの中には、神様は多少のことは我慢して憐れんでくださるけれども、永遠に我慢してくださるわけではないという警告が常にあります。
神様の憐れみは、神様が約束を守り、救われた罪人を惜しまないという意味で、永遠に続きます。
マタイによる福音書5章45節にはこうあります。
神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも不正な人にも雨を降らせます。
神様は無神論者に良い作物を与えるでしょう。
どういう意味ですか?
何の意味もありません。
ある無神論者が伝道師に手紙を送ったことがあります。伝道師は、私は日曜日に植え、日曜日に耕し、日曜日に収穫します。
それをどう説明するのですか?
神様は10月に清算なんかしませんよ。そうやって清算するのです。あなたは100回罪を逃れても、白い玉座の裁きからは逃れられません。
聖書にはこうあります。
悪い行いに対する判決が速やかに下されないので、人の子らの心は、悪を行うためにすっかり定まってしまうのです。(伝道者の書8章11節)
悪事に対する判決はすぐには執行されないので、そのように設定されているのです。
今、神様は主権者であり、ご自分の憐れみを誰に示すかを選ぶことができます。
ローマ人への手紙9章15節
わたしは憐れみを与える者には憐れみを与え、憐れみを与える者には憐れみを与えます。
神様の慈悲は大勢の人々に示すことができます。
出エジプト記20章6節にはこうあります。
わたしを愛し、わたしの戒めを守る何千もの者(彼の条件を聞く者)に憐れみを示します。
今の時代、神様はイエス・キリストのもとにやってきて、救いを託す人々に憐れみを示すことを選ばれました。
しかし、永遠の憐れみ、永遠の天国、永遠のいのち、永遠の喜びは、神様が彼にしなさいと言われたことをする人にだけ与えられるのです。
さて、神様の憐れみはなんと偉大なことでしょう。
詩篇103篇11節にはこうあります。
天が地の上に高くあるように、主を畏れる者に対する主の慈しみ(条件)は大きい。
繰り返しますが、主の慈しみはとこしえからとこしえまでです。
彼を畏れる者の条件
お知らせ
主を畏れることは知恵の初め。(箴言9:10)
主を恐れることは知恵の初めです。神を恐れることを学ばず、地獄に行くことや裁きを考えていないとは言わせません。あなたはそれを考えず、神の肯定的な側面、神の憐れみだけを扱っているのです。
もしあなたの神様が愛と憐れみだけを持っていて、他には何も持っていないのなら、その神様は不完全です。
なぜか分かりますか?
なぜなら、もし彼に愛と慈悲があれば、不倫変態獣姦恐喝横領嘘つき殺人悪態不正行為恐喝を愛さなければならないからです。
正直さ、純粋さ、良識、勇気、正義を愛するのと同じ程度に、彼らを愛さなければなりません。
今、あの大きな合成された統合受動相対神様がいます。
それは主イエス・キリストの神父ではありません。
それは神の言葉の中でご自身を現す神様ではありません。
それは福音書とは別の神様です。
それは神様ご自身の啓示とは何の関係もありません。
それは、神様が自分の悪魔的行為に干渉しないように、人間が神様を自分の作りたいイメージに似せて作ろうとしているのです。
再び詩篇32:10。
主に信頼する者は、慈しみに包まれます。
そして、あることを学びます。
救われていない、キリストを拒絶した罪人であっても、この世で神様の憐れみを体験できることを学びます。
神様の慈悲は、神様が人間に伝えることのできる属性のひとつです。
しかし、永遠の憐れみ、永遠に続く主の憐れみとなると......。
これは、肉において顕現された神様である主イエス・キリストのお姿において、カルバリーにおいてのみ起こることです。
そして神様は、御子を信頼し、御子を受け入れる罪人に対して、永遠の憐れみを示そうと決意されています。
そして、悔い改めた罪人がイエスのもとに赦しを求めに来るとき、彼は功徳を主張するのではなく、主の憐れみに身を委ね、救われていない人が神のもとに救いを求めに来るとき、彼は正義のために来るのではなく、憐れみのために来るのです。
しかし、イエスはそれを聞いて、彼らに言われました。しかし、あなたがたは行って、その意味を学びなさい。(マタイ9:12-13)。
出て行って、この意味を学んできてください。
どういう意味ですか?
マタイによる福音書9章13節を引用します。
わたしは正しい人を呼ぶために来たのではなく、罪人を悔い改めて呼ぶために来たのです。
あなたは義人ですか?それなら邪魔をしないで、罪人が救われるようにしてあげなさい。
聖書はローマ人への手紙5章8節でこう言っています。
神様は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったという点で、私たちへの愛を称賛しておられます。
ローマ人への手紙5章6節
私たちがまだ力なくしていたとき、キリストが不敬虔な者たちのために死んでくださったのです。
あなたは不品行ですか?あなたは罪人ですか?
そうでなければ、聖書はあなたについて、あなたは罪人の道に立っていると言っています。
聖書は、あなた方について、神の国に入らず、入ろうとしている人たちが入るのを妨げていると言っています。
聖書は、あなたについて、あなたがつまずき、キリストを見つけようとしている人々をつまずかせると述べています。
罪人が赦しを求めてイエス・キリストのもとに来るとき、彼は功徳を主張するのではなく、主の憐れみに身を委ねるのです。
彼は自分の義ではなく、イエス・キリストである神様の義を主張します。
そして、それを生きるチャンスを嘆願することもなく、自分の人生を指し示すこともないのです。
神様、罪人の私に憐れみを」と。
旧約聖書の4分の1近くを書いた有名な罪人の何人かは、あるとき、「神様、あなたのいつくしみに従って、わたしをあわれんでください」と言いました。
神様は憐れみ深い方で、神様の義と神様のいつくしみを信じて恐れおののきながら神様のもとに来た人が、神様から断られたことは一度もありません。
そして主イエス・キリストは、罪人たちにこのような開かれた招待状を差し出されたのです。
わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出しません。(ヨハネ6:37)
そして、主イエス・キリストは二千年もの間、永遠の十字路に立って人を招いておられました。
彼は言います。
労苦している者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。わたしのくびきは軽く、わたしの荷は軽い。(マタイ11:30)
彼はある独善的な宗教家たちに言いました。
あなたがたは、いのちを得るために、わたしのところに来ようとしないのです。(ヨハネ5:40)
そして、キリストの再臨を祈る前の聖書の最後の招きにはこうあります。
そして、誰でも望む者には、いのちの水を自由に飲ませなさい。(黙示録22:17)。
神様は慈悲深い。
そして最後に、神様は公正です。
モーセは言いました。
まことの神、不義のない神、正しく正しい神。(申命記32:4)
とデビッド。
主のさばきは真実で、全く正しい。(詩篇19:9)
宇宙の神様は正義で正しい方であり、一人ひとりに正しい裁きを下されます。
アブラハムは言いました。
全地の審判者は、正しいことをしてはならないのですか。(創世記18:25)。
あなたが正義を望むなら、彼は必ずそうするでしょう。
もし、神様があなたに帳尻を合わせて、あなたの望みを叶えてくれることを望むなら、私は保証します。
聖書にはこうあります。
その行いに応じて、すべての人に報いられる方です。(ローマ2:6)
ソロモンは言いました。
神様は、良いことであれ、悪いことであれ、すべてのわざを、すべてのひそかなものとともに、さばきにかかられます。(伝道者の書12章14節)
神様は公正で、間違いを犯しません。
正しい神様、救い主。(イザヤ45:21)
神様は正しく義であり、聖なるお方ですから、そのように行動されるはずです。
もしあなたの罪が罰せられるに値するなら、主はそれを知っておられます。
もしあなたが、ちっぽけな独善を神様の義に逆らわせるなら、もしあなたの牧師がそうでないなら、それを知っている人を教えてあげましょう。
神様はそうです。
そして、もしあなたが立ち上がって全能の神に向かってこぶしを振り、自分の黄金律や十戒やイスラエルから盗んだものすべてを自慢し、自分の義がイエス・キリストの義に匹敵することを証明しようとしているなら、彼を信頼する必要はないでしょう。
天国に入ることを期待しないでください。
サムエル記上2章3節にはこうあります。
主は知識の神様であり、主によって行動が量られます。
神様のご性質が私を悔い改めに導きます。神様はいつでも正しく、すべてのことを最終的に裁かれる公正な方です。
ですから私たちは、バランスの取れた存在としての神様と、その属性について学んだのです。
神様は聖なるお方です。
神様は愛です。
神様は誠実です。
神様は慈悲深い。
神様は正義です。
私たちの神様は焼き尽くす火です。
さて、神様はどのようにして愛であると同時に完全性を求めることができるのでしょうか。
憐れみ深く、同時に罪を犯した罪人の面倒を見るなんて。
その答えは十字架にしかありません。
この地球上のどんな作品体系にも見出すことはできません。
そして、救済の教義であるソテリオロジーについて話し始めると、こうなります。
ヤコブ書2章と使徒行伝2章の有名な箇所を調べます。
この2つの聖句は、神のみことばの他のどの聖句よりも多くの宗教家を地獄に突き落としたでしょう。
聖句を引用して地獄に行きたいなら、ヤコブ2章、使徒言行録2章、山上の説教が最適です。
なぜなら、どれも十字架の血の贖罪を扱っていないからです。
ゴルゴダには、罪に対する神様の怒りと、罪を犯した中心に対する神様の憐れみの両方が表現されています。
ですから、神様の属性について語るとき、私たちはカルバリーで2つのことを学びました。
私たちはまず、神様が罪人を愛し、救いたがっておられることを学びます。
神様は、罪人が自分自身を正当化できないことを知っておられるにもかかわらず、罪人を正当化したいと願っておられるのです。
私たちは、神様が罪人の前で絶対的な完全な義を示されることを望んでおられることを学びます。
そして私たちは、神様ご自身は罪がないにもかかわらず、人間の苦しみや痛み、誘惑、悲しみ、病気を喜んでご自分の身に引き受け、罪ある者の罰を負われることを知ります。
あるレベルでは、人間の意志と神様の意志が交差する場所があります。
その十字架があるところでは、人間の権利が神様の正義によって抹殺されるのです。
その十字架には、公平で公正で均等に配分された神の慈悲と、十字架につけられた救い主の無力な背中に垂直に降り注ぐ神の怒りがあります。
完成された血の贖罪を離れては、この時代に救いを見出すことはできません。
私は血まみれの人たちと話しているんです。
肉の命は血の中にあります。(レビ記17:11)
それをトラブル・バイト病と呼ぶのか、ホジキン病と呼ぶのか、白血病と呼ぶのか、他の何かと呼ぶのか。
あるいは関節症、コレステロール、動脈硬化、血栓など、お好きなように呼んでください。
その血液が機能しなくなったら、あなたは死んでしまいます。
ですから、私が罪のための血の贖罪について話すとき、私は誰に対しても話しているのです。
あなたがローマ・カトリックの司祭であろうと、ユダヤ教のラビであろうと関係ありません。
仏教かヒンドゥー教の教祖。
あなたが聖書学校に行ったとか、バプテスト派の説教者だとか、メソジスト派の執事だとか、長老だとか、そんなことは気にする必要はありません。
皆さんは同じ船に乗っています。
聖書にはこうあります。
肉の命は血の中にあります。(レビ記17:11)
聖書にはこうあります。
違いはありません。すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けられないからです。(ローマ3:22-23)
そして罪に関しては、医者と弁護士、ヤク中とポン引き、売春婦と浮浪者に違いはありません。
あなた方の中には騙されて、学歴やお金で立派になったと思っている人もいるでしょう。
結局のところ、神の言葉の絶対的な真理を前にして。
それはどういうことですか?
何もないに等しい
聖書には違いはないと書かれています。
そう書いてあれば、そういうことです。
あなたが学歴やお金や宗教的な立場の違いで自分は違うと思うことは、私には関係ありません。
聖書にはこうあります。
神様には、人を顧みるところがないからです。(ローマ2:11)
カルバリは、すべての人を罪人に準え、神様の息子さえも罪人として含む、共通の地平です。
聖書を読むと、イエス・キリストは背信者と一緒に数えられたとあります。
彼は背信者とともに数えられたのです。(イザヤ53:12)。
そして、洗礼者ヨハネのミニストリーで罪人が水に浸かっているところに来て、ヨハネが止めようとしたのです。
イエスは言われました。
このようにして、私たちはすべての義を全うするのです。(マタイ3:15)
神という存在と性質を理解するためには、カルバリー(十字架)を研究しなければなりません。
私たちは主イエス・キリストの死を研究しなければなりません。
私たちは詩篇22篇と一緒に過ごさなければなりません。
イザヤ書53章の時間。
もしあなたがユダヤ人で、新約聖書を信じないなら、出エジプト記12章を読んでください。詩篇110篇。詩篇22篇創世記12章イザヤ書53章。ゼカリヤ書10章、11章、12章。
もしあなたがカソリックかプロテスタントで、新約聖書を信じるなら。
ローマ人への手紙第五章、第六章、第七章、第八章、第九章、第十章を読んでください。
エフェソの信徒への手紙一の二と三を読んでください。
コロサイの信徒への手紙二3章と4章を読んでください。
そして何よりも、新約聖書のヨハネの福音書に時間を費やしてください。
カルバリは、律法のすべての要件を満たすことによって神様の神聖さと正義を満たし、罪人が合法的に天国に入ることを許可します。
あるいは、使徒の働き13章38節と39節でパウロが言っているように。
この方によって、あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられました。この方によって、信じる者はみな、モーセの律法では義とされなかったすべてのことから義とされるのです。
もう一度。
キリストは、私たちのために呪われた者として、律法の呪いから私たちを贖ってくださいました。
イエス・キリストの十字架の死は、ユダヤ人に与えられた儀式律法だけでなく、ローマ人への手紙13章とコリント人への手紙第二3章から完全に明らかなように、十戒の道徳律法からもあなたを義とします。
もしあなたが、ローマ人への手紙ではなくヤコブの手紙に時間を費やしているために、信仰と行いによって救われていると考えている人の一人だとしたら。
もしあなたが欺かれた独善的な罪人の一人で、業による救いを証明するために、いつも新約聖書のユダヤ教的な部分に行っているのなら、あなたには何の関係もありません。
ローマ人への手紙13章と第二コリント人への手紙3章を読んでみてください。
そして、イエス・キリストが十字架で死なれたときに、9つだけでなく10つすべての戒めを学びなさい。
クリスチャンはもはや律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるのです。
救われた神の子でも、正しく生きないとどうなるか、聖書にははっきりと書かれています。
しかし、それは決して彼の贖罪や救いとは関係ありません。
キリストが "終わった "と言われたとき、彼の贖罪と救いはカルバリーで完了しました。
そして、イエス・キリストがカルバリの十字架で死なれたとき、イエス・キリストは、罪人の代わりに死んで、公正で正しい人生と完全な血の贖いを求める聖なる神からの聖なる要求を満たしたのです。
このセッションを終えるにあたり、神様があなた方がそう思えるように助けてくださいますように。
神様が、キリストが不正な者のために正しい者として死なれたことを明らかにしてくださいますように。
神様との出会いをもたらしてくれるかもしれません。
これで父なる神様お一人についてのレッスンは終了です。
そして次のレッスンでは、三位一体、つまり神格について学びます。
これで、神様の伝達可能な属性と伝達不可能な属性についてのレッスンは終わりです。
次回は、三位一体の研究における神学についてさらにお話ししましょう。
それまでは、主の祝福がありますように。